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八月に入ると、夏休みなるものがある。
学校はずっと休みで、子供たちは朝から夕方まで騒がしく走り回り、一か月以上もある夏休みが短いと不満をいい、遊び呆けて宿題を忘れ、親は親で「給食がないから昼ご飯が面倒」だと嘆き、夏休みが長いとグチグチ言い、あげく宿題をしていない子供を怒鳴りつけることとなる期間……らしい。我ながら、分かりやすい説明だったと思う。
なんで『らしい』なのかというと、ユメちゃんとムギちゃんにはあまり関係のない話だからだ。ぼくがここで初めての夏を過ごした時は、ユメちゃんもムギちゃんも受験生なる人種になっていて、夏休みの宿題があるわけでもなく、ママさん達にとやかく言われる前に勉強していた。それに、大学生として過ごす今年の夏休みは、そういう状況に追い込まれることがないらしい。
ぼくが先ほど説明した夏休みの話は、うちの庭に遊びにくる近所の野良猫さんに聞いた情報だ。真偽は分からないけれど、あの野良さんは物知りなので、多分間違いないと思う。
ちなみに、この家の中はぼくの縄張りだけれど、家の外――つまり庭に関しては管轄外だ。ということで庭の外は、その野良猫さんの縄張りという事になっている。
「はいはい爪切りに行くよベル」
若干面倒くさそうに、ユメちゃんはぼくを護送車に押し込む。ユメちゃんは餌やおもちゃで釣ろうとしたりせず、最初から力尽くだ。それでも抵抗しようとする、このぼくの努力を誰か認めてほしい。
ユメちゃんの運転する車はカーブを曲がる度、タイヤからネズミの鳴き声みたいな音がする。相変わらず乱暴、だけど今日はあまりスピードを上げなかった。
「あー、夏休みだからやっぱ国道が混んでるわー」
ユメちゃんはブチブチと文句を言いながら、それでも家に帰ろうとはせず、動物病院へと向かう。そんなに面倒なら、家に帰ってくれてもいいのに。
いやむしろ、ぼくの爪切りにも夏休みがあっていいんじゃなかろうか。
そう主張するころには動物病院に到着していて、
「はいはい、にゃあにゃあ鳴いたってもう遅いんだから! 行くよ!」
ユメちゃんはやっぱり乱暴に、ぼくの入った護送車を持ち上げた。
ごわごわは相変わらずのごわごわっぷりだ。ぼくのもふもふっぷりを見習ってほしいと思う。一本一本、丁寧かつ素早く爪を切ってくれるという点ではありがたいけれど。
診察台にパラパラと落ちるぼくの(切られた)爪を見ていたユメちゃんは、やがて何かを決心したかのように顔を上げた。
「……先生、今度の日曜、この近所で花火大会があるのは知ってる?」
ユメちゃんが尋ねると、ごわごわは知らなかったなあ、と答えた。いつもの声よりも少しだけ高くなる、この時は嘘をついてる時だってことを、ぼくは知っている。けれどそんなこと気付いてないユメちゃんは、少しだけ期待した顔を見せた。
「ちょっとした屋台も出るんだって。……ね、先生その日は何か予定ある? 十八時くらいから、どう?」
ぼくの爪を切っていたごわごわの手が、一瞬止まった。ぼくはごわごわの顔を見る。どう答えるつもりだろうか。
「……分かった。その日は非番だし、家族の方も問題ない。十八時だね?」
――予想外の反応。ユメちゃんは嬉しそうに、というか嬉しいと口にした。ごわごわは笑い、リンゴあめをごちそうしよう、と提案する。ユメちゃんは首を傾げた。
「どうしてリンゴあめ?」
「女性が手に持っているとよく似合うものだと思うからさ。女性が、という表現は正しくないな。ユメちゃんにぴったりだと思ってね」
「なにそれ、キザすぎ」
「本気でこんなことを言えるのは、ユメちゃんにだけだよ」
ユメちゃんは頬を膨らませているけれど、まんざらでもなさそうだ。ぼくが人間だったら、今のセリフには鳥肌をたてているだろう。
だってぼくは『知ってる』んだから。
「それじゃあ、今度の日曜の十八時、駅前で」
「楽しみにしてるよ。じゃあねベル君」
ようやくぼくを解放してくれたごわごわは、白い笑顔を張り付け手を振った。
その後のユメちゃんは、上機嫌だった。ハンドルを握りながらも、浴衣を買うとか浴衣の色がどうとか浴衣の模様がどうとかごわごわにも浴衣を着て欲しいとか、とにかく浴衣のことばかり話している。弾んでいるせいか、運転はいつも以上に荒い。
護送車に入れられ、助手席に座らされているぼくは、ふうっとため息をついた。
