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家に向かって走っている間、ユメちゃんはとても静かだった。いつもは鼻歌を唄いながら危ない運転をするのに、今は運転すらも大人しい気がする。
住宅街に入ると、風に揺れるご近所さんの洗濯物が見えはじめた。キャラクターもののバスタオル、水色の布団カバー、お昼にやっているニンニクのCMでおじいさんが着ているものそっくりな白のタンクトップ――。ぼくが洗濯物を見ている横で、ユメちゃんは呟いた。
「――……男の言うことなんて大半が嘘だと思ってたはずなのに、どうして信じちゃってたんだろう。私だけ特別扱いされてるんじゃないかなんてさ、……馬鹿みたい」
なんで好きになったんだろう。
ぼくたちの家――ロシアンブルーの毛色とそっくりな壁が見えると、ユメちゃんは減速し、いつもより丁寧に駐車した。
ムギちゃんは既に帰ってきていた。朝よりも明らかに元気になっていて、かんよー植物の葉っぱについているホコリを、ひとつひとつ拭きとっている。ママさんたちは、まだ帰ってきてないらしい。
「おかえりー」
無言でリビングの扉を開けたユメちゃんに気付いたムギちゃんは、いつも通りの無邪気な笑顔を見せた。それから、なんで私の服を勝手に着てるのよ、と抗議の表情をしてみせる。――彼女はまだ、何も知らない。
「もしかしなくとも、また勝手に私の部屋に入ったの? 止めてって言ってるのに」
「…………」
「そのパーカー、ちゃんとアイロンしてから返してね、皺になりやすいから」
ユメちゃんは返事もせず、ぼくの入った護送車をゴトリと床に置いた。そんな様子を見ながら、ムギちゃんは「私も今度、夢の服を借りてみようかな」なんて冗談を言って笑う。ユメちゃんはそれにも返事をしない。
「なんかね、風邪じゃなかったみたい。病院で貰った薬飲んだら、すぐに熱も下がっちゃった。……そうだ、お母さんたちと出会わなかった? もう帰ってくるって、さっき電話があったんだけど」
やっぱりというか、ユメちゃんは答えようとしない。無言のまま護送車の蓋を開けてぼくを引っ張りだす、その顔は無表情のままだ。なんとなく怖くなったぼくは、ユメちゃんたちとは少し距離を置けるようにと、ダイニングテーブルの下に潜り込んだ。しっぽを踏まれないよう身体に巻きつけて、低い体勢でユメちゃんを見上げる。ムギちゃんは不思議そうに、ぼくとユメちゃんを見比べた。それから、質問を重ねた。
「夢? 何かあったの?」
その言葉は、ユメちゃんの顔に怒りを生んだ。怒る相手を間違えているということに、ユメちゃんもきっと気付いているだろうけど。叫びだしそうなユメちゃんの表情を見て、ぼくは耳を伏せた。
「……あんた、根岸先生と仲いいの?」
思いのほか、ユメちゃんは大声を出さなかった。というよりも、出そうなものを懸命に抑えたような声だった。
一方のムギちゃんは、中途半端に口を開いたまま押し黙ってしまった。彼女は、嘘をつくのが下手くそだ。感情がすぐに顔に出るし、そもそも嘘をつくタイプでもない。
ユメちゃんは大きく息を吐くと、がりがりと頭を掻いた。
「もしかして、前に紡が言ってた彼氏って根岸先生の事だったわけ? だとすれば、あんた騙されてるから」
「え……?」
「不倫なんて、したくなかったんでしょ」
ユメちゃんの言葉の意図がつかめないムギちゃんは、混乱した表情を見せる。ちょうどその時、玄関の扉が開く音がした。――ママさんたちだ。ユメちゃんたちとは正反対で、楽しそうに談笑している。というか、当たり前だけどリビングに来る。
それに気付いているのかいないのか、ユメちゃんは語気を荒げた。
「紡の大好きな根岸先生は既婚者で三歳の子供もいて、ついでに言うと私とも不倫してんのよ! なんであんたはそんなに鈍いの!?」
――そのタイミングで扉を開けたパパさんは、変な体勢のまま動かなくなった。後ろに続いていたママさんは、キリンのように首を伸ばしてこちらをうかがっている。ぼくはダイニングの下にハツカさんを連れてこなかった事を後悔した。一人と言うか一匹だと寂しいし心細いじゃないか。
