第十一話 追跡集点――最強が一人だけだと誰が決めた
日中、地元のご老人に聞いた話によれば、この小山は所謂「お墓」らしい。
この土の下に人の骨が埋まっているというわけではない。動物の骨くらいあるかもしれないが、そういう意味でもない。そもそも本当の墓というわけでもない。
山神のお墓、だそうだ。
山よりも大きな大きな姿で村を覆い隠した山ノ神、それを退治した侍の英雄譚。退治された山ノ神の遺体はたくさんの土を盛って埋葬され、墓の天辺に鎮守の社が据え付けられた。
そんな、あちらこちらにありそうな昔話。いえ、この話を知っている方も、御伽伝える方も随分少なくなっているという話だし、いずれ風化し誰も知らない昔話になってしまうのだろう。そういった風潮が全国規模であるのなら、「あちらこちらに」ある話ではなくなってしまう。もっとも、民俗学という研究分野が存在することを考えると、案外そういった研究者の方が地元民より詳しいということもあるのかもしれないが……。
ところで、何でこんな話をしたかといえば。
そんな御伽話の化け物にまつわる地に、実在しないはずの生物が逃げ込んだというのも何かの縁が働いた故だろうか、と取り止めもなく思考したからだ。
土中を泳ぐイルカ。
人に話せば失笑か、憐憫の目で見られそうな存在を、しかし私はその姿を目に焼き付けて、ときに道なりに、ときには獣道に踏み込んでここまで追ってきた。
地面の下を泳ぎまわる見えない存在をどうやって追いかけたか? そんなのは特に説明するまでも無いことだと思うが、単に時折り浮上するイルカもどきを見失わず追いかけただけの事だ。
確かに、ずっと土の中だけを移動していたなら私には、いや誰にも見つける手段は無い。しかしだ、もしあれが本物のイルカと同じ特徴を持っているのなら必ず浮上しなければならない。
何故なら、イルカは哺乳類だからだ。その呼吸法は肺呼吸。いや、仮にエラ呼吸だったとしても地中で息など出来ないか。
とはいえ、そんなのは後付けの理由でしかないのだけれど。そもそも、そんな特殊能力を持った生物が呼吸自体しているかも定かじゃないし。(補足しておくと、メルフィンの生命活動に呼吸は必要ない。しかし基となった生物、すなわちイルカにとって必要不可欠であるこの行為を、なぞらえて行うことがメルフィンというミスティに刻まれた習性、あるいは癖となっている)ただ単に、実際に何度も浮上しているのを視認してからそのことを思い出しただけのこと――あ、また跳んだ。
最初と二度目の浮上位置からおおよその移動方向を推察。出来る限り遮蔽物に遮られぬよう視界を確保するため塀に跳び乗り俯瞰。数十秒後に再び地中から浮上するイルカもどきの姿を捕捉、追跡。これを続けた結果、こんなところまで出向かされることとなってしまった。夜中に山中へ踏み込むのは愚行とわかってはいたが、山道から大きく外れなければ遭難したりはしないだろう……と、素人考えの言い訳で自分を誤魔化した。
「逃がさない」
ああ逃がしはしないとも、危険がなんだ、そんな瑣末なことでようやく見つけた手掛かりを見逃すなどそれこそ愚行に過ぎる!
追われる方にとっては災難以外の何物でもないけど、仕方が無い。運が悪かったと思って諦めてもらおう。
笑みが浮かぶ――いや、開かれる。ああ、よくない傾向だ、しかし駄目だ、今の私はこんなカタチでしか愉悦を表現出来ないから、どうしても抑えが効かない。
クチが凶月に開かれる。
さあ、いい加減もう気付いているな? ただ何かから離れようという動きから速度の緩急、軌道の複雑化と追っ手を振り切るための動きに変わっている。ちらりちらりとこちらを確認する仕草に気付かないと思ったか。
だが、私はその程度で離される気はないぞ? 地上に障害物があろうと、たとえ一度見失おうとも、必ずすぐに追いついてみせる。
だから、なあ、お前はそれで全部じゃないだろう?
