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「ママが、私達の運動会に来なかった時があった?」
ユメちゃんの質問に、答えようとしないムギちゃん。そんなムギちゃんが気に入らなかったのか、ユメちゃんは一方的にまくしたてた。
「授業参観に来なかったことは? 弁当作りをさぼったことは? 私達のご飯を用意しなかったことは? 家事をおざなりにしたことは? ――家族よりも不倫相手を優先したことはあった?」
ムギちゃんはやっぱり何も言おうとしない。それは逆に、「そんなことは一度もなかった」と答えてしまっているようなものだ。
ユメちゃんは自分の部屋のドアに背中を預け、両腕を組んだ。
「……私の焼きそばにはマヨネーズが、紡の焼きそばには紅しょうがが乗ってない。パパの焼きそばにはきっと、鰹節を乗せない」
ユメちゃんは、きつくムギちゃんを睨んだ。睨んだというのは正しくない。けれど、見つめたというのも正しくないだろう。その中間くらい――責めるような、けれど優しく説得するような表情をしていた。
「家族の中で誰よりも、ママは私達の事を理解してくれている。把握している。なにより、私達の事を愛してくれてる。――私はそれで十分だと思うし、それは幸せなことだと思ってる」
例えママが、不倫していてもね。
断言するようなユメちゃんの口ぶりに、ムギちゃんは眉根を寄せた。それでも、と小さな声で反論する。ムギちゃんはきっと揺れていて、それを人間特有の不完全な『何か』で押さえつけていた。
「それでも、不倫は不倫じゃない……!」
「そうよ」
あっけらかんと肯定するユメちゃん。
「不倫は不倫。家族は家族。ママは愛し方を使い分けてるだけよ」
自分の意見が正しいと言わんばかりに、胸を張って断言するユメちゃんは、ぼくから見てもすごいと思う。きっと、彼女の解釈は『人間として』正しくないはずだから。
ぼくのささみのことなんてすっかり忘れているだろうムギちゃんは、絶句していた。驚いたのか呆れたのか、はたまた言いくるめられたのかは分からない。ムギちゃんはしばらく口元をもごもごさせた後、泣きそうな目でユメちゃんを睨んだ。
「私は……お母さんが不倫してない完璧な母親だったら、もっと好きになれたと思う」
「――そう? 完璧な人間なんて、きっと面白くないわよ」
「だからって、不倫を肯定するなんて出来ない!」
「じゃあそれでいい」
ユメちゃんが急に折れ、肩透かしを食らったムギちゃんは困惑を顔に浮かべた。
「ママの不倫は認めなくていい。だけど、ママそのものは認めてよ。……さっきも言った通り、私の事は嫌いになってもいいから、ママとは仲直りしてくれる?」
きっぱりと言い切るユメちゃんは、どこまでもねじ曲がっていて、その分まっすぐだった。
ぼくのささみのことなんて宇宙のかなたに飛んでしまったらしいムギちゃんは、呆けた表情のまま、ぼくのご飯入れにカリカリを入れ始めた。ささみじゃないのが残念すぎるというかなんというか、ショックすぎて昼寝の時間が二十分くらい削れてしまいそうなんだけど、今日はカリカリで我慢することにする。とてもじゃないけれど、今のムギちゃんにささみを要求するなんて出来っこない。
ムギちゃんの動きは遅く、なかなかカリカリを入れ終わらなかった。視線の先は、何もない壁だ。これじゃ、催促しようもない。我慢できなくなったぼくは、ご飯入れの隅に頭を突っ込みカリカリを食べ始めた。耳元で、カリカリが袋の中を転がる音が聞こえる。ざらざら、ざらざら。
「……別に、嫌いじゃないんだけど」
ざらざらという音に混ざる、ムギちゃんの声。
「だけど、認められない」
カリカリの音にかき消されてしまいそうなほど小さな声で、ムギちゃんは言い放った。
――というか、ご飯入れすぎじゃないだろうか。いつまで入れるつもりなんだろう。
床にこぼれおちているうえ、ご飯入れの中で富士山を作っているカリカリ。さすがに見かねたぼくは、ムギちゃんへと視線を送った。それでも気付いてくれないので、にゃあと鳴く。ぼくを太らせるつもりか。
「……あ」
ようやく気付いたムギちゃんは、山のてっぺんにあるカリカリを手でつかみ、袋に戻し始めた。
適量に戻されたカリカリをぼくが食べている間、ムギちゃんは自分の朝食を取りにキッチンへと向かった。パンをトースターにセットして、グラスを用意して、冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出して――。いつも通りの工程。けれど、途中で動きが止まった。