ムギちゃんはユメちゃんの顔を見たまま、何も言おうとしない。多分、ムギちゃんの頭というか脳みそが、働くのを忘れてしまったんだと思う。反対にユメちゃんの言葉はどんどん加速して、ムギちゃんとその取り巻きを置いてけぼりにした。
「あの人は、あんたに嘘ついてただけ。ていうか、結婚指輪を見ておかしいと思わなかったの? 本当にあんたって、自分がそうだと思い込んだらなんでも信じるよね。他人の言う事を疑いもしないなんて、ただの馬鹿よ。男にとってはやりやすいでしょうけどね。結局遊ばれてたのよ、紡も、――私も」
ユメちゃんはダイニングの上に置かれていた郵便物を掴むと、ソファめがけて投げつけた。思ったよりも軽かったそれらは、ソファに辿り着く前に勢いを失って空中をひらひらと舞う。狩りが好きなぼくからすれば魅力的な風景だったけれど、あいにく今はそんなものを取りに行ってる場合じゃない。
ユメちゃんは明らかに泣くのを堪えていたし、ムギちゃんにいたっては今にも泣きそうだった。何も見なかった事にしようと決めたらしいパパさんは、足音も立てずにいそいそと扉の陰に隠れてしまう。逆に、ママさんはそっとリビングに足を踏み入れた。それでもユメちゃんの言葉は止まらないし、ムギちゃんはユメちゃんを止めようともしなかった。
「……なんで好きになったのよ、根岸先生の事」
あんな男、とユメちゃんは呟いた。
「キザでたらしでナルシストで明らかに女遊び激しそうで、毎回毎回自分の好きなように相手を振り回してるくせにそれをなんとも思ってなくて、あんたは気付いてなかったかもしれないけど不倫してるし不倫相手は少なくとも二人以上いるし、私たちの事だってきっと『女』というか『穴』としてしか見てないような! あんな最低な男、なんであんたも好きになってんのよ。――馬鹿じゃないの?」
耐えきれなくなったムギちゃんの瞳から、涙がこぼれおちた。彼女は先ほどから、ユメちゃんの言う事をひとつも否定しない。どんどん震えるユメちゃんの声を、ただ聞いているだけだ。
もしかしたらムギちゃんも、うっすらと気付いていたのかもしれない。ごわごわの本性に。
人間っていう生き物は、こういう時本当に面倒くさい。節操がないとか貞操がどうとか、そんなことをいちいち言うなら『きょせー』してしまえばいいじゃないか。ぼくみたいに。
ユメちゃんは額に手を当てると、絞り出すように言葉を繋げた。
「……なんで好きになったんだろ。馬鹿みたい。相手は本気じゃないって知ってたのに、自分は大切にされてるんじゃないかなんて夢見てさ。妻とは別れるつもりだなんて常套句で喜ぶような、そんな女になるつもりはなかったのに。なんであんたと二股かけられてるって分かっただけで、こんなに落ち込まなきゃいけないわけ?」
考える事を忘れ、勢いに任せて言葉を発するユメちゃんは、どんどん口が悪くなっている気がする。静かに泣いていたムギちゃんは、ようやく口を開いた。
「私だって、相手が不倫してるって知ってたら……」
言葉が、詰まった。それを咎めるように、ユメちゃんは問い詰める。充血している目は、ムギちゃんに向けたままだ。
「じゃあなに? 不倫してるって分かった今はもう、あの人のこと好きじゃないわけ?」
「……それは」
「あんた本当に馬鹿! あんな男、さっさと縁切るべきでしょ。ただの屑男なんだから」
「じゃあ、夢はそんな簡単に縁を切れるって言うの!?」
「――切ってやるわよ、あんな奴。本当になんで好きになったんだろ、本当に」
「あーあ、くっだらない!」
最後の一言を発したのは、ユメちゃんでもムギちゃんでもなかった。もちろん、ぼくでもない。ぼくたちは、声のした方へ顔を向けた。
「……ママ、今なんて言った?」
納得いかない顔で、ユメちゃん。ムギちゃんも不審な顔をしている。ママさんは堂々と、腰に両手をあてて胸を張った。
「くだらないって言ったの。夢も紡も、そんなくだらない話でよく盛りあがれるわね。そんな話なら、ママが今日観てきた映画の方がよっぽど面白かったわ!」
ママさんの言葉に、ユメちゃんもムギちゃんも、そしてぼくも、あんぐりと口を開けた。