飛び出したイルカもどきの背中に語りかける。
もっとだ、もっと、もっと、もっと――
私に見せて/魅せてくれ。
突きつけられた選択肢。それを、
パンッと撥ね退けた。
カラカラと転がる拳銃。それを明野さんは目で追って、
「暴発するかもって思慮はなかったのかしら?」
「うげっ!」
い、勢いで動いたことをいきなり後悔させる先制パンチ……。
「で、これは引き返すってことでいいのかしら」
けどそれで怯んでるばかりでもいられない。
「そっちに決められることじゃないってことだよ」
ハア。溜め息吐かれる。まあ、子供のワガママみたいな言い草だし仕方ないか。
真剣だけどさ。
「桜井さん。あたしはね、あたしの邪魔しないでって言ってんの。弱いのは、役に立たないのはいいわよ、経験の問題だもの。ま、それをあたしみたいな新人に押し付けないでとは思うけどね」
銃が手から離れても余裕を失わない。ミスティだって出ていない。素手同士ならボクが負けていると思えない。
「でもね、戦う覚悟も出来てない人間なんてそれ以前なのよ。場違いなの。はっきり言って目障りなの。――自殺志願なら他所へ行きなさい、介錯する趣味はないわ」
確信してるんだ。ボクを捻じ伏せるのに精神力だけあれば十分だって。
だからボクも手を出さない。出したら負けだ。その足で先に進んでも彼女の言う通りになる、そんな気がする。
「死ぬ気なんてないよ」
「ご立派。近づかないのが手っ取り早いわよ」
「戦う覚悟ならある」
「安全が保証された試合でしたらあちらへどうぞ。命も懸けられずに何の覚悟よ」
「そもそも明野さんにはボクがなにしようが関係ないじゃん!」
「あら酷い。クラスメートが明らかに身の丈に合わない無謀な真似をしようとしてるのを手遅れになる前に止めてあげてるだけじゃない。あたし、人の面倒はよく見る方なのよ。知らなかったかしら?」
悉く跳ね返される。そもそも明野さんってボクが口で勝てる相手じゃないじゃん。何言ったところですげなくあしらわれるのがオチなんじゃないか!?
いや、この発想が既にダメダメだ。口先だけでこの場を切り抜けようとしても、そんな言葉に重みが乗るはずない。
重み。さっきの明野さんの言葉のように、覚悟を載せられる言葉。
重い言葉は揺らがない。軽く払った程度で払い除けられはしない。
そんな言葉が、そんな覚悟が、ボクにあるか?
「……戦う、理由がある」
――決まってる。
「まあ、戦闘狂でもなきゃ当然ね。それで?」
「ボクは、こおりちゃんに恩がある」
この前からその為に頑張ってるんだ。
「こおりちゃんが関わってるなら、ボクもやれるだけのことをしたい」
いや――
「やれるやれないじゃない、やると決めたんだ、ボクは」
そうだ。夕べから散々悩んだけど、これがボクの答えだ。
見返りは無い。求められているのですらない。こおりちゃんへ何ひとつ影響を与えることはない。
だからどうした。
これはもうボクの問題だ。こおりちゃんには無関係? 上等ッ、なら好き勝手やらせてもらおうじゃん、文句無いよね無関係なんだから! そのうちそんなクチが叩けなくしてやる予定だけどね!!
そして当然、本っ当に無関係な他人に阻まれる理由なんて、どこにもないっ!!
「だから、明野さんが何を何と言おうがボクは進むよ!」
「……あれみたいなことを言っちゃって。すっかり感化されたわね」
眉根を寄せて苦々しそうにそんなことを呟く。
「ほんと、呆れるわ。そんな理由で死ぬのも殺すのも許容出来るバカなんてあいつ一人だと思ってたのに」
「いやいや、何言ってくれちゃってんの」
手振り付きで否定。あんなのと一緒にしてもらっちゃ困る。
「さっきから言ってるじゃん、殺すのなんて無理、無理、無理。死ぬのだって受け入れられるはずないじゃん、どんなドMだよソレ」
「……あんたね」
「いい、明野さん。さっきから物騒なコト当たり前みたいに言ってくれちゃってるけどさ、そんなキミに当たり前のコトを教えてあげよう」
何やらこめかみピクピクさせてる明野さんに、胸を張って言ってやる。
「人殺しは、悪いことなんだよ!」
「知ってるわよんなことはァーッ!!!」
んにょっ!? え、キ、キレた!? わっ、襟首をグイッと引き寄せられる!
