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ごわごわがムギちゃんと家に来た翌日、ムギちゃんは熱を出した。夏風邪、というものらしい。喉も鼻も大丈夫だけど、熱が高くて辛いそうだ。今日はムギちゃんがぼくを病院に連れていってくれる日だったけど、この調子じゃ無理だろうな。
やった、今日は爪切りがないぞ。今日は一日、ハツカさんと遊べるぞ!
――と思っていたら、後ろから両脇を抱えられた。
「はいはい、今日は紡の代わりに私が連れていってあげるからね」
余計なことを言ってきたのはユメちゃん。満面の笑みでぼくを護送車に入れようとする。ぼくは身体を左右に思いっきりひねり、渾身の力で逃げだした。
ソファに座っていたムギちゃんはそんなぼくに微笑み、よろけながらも腰を上げた。
「じゃあ夢、私も病院に行ってくるからベルをよろしくね。ママとパパは夕方まで帰ってこないって」
「二人で映画とか、なんだかんだでママとパパって仲いいよねー。私もそういうデートしたいなあ。ていうか、紡もさっさと治しなさいよ、夏風邪なんて。伝染されたら嫌だし」
「そっちこそ、ベルをキャリーバッグに入れる前に、自分の着替えを済ませた方がいいんじゃない? そんなパジャマじゃ、デートどころか動物病院にも行けないと思うんですけど?」
ムギちゃんはユメちゃんの黒いパジャマを指摘し、自分の診察券と保険証を持っているか確認すると、
「じゃあねベル。根岸先生によろしく」
ぼくに言ってもどうしようもないことを言い放ち、出ていってしまった。ちなみにネギシというのは、ごわごわの名前だ。
「……なんじゃありゃ。紡ってば、先生にも興味あるわけ? 不倫は嫌いとか言っておいて」
ムギちゃんがだまされてるなんて知りもしないユメちゃんは、腑に落ちないと言った様子だった。けれどすぐに頭を切り替えたらしい。
「服、着替えようっと」
ユメちゃんは基本的に、物事を考えるのに時間を割くのが嫌いなのだ。そんな彼女はムギちゃんについて考えるのをやめると、さっさと自分の部屋へと向かってしまった。ぼくは警戒しながらもユメちゃんの後を追う。こんな機会じゃないと、ユメちゃんの部屋に入れることはない。せっかくだから、ユメちゃんの部屋で爪とぎしておこう。ユメちゃんの部屋だって僕の縄張りだし。
ちなみにユメちゃんの部屋は常に散らかっていて……というか物が多くて、爪とぎできる場所がなかなかない。だからぼくはいつも、床に放置されている大きなぬいぐるみに爪をたてることにしている。ゲーセンで取るのに何千円かかったんだとか、今オークションに出したら二万円はする『しめじくんぬいぐるみ』だとかで毎回怒られるけど。猫のぼくからすれば、そんなに可愛くないこのキノコの希少価値なんて分からない。
自分の部屋の手前まできたユメちゃんは足を止め、けれども何を思ったのか素通りしてしまった。どこに行く気なんだろう。
「お邪魔しますよーっと」
そうしてユメちゃんは何故か、ムギちゃんの部屋に入った。何をするつもりなんだろうと後ろから見守っていると、ユメちゃんは突然ムギちゃんのクローゼットを開けて物色し始めた。それから、薄い灰色のパーカーと、何の装飾もない地味なジーンズを取り出した。
「本当は今日、紡が動物病院に行く日だったでしょ。私が紡の恰好して行ったら、先生も気付かないんじゃない? 面白そう」
…………え。
ぼくはしっぽの毛をふさふさに逆立てた。ユメちゃんがムギちゃんの恰好して病院に行くって、それはちょっとまずい。もしもごわごわが気付かずに、ムギちゃんだと勘違いしたままユメちゃんと接触してしまったら、絶対にややこしいことになる。
けれど、そうなるだろうことを知ってるのはぼくだけ。ムギちゃんはもちろんユメちゃんだって、好きな相手が姉妹で被っていることには気づいていない。