ぼくはカリカリを食べるのを止めて、ムギちゃんの元へと向かった。彼女はキッチンカウンターに置かれている物を見て、なんでか凝り固まっている。ぼくは近くにあった椅子を踏み台にして、カウンターの上に乗った。
カウンターには、ラップされた料理が乗っていた。オムレツ、だ。ママさん特製のもので、中にはジャガイモと玉ねぎとお肉がたくさん入ってるって聞いたことがある。確か、ムギちゃんの好きなメニューだったはずだ。
けれどムギちゃんが動かなくなったのは、それが原因ではない。きっとそのオムレツにケチャップで書かれている文字だろう。ええっと…………ぼくは日本生まれだから英語は分からないんですけど、なんて書いてあるのこれ。
「……LOVEって。あの人は馬鹿なの?」
呆れ果てたような口調でムギちゃん。らぶ。確か、好きって意味だ。
きっと、ママさんなりの気持ちの伝え方なんだろう。よかったじゃないか、ムギちゃん。きっとすぐに仲直りできるよ。
にゃあにゃあと声をあげるぼくに気付いたムギちゃんは、
「だからこれはベルのご飯じゃないってば。カウンターに乗らないの!」
何故か僕を叱り、カウンターから引きずりおろすのであった。
ママさんとパパさんが帰宅したのはその日の夕方で、その時ユメちゃんはリビングでテレビを、ムギちゃんは料理を、そしてぼくは丹念に毛づくろいをしていた。ぼくのもふもふは自慢のもふもふなので、常に毛づくろいしてもふもふを保たなければならない。身体の匂いを消すという意味でも、毛づくろいは大切なわけだけれど。
「ただいまー、ベル」
だというのにママさんは、外の匂いがたっぷりと染み込んだ手で、ぼくの背中をわしゃわしゃと撫でまわした。うああ、せっかくの毛並が! ぼくのもふもふが!
ママさんとパパさんは違う場所に出かけていたはずだけれど、帰り道でばったりと出くわしたらしい。腕を組んで(というかママさんが一方的に組んでたんだけど)仲良く帰ってきたんだとユメちゃんに自慢している。しかしテレビを熱心に観ている夢ちゃんは「はいはいそうですかよかったですね」と軽く受け流し、相手にしていない。
「紡ー? 何作ってるの」
ムギちゃんが持っているフライパンの中身を、ママさんは覗きこもうとする。けれどムギちゃんは、もうすぐできるから、と冷たい声で答えるだけだ。ママさんは苦笑し、楽しみにしてるとだけ声をかけた。
そして夕食。ぼくはようやく、ささみにありつくことができた。
ママさん達はというと、ムギちゃんの用意したご飯を見て沈黙していた。ムギちゃん一人、何事もなかった顔をして自分の作ったご飯を食べている。匂いからしてオムライスだろう。
「……紡」
やがて、ママさんが口を開いた。視線はオムライスに、その上にケチャップで書かれた文字に注がれたままだ。
「これはダイイングメッセージ?」
「いや私まだ死んでないから」
ムギちゃんのツッコミを確認し、再度オムライスへと目をやるママさん。
「……『バカ』って。せっかくのオムライスなのに、他に書くことなかったの?」
「ないわ」
「実はこれ『バカ、だけどそんなママが大好き』の略とか?」
「そんなわけないでしょう」
そんな会話を聞いていたユメちゃんが、あのさあと声を出した。
「私、生まれて初めてケチャップで『アホ』って書かれたんだけど」
「だってアホじゃない」
「はあ!?」
「あのー……」
喧嘩を止めようとしたのか、躊躇いがちにパパさんが割って入った。ちなみにパパさんの身体からはコモダさんの匂いがしている。コモダさんと一緒にゴルフへ行った、あるいはゴルフそのものが嘘だったのかもしれないということには、ぼくしか気付いていない。
パパさんは首を傾げ、自分の前に置かれていたオムライスを手に取った。
「僕のこの、『?』というのは?」
「お父さんはよく分からないから、ハテナってこと」
「そうかあ」
パパさんだけが納得した様子で、嬉しそうにオムライスを食べ始めた。ムギちゃんとユメちゃんはぎゃあぎゃあと喧嘩しているが、何故かママさんは嬉しそうに笑っている。おもむろに携帯を取り出し、オムライスへと向け始めた。
「……ママ、このオムライス写メっておこうっと」
「ええ!? ちょ、やめてよ」
「あ、夢のやつも並べて撮ろうか。バカとアホになるわ」
「それいいわね、ママ」
悪乗りしたユメちゃんがアホと書かれたオムライスを渡し、慌てるムギちゃんをよそに、ママさんはさっさとそのオムライスを撮影した。一人勝手に食べ始めていたパパさんはしまった、という顔をしているが、後の祭りだ。ムギちゃんも顔を真っ赤にしているが、後悔は先に立たない。
「……もう! お母さんの馬鹿! 夢の阿呆!」
結局、バカアホと書かれたオムライスの写真は、ママさんの携帯の待ち受けに設定されるのであった。