「あんたね、自分だってこおりを呼び出した時、巻き添えで死んでも構わないくらいに思ってたでしょ? ミスティ同士の戦いを殺し合いに直結させてたでしょ? 今さら何ほざいてんのよ、ねえ!」
「え、えーと、そのときはちょっと精神的に余裕なかったと言いますか……」
って、なんでそのこと知ってんのこの人――って聞きたいけど聞けない。さっきまでの真剣な雰囲気よりずっと怖いよこの人。
「人殺しは悪いこと、だあ!? そんなの、判った上でやってるんでしょうが! 舐めんじゃないわよ、本気でそんな楽観論ほざいてるなら今すぐ消えなさい!」
……怒らせることは承知のセリフだったけど、まさかここまで沸騰しちゃうとは。
でもしょうがない。こおりちゃんも、明野さんも、きっともっと多くの人がそれを認めてしまっている。それだけ「敵の殺害」という行為は有効性があり、「不殺」なんて理想論、今にも死んじゃいそうな雛鳥が囀ったところで世間知らずが何を言い出すと一顧だにされない、そういう話。
悪か善か、そんなもの生き残った後にこそ考える価値がある。「殺す」行為は生き残るために有効で必要な手段、そういう話。
だから、その手段を迷わずに――いや、明野さん曰く迷ってもいいらしいけど――選べるように、決意しろと言われてる……そういう、話。
……でも。
「必要なのは、わかってるんだ。でも」
一度、口を噤む。
「でも、なによ」
それは、この答えを選べば、
「……当たり前にしちゃ、いけないと思うんだ」
ボクは何度も後悔する羽目になるんだろうな、と思ったから。
「……どういう意味」
締めていた襟を放さぬまま、力が緩められる。その手を振り解かないまま、ボクも続ける。
「悪いこと、なんだよ。どれだけ必要でも、大義名分があっても。だからさ、覚悟なんてしちゃったら不味いと思うんだよ。ボクの中で正当性を持たせちゃうみたいで。殺すっていう選択肢を、当たり前に入れちゃうのは、やっぱり間違いなんだよ……人間として」
甘いと言うならその通りだ。理想論に違いない。
「だから、殺さないって言うの?」
首を振る。
「それは、決めない。ただ――そう。殺すことを前提にしちゃいけないと思った」
だから、覚悟なんてしない。殺すとしたら、その場で決めないといけない。
「……いちいち決意を固める時間なんて与えてくれるかしら?」
そして、衝動的に殺すことになったとしたら――ああ、後悔するんだろう、こおりちゃんが言っていたように。
『判断して、納得した行動じゃなけりゃ、必ず後悔することになる』
……苦笑しちゃう。馬鹿言うなって。判断したとして、納得したとして、
「同じだよ。結局、ボク後悔して、カッコ悪く取り乱すに決まってるんだから」
ボク、ほんと弱っちいんだから。
心臓まで頑丈そうな自分と一緒にするなっての。
「……じゃあおとなしくしてなさいよ」
心底からの呆れを込めたセリフに大きく首を振って返す。
「それはダメ。ボクはね、こおりちゃんの家族として、こおりちゃんからは逃げないって決めてるんだ」
そこだけは譲らない。譲れない。
やると言ったからってやりきれる自信もない凡人なボクだけど、それでも負けず嫌いではあるんだよ。
最後の一線、こおりちゃんに負けを認めるポイント。そこからだけは、退くワケにいかない。
……だっていうのに、明野さんってば、
「……はあ。なに? あんた、あんなのに惚れちゃったワケ?」
「ななななナニいってんのさあんたわぁーーー!!」
どうして、どうしてみんなそーゆーコト言いやがるかなあっ!! 家族だっつってんでしょ!!
「会話にはユーモアが必要でしょう? 色恋話なんて女の子同士定番の話題じゃない」
「だからってなんでこおりちゃんなんだよっ、あんな人間破綻者!」
「そっちのほうが愉快で弄りやすいもの」
「やっぱりそんな理由かあっ!!」
「うるさいわね、吠えないで。近所迷惑。保健所送りで駆除させるわよ」
「ボクは犬かっ」
でも近所迷惑は事実だと思ったので語尾を抑えたら変な風になっちゃったじゃないか、畜生。
「冗談はともかく、割とあんたたちの組み合わせ、噂になってんのよ。こういうののお約束で、当人は知らないんでしょうけど」
「な、何故に……」
「結構そういう風に見えちゃうからでしょ、あんたたちのやり取り。ちなみに発信元はこおりにフラれた女の子たち」
「ツマリコオリチャンノセイデスネ?」
だからアフターケアくらいきっちりしろって、あの馬鹿こおり……! とりあえず今すぐ一発殴りたい……!