「この地味な恰好して、紡のふりして行ってみようっと。楽しみねー」
――――げ。
ぼくはなんとかそれを阻止しようと、必死になってユメちゃんに絡みついた。レディが着替えている最中だとか、そんなのはお構いなしだ。なんとしてでも、ユメちゃんがムギちゃんの恰好をするという事態は避けなければ。
ぼくは地味なジーンズを履いたユメちゃんにしがみつき、思いっきり爪を立ててやった。
「いったあ! ちょ、バカ、見てなさいよもうすぐ恐怖の爪切りなんだからね!」
ぼくの気持ちなんてちっとも知らないユメちゃんは、怒ってぼくを追い払おうとする。ぼくはなんとか着替えを中断させるために、棚の上に置かれている小物を片っ端から落としてみたり(ムギちゃんごめんね)、ムギちゃんの部屋の壁紙を思いっきり引っ掻いてみたりした(ムギちゃんごめんなさい)。けれどユメちゃんは、ぼくのそんな挙動を見ても呆れるだけで、
「掃除は後でいっか。ここは紡の部屋だから、紡がやってくれるかもしれないし」
そんなことを言うだけだった。
地味な格好に着替え終わると、今度は気ままに化粧を始める。いつものような濃い化粧ではなくて、ファンデーションと口紅、それからほっぺたをちょっと赤くしただけの簡単なものだ。それはどう見てもムギちゃんのまねをしていて、きっと人間には本物のムギちゃんに見えるだろう。
「よーし。行くよ、ベル」
ぼくはその言葉を聞く前から、ムギちゃんの部屋を飛び出していた。このままごわごわに会いにいくことになったら、本当に面倒くさいことになると思う。ぼくは基本的に、面倒くさいことが嫌いなのだ。ややこしい事に巻き込まれたうえ、ご飯を忘れられたりするし。
人間っていうのはどうしてこうも、面倒くさいことばっかりするんだろう。眠って起きてご飯食べて遊んで。それだけでいいじゃないか。
「おーい、こら」
ユメちゃんがのんびりと追いかけてくる。ぼくは慌ててリビングへと向かった。フローリングに爪をたてているせいで、カーブを曲がる度に足元でガリガリと音が鳴るけれど気にしてる場合じゃない。とりあえず逃げるか、せめて時間を稼がないと。
ぼくが逃げている間にムギちゃんが病院から帰ってくれば、ユメちゃんの恰好を見て怒るに違いない。そうしたらきっと、ユメちゃんはいつも通りの姿に戻るはずだ。
「どんだけ爪切りが嫌いなのよ。どこ行ったの?」
ぼくはテレビの裏側へと非難すると、息をひそめた。ムギちゃんの恰好をしたユメちゃんが、リビングへとやってくる。大丈夫、バレやしない。人間はぼく達よりも耳が悪いし、鼻だって利かないもの。
と思っていたら、ユメちゃんはあっという間にこちらへとやってきた。まずい、こっちに来ないでよ。そんなぼくの気持ちとは裏腹に、ユメちゃんはそっとテレビの裏側を覗きこんだ。そして、みーつけた、とニヤつく。
「ベルって本当に頭悪いよね。隠れる時はいつもここなんだもん。ほら行くよ」
――人間の頭はそれなりによくできてるんだってことを、忘れてた。
狭い場所に隠れていたせいでかえって逃げられなくなっていたぼくは、前脚を掴まれ、テレビ裏から引っ張り出された。
「あーあー、ホコリまみれじゃない。こんな所に隠れるから」
そうだよ、ぼくは自慢の毛艶を犠牲にしてまで、止めようとしたっていうのに。
ユメちゃんはそのままぼくを護送車に入れると、きっちりと蓋を閉めてしまった。こうなるとぼくに出来るのは、精々鳴いて抵抗する位だ。けれど、それすらも「うるさいなあ」と怒られてしまった。
ふてくされたぼくは、護送車の中で座り込み目を瞑った。
ユメちゃんがムギちゃんのふりをして、ごわごわに会う。そんなことするとどうなるか、知っているのはやっぱりぼくだけだった。