ユメちゃんは知らないのだ。
二週間前、ごわごわはムギちゃんとも同じ約束をしたってこと。
二週間前、爪を切りに行った時。今度花火大会があるんです、と切り出したのはやっぱりムギちゃんだった。
「そうなの?」
この時のごわごわは、本当に花火大会のことなんて知らなかったらしい。驚いたというか、意外というか、そういう声を出した。
ごわごわは、ムギちゃんが自分の事を誘っていることを瞬時に理解したんだろう。普段ムギちゃんは、自分から誘おうとしない。だからごわごわは、それに驚いたんだと思う。
ムギちゃんは、もしよかったらとか、忙しくなかったらとか、無理でなければ、と散々気を遣ったうえで「一緒に行きませんか」と口にした。ムギちゃんが「一緒に行きませんか」と言う頃には、ぼくの爪切りなんてすっかり終わっていて、ごわごわはサービスだと言わんばかりにぼくの身体をブラッシングをしていた。
「……そうだね、一緒に行こうか。花火大会は何時から?」
「え、あ、二十時です」
「それじゃ、十八時に駅前でいいかな。屋台も見て回りたいしね」
――この日、ムギちゃんがとてもうれしそうな顔をしていたことを覚えている。
「十八時に駅前、かあ。素敵なデートになるといいなー。不倫ってさ、世間的には印象悪いから、あんまり人前を堂々と歩けないし」
弾む口調で、ユメちゃん。十八時と言えば、ムギちゃんの約束と被っている。被っているどころか、全く同じ時間だ。どうするつもりなんだろう、ごわごわは。
「ベルも花火大会行けたらよかったのにねえ。あんたが猫じゃなくて犬だったら、連れてってあげても良かったかな。――なんて嘘!」
一人で乗り突っ込みをしながら、ユメちゃんの運転する車は順調かつ乱暴に家へと向かう。道中、またもや浴衣の話をしたり、ごわごわが何味のかき氷を選ぶか予測したり、焼きモロコシが食べたいけれど歯に挟まるのが欠点なんだと文句を言ったりしていた。つまりは、とても楽しそうだった。
ごわごわはムギちゃんともお付き合いしていて、ムギちゃんとも花火大会に行く約束してるんだよ。
ぼくが人間で、喋れたとして、果たしてこれを言えただろうか。
家に着くと、ムギちゃんがリビングにいた。ソファに腰掛け、嬉しそうに携帯をいじっている。大方、ごわごわにメールしているんだろう。
何とも言えないぼくは、ハツカさんに相談することにした。ハツカさんを前脚でつつき、首を傾げる。ねえねえ、どうすればいいと思う? ――……返事はなかった。
「ねえ紡。花火大会の日なんだけど、私出掛けるから。夕飯いらない」
ユメちゃんが声をかけると、ムギちゃんは携帯から目を上げずに答えた。
「それ、お母さんに言ってよ。私だってその日は出掛けるんだから」
「あっそう。なによ、彼氏と?」
「そっちこそ、どうせ『不倫』相手とでしょう?」
ムギちゃんがようやく顔をあげると、ユメちゃんは「感じ悪いわねえ」と悪態をついた。
「あ、そうかそうか。清楚な紡ちゃんは清楚な彼氏君と、花火見ながらズッコンバッコンするつもりなのね? コソコソしなくていい恋愛ってのは素晴らしいですねー。隠れずズッコンバッコンできて?」
「下品! 最低! 本当に女なの!?」
「紡よりは女子力あると思うんだけど? ていうか、この程度の単語で顔赤くしないでよ。こっちが恥ずかしくなるわ」
ユメちゃんはムギちゃんに背を向け、ひらひらと手を振りながらその場を立ち去ろうとしたけれど、すぐに立ち止まった。もう一度ムギちゃんの方を見て、
「そういえば、紡って浴衣とか持ってたっけ?」
「浴衣? 持ってない。明日買いに行こうかと思ってたんだけど」
「ああ、それじゃあ一緒に買いに行かない? 私もさー、欲しくなっちゃったんだよね。リンゴあめが似合いそうなやつ選んで欲しいんだけど」
「リンゴあめ?」
「なんでもない。それじゃ、明日は一緒に行くから」
ぽかんとしているムギちゃんを置いてけぼりにして、ユメちゃんは今度こそリビングから出ていった。鼻歌を唄いながら、階段を駆け上がっていく。
「……なにあれ」
ムギちゃんは眉をひそめて首を傾げた後、ぼくの方を見て、とろけるような笑顔をして見せた。
「花火大会楽しみだね、ベル」
いやいや連れて行ってもらえないぼくは特に楽しみでもないんだけど。
それにぼくは、ごわごわがユメちゃんにも白い笑顔を向けているのを見てしまったんだ。ねえ、ムギちゃん。