……って、
「ボクたち、なんでこんなどーでもいいハナシしてんの……?」
さっきまでの真剣な空気がすっかりどっちらけちゃってるし。
「決まってるでしょ、これから一緒に行動するのにギスギスしたままじゃ先に神経が参っちゃうもの」
「……ふえ?」
……一緒に?
「あんた、一人で鉄火場に出会して生きて帰ってこられると思ってるの? 勝手に死なれたら寝覚めが悪いもの、あたしと一緒に来なさい。ただしあたしの命令には絶対服従、逆らったら電気ショックよ。理解した?」
「ちょ、ちょっと待った!」
ええっと、色々ツッコミどころは満載だけど、その前に、
「……ボク、合格?」
「及第ね。正直不安で仕方ないけど、これだけはっきり決めてる人間をただ追い払っても無駄だし、『教会』の意義としてもここは保護が適当ね」
そう言うとあっさりボクの目の前からどいて、拾い上げた銃をチェック、袖の中に戻す。
「さて、時間は待ってくれないわ」
髪を纏めてフードを被る。……いや待て! 明野さんの所為で足止め喰ってたのになんで明野さんが仕切るのさ!
いや、しょうがないんだけど。初めから明野さんに頼る気で追いかけてたんだし。でも、これはなんだかなあ……。
で。山に入る前に今回のことのあらましをざっと聞かせてもらった。大体は盗み聞きしたことそのままだったけど、言いたいことが二つ。
「……こおりちゃん、この状況だと殺されても殺さないと思うけど、明野さん的にどうなの?」
こおりちゃんのルールは基本的に因果応報とか自業自得というものだ。危害に対する報復。その辺は本当、容赦無い。
けど、今回こおりちゃんは自分の理由で踏み込んだ。そこに攻撃を受けたとしても、それはこおりちゃんへの反撃だ。
こおりちゃんは、自分の理由で生命を侵さない。
その代価が、自分の生命だとしても。
で、さっきまで散々殺せる殺せないの議論した相手に水を向けてみると、
「……あれをあたしたちと同じ扱いしようって考えの方が間違いなのよ、輝燐」
……納得出来ないけど納得しなきゃやってけないような答えを返された。多分その心境は明野さんも同じなんだろう。てか、今名前呼び捨てで呼ばれたよ。
「それじゃあ心、もう一つ。優姫先輩もそのミスティを追ってるって、本当?」
「ええ、好奇心旺盛な藤田さんや乾君ならともかく、獅子堂先輩がこんな身勝手な行動取るなんて、杏李先輩から聞いたときはあたしも耳を疑ったわよ」
むう、お返しのつもりだったのにスルーですか、ちょっと悲しい。それはともかく、
「いや、ボクはそれほど不思議でも。むしろ、ついにこの時が来ちゃったかー、って感じで」
「……どういうこと?」
「うん、多分言っても信じらんないと思うんだけどね」
ああ、忘れたい春の出来事。伊緒に連れられた部活の初顔合わせ。
「ミス研の創設者ってね、伊緒と……優姫先輩なんだよ」
「……………………………………」
奇妙奇天烈かつ形容し難い珍味をどうにか咀嚼し、飲み込もうとして失敗した、みたいな顔だね明野さ……心。
分かるけどね、現実なんだよ間違いなく。先輩が鳴海市に来た理由を聞いた時、いったいボクはいつ異世界に迷い込んだんだろうとか本気で悩んだけど。やっぱお嬢様だからかなー、フツーの人とは感性が違うのかなー、とかギャップに苦しんだけど。
「…………とにかく。獅子堂先輩が人並み外れて強いのは知ってるけど、生身でミスティと戦わせるなんて事態は避けないと。周防君に任せるつもりだったけど予定変更、一般人に害が及ぶ前に『霧』で確保よ、いいわね」
そう言って山へと踏み込む心の背中を、ちょーっと的外れじゃない? と思いつつ付いて行った。
確かに隔離はした方がいいと思う。けど、それは危険だからとかではなく純粋に関わらせないためだけで。
ていうか。多分ボクの師匠って事で推し量ってるんだろうけど。ボクは結局『異質性』抜きだと一般人よりは強いって程度だけど、それを基準に考えてるならそれは大きな間違いで。
……人並み外れて強い?
馬鹿言うな。
あれこそ、正しく「人間離れ」だ。
……ボクらやこおりちゃんが追いつく前に決着がついてる、そういう状況がありありと目に浮かんだ。
……不思議な力だ。
地面に潜る力――潜地能力。
しかし、どうやら単に地中を移動しているわけではないらしい。でなければ、木々の真下を移動する際根に引っ掛かって動けなくなるか、逆に引き倒したりする羽目に陥っているはず。
だから何が言いたいんだ、と訊かれれば何も無い。ただ、理屈がつかない力だということだけ。
それと。
反撃が来た。
大体小山の中腹まで来ただろうか。イルカもどき……「もどき」という呼び方もいい加減あれだな、土イルカとでも呼ぶほうがマシだろう。その土イルカを追って道なき道を登り、唐突に整地された道へ踏み出した。元の山道と合流したらしい。
そこは見晴らしのよい開けた場所だった。柵の向こうは岩肌が剥き出しの急な斜面。さらにその下は私の立ち位置から見えないので予想しか出来ないが、町の方面ではないはず。自然、おそらく森が欝蒼と茂っていると思われる。季節柄一面紅葉に、とはいかないのが残念だ。
ここで私が最も危惧したのが、地中を通って坂の中腹から跳躍、崖下へ逃げられることだった。まともに落下すれば無事では済むまいが、相手は地中に飛び込める。高所からの水中への飛び込みと同じと考えれば、大きく怪我をすることはないように思えた。そしてそれを許せば、私が追い続けるのは地形的に実質不可能だ。たとえ負傷覚悟で飛び降りたとしても、今までより濃度を増す暗闇に覆われた森の中で一匹の獲物を追う……無理だ。
だから、ここで勝負を賭けるしかない。逃がさないため、次の浮上時を狙い、攻撃へ移る。一撃で動きを奪えずとも、逃げより反撃を意識させることが出来ればそれでいい。
その思考は。しかし遅かったのだと、次の相手の行動で思い知らされる。
次の一歩――
私は相手の殺界に入ったのだと、足裏から伝わる殺気に己の油断を詰られた。
逃亡を許さない? 何を一端の狩人気取りか。
相手が逃げるばかりのウサギだなどと、一体どんな根拠で決め付けた?
その甘さのツケ、己の命で支払え。
――ああ、理解したとも、教訓になったとも。だから、こんな早々に死んでやるものか!
近づく魔弾の脅威。次の瞬間、私の取れる行動は一つだけだ。
――タイミングを誤るな。
次の瞬間、土イルカが真下から、弾丸のごとく飛び出した。
その先端が現れるか否かという刹那、私は前方へと跳び転がった。
今の射出速度は、跳躍における速度とは雲泥の差だった。あれを喰らったら行動不能という程度じゃ済まないだろう。おそらく高深度まで沈み、浮力に任せて飛び出したのだろう、と子供の頃お風呂で試したような実験から当たりをつける。
今のをもう一度は不味い。あんなギリギリの綱渡りを続けるわけにはいかない。浮上中に動いたところで、おそらく尾びれの動きで射出角を調整される。地上への射出寸前で回避しなければならないのだ、この攻撃は。
山道で助かった。ある程度人が通って足元に雪がない。獣道だったら雪、あるいは泥で回避のタイミングがずれてしまったかもしれない。
前方一回転して立ち上がる。土イルカはまだ空中。垂直に飛び上がった怪物は半回転し頭を下に向けている。
当然、再び地中に潜るのを黙って見過ごすほど悠長な人間ではない。
助走、跳躍。弓の如く引き絞る腕。
「――はっ!」
落下してくる土イルカに合わせ、その背に掌を矢の如く撃ち放つ。
直撃。掌から伝わる衝撃と手応え。
その瞬間、己の選択ミスを自覚した。
堅い。硬度自体は高くない。だが柔軟性があり、かえって壊れにくい。たとえ拳で打っても反動で壊されることは無いだろうが、私の打撃ではこの外皮に一切損傷を与えられない。
次の手を打つ前に、私の打撃を利用して身体を廻したか、頭上から尾が降ってくる。空中で回避出来ないのはこちらも同じだ。
こちらも反作用を利用し、蹴り上げ半回転。ただしそのままぶつかっては押し負けるのは明らか。位置も、体格も、威力も劣っている。
蹴り上げた足をそのまま折り畳む。尾が足裏に当たる。その瞬間に曲げていた足を一気に伸ばした。
勢いのまま地面へ離脱。後頭部からの落下、腕で頭を庇い激突。脳震盪はなし。腕には多少の痺れ。下半身を持ち上げ折り畳み、身体のバネを使い反動で跳ね起きる。
既に土イルカは潜った後。こちらはすぐに跳躍、三角跳びで樹上、枝の上へ。がさり、木が揺れ雪が落ちる。
地面の上では先ほどの一か八かを繰り返す羽目になる。同時に、何故あの射出浮上を山道に出るまで使わなかったか、その予想もついていた。
土イルカの身体、確かに打撃は通りにくい。しかし、斬るのは然程難しくはない。刃が通らない硬度ではないのだから。
そして、山道から外れた獣道、周り中が木、木、木。樹上の枝は尖った鋭いものもあるし、しならせれば下手な刃物よりよく切れる。
通常の速度で跳び出すなら問題無いかもしれない。しかし、あの速度で飛び出せば枝で己の身体を傷つける。だから、空が開けた場所まで我慢した。
そうと分かればこちらが動くだけだ。樹上からならどこから飛び出そうと十分回避できる。いや、ここに居るとわかればそもそも撃ってこないか。
ならばどう次の手を打つ? いやそれは私にも言えること、ここでじっとしているだけでは動きがない、無意味だ。しかし相手の手が読めない、何をしてくるか分からない。
相手の居場所がわかるならこちらから打って出るのもありだが、生憎私が土イルカを追跡できたのは単なる軌道予測だからこの場では意味が無い。直接殺気を向けられれば普通なら相手の居場所が手に取るように分かるのに、さっき気付けたのは真下に居たからこそで今は全く分からない。しかもその時点で絶体絶命だ。
ゆえに、こちらからは動けない。それが悪手と分かっていても、先手は譲るしかない、そう考えていた。
――だから次の攻撃を無様に喰らったのは、私の怠慢以外の何物でもない。
ざぱり、と擬音がしたように聞こえたのは幻聴か。土イルカが首だけ地面から浮上する。首を回して辺りを伺い、キュキと一声鳴く。
次の一啼きが、私の全身を容赦無く打ち叩いた。
「か――はっ」
ぐらぐらと脳が揺れる。何時の間に手を離してしまったのか、気付けば受け身も取れず地へと墜ちていた。
ドサドサと音がする。視界の隅に白い塊が入り込む。
わずかに戻った思考能力が、私の身に何が起きたのかを把握する。
――音……波、かな?
多分、音による衝撃波を周囲に撒き散らしたのね。対象は私単体じゃなく三百六十度全方位。周り中の木が揺らされて樹上に積もった雪が落っこちたみたい。
なんて迂闊。そもそも地中に居ながら地上を把握してるんだもの、超音波ソナーくらい本物同様有していてもおかしくないじゃない。今の攻撃はその延長線上に過ぎないわ、イルカを模している時点でこの攻撃は予想しなきゃいけなかった。
そして、全身が地に伏しているこの状態ならよく分かる。潜っている。深深度から敵性を狙い撃たんとする、その殺気が伝播する。
どうにか動いた手が、落ちた時に外れた眼鏡を握り締めた。
サフィエル=サザンウインドは憂鬱だった。
接触を許してしまった。よりによって自分の目の前で。
こうなった以上もう止めることなど出来ない。坂を転がるように、素晴らしくも恐ろしいその瞬間へと迫っていく。
「オネーサマ……」
無事を祈る。己にはそれしか出来ないと嘆き自嘲する。
だから、自分が最も信頼する男に主を託す。
「お願イ……コーリ……」
彼女の助けになれるのは、きっと唯一貴方だけ。
だから、そう。
――二人の邪魔になるものは、全て自分が排除する。
故に、今回の本来の任務は既に彼女の頭にない。自分が今、主の傍に控えているのは無粋者を除外するため。だから決して主の戦いに手を出さない、主が危機に追い込まれようとも。
……もっとも。
この程度を危機などと認識しては主に無礼だ、と考えてもいたが。
……よかった、壊れてない。
手触りで確かめ安堵しつつ、大きく息を吸う。脳に酸素を送り込んで強制的に活性化。
「ビックリした。こんな体験したことないよ。……素敵」
摩訶不思議な能力……それでいて、どうしてかな、私たちとそう離れた存在じゃない、そう思える彼らにとても魅せられる。相手に魅せられてちゃ後手に回っちゃうのも当たり前。さっきまでの私だったら認めなかったことだけど。
でも。
「私の命に届くには、まだ遠い」
手足に力を入れて立ち上がる。眼鏡は、とりあえずジャケットの胸ポケットへ。
立ち上がっても一度捉えた気配は逃がさない。昇ってくる。地表到達まであと三秒。
身構えるでもなく、だらりと力を抜く。無防備。
あと一秒。
タイミングを測り身構える――事もなく、ただ、今がその瞬間、と自然に動き出す。
左足を下げ、右足を軸に半回転。軸足を移して、左半身を逆方向へ半回転。
体一つ分だけ、元の位置からズレる。身体の真横を通り過ぎる青い影。
さらに回転。土イルカの体表を廻るように移動。白い腹部を視界に収める。
回転エネルギーをそのまま、背面回し蹴りで下腹部に叩き込む。
ダメージにならないのは先刻承知。当たった後も脚を止めず、そのまま蹴り上げ、持ち上げる。
垂直に飛んで行くはずだった土イルカが、真横に倒され浮き上がる。
その無防備な腹を、両手でぱんと叩く。ダメージなどは考えず、ただ大きく響くように。
間髪入れず、その中点を掌底で撃ち抜く。
パァンッ
振動が重なって、弾けた。
「……!!」
ビクンと手の先で跳ね、硬直する感触。浮遊していた身体が重さを取り戻し、腕一本で支えるのは不可能なので手の傾きをズラし落ちるに任せる。
ズシンと、青と白の身体が本当の意味で地面に触れるのを初めて見た。
「な……な……」
一瞬の逆転劇。あたしはそのデタラメさにただ呆然とするしか出来ない。
あたしのY・Iでは観察対象、すなわち周防君を追跡できるようになっている。そこから移動先を読んで先回りした結果、ミスティの方に先に追いついてしまった。……獅子堂先輩も一緒に。
一般人とミスティが接触してしまった以上、周防君がどうとか言ってられない。すぐさま『霧』を喚んでミスティを隔離しようとしたのだけど、
「ダメえッ! ここで横槍入れたら先輩絶対怒るっ!」
とかぬかす輝燐に邪魔されてしまった。この娘、あたしの言うこと聞くって約束したばかりじゃなかったかしら!?
で、ミスティが先輩に攻撃するのをむざむざと見過ごしてしまったわけだけれど……正直、目で見たものを未だ頭が受け入れないレベル。
「浸透打撃かあ。あれ、内臓が直接揺さぶられて気持ち悪いんだよねえ」
輝燐の呑気な感想に付き合う気には到底なれない。あたしが受けた衝撃は、戦闘教育を受けたオーナーならきっと全員に共通のものだ。
ミスティもいない、『異質持ち』でもない。武器すらなし。純粋に武技のみでのレギュラークラス打倒。周防君が規格外なら、先輩は埒外と呼べる存在だろう。
そして意識に登る。あの先輩がただの一般人ではないということが。
獅子堂財閥社長令嬢。
そんなのはただの肩書きではあるけれど、霧学に居ること自体がおかしい存在。でありながら、どの組織も彼女に大きな関心を寄せている様子はない。
……いや、まさか。
浮かんだ仮説を否定する。そんな、ありえない。オーナーですらないのよ、彼女。
なのに、ねえ。
こおりと同様の相互不干渉誓約とか、ありえない、わよね?
取り出した眼鏡を掛け直して、
「……しまった」
ここから先、何も考えてなかったことにようやく気付いた。
とにかく追いかけることしか頭になかった。ようやく見つけた「普通でない生き物」。それ自体にも大いに興奮させられたし、何より『彼』の手がかりが掴めるかもしれないと、とにかくそればかりで追い続けた。
でも……何の容赦もなく気絶させるとか、少しは後先考えなさいよ、私。そもそも、手がかりを掴むって言葉も通じない相手から何を探り当てろっていうんだ? 私はいつ生物学者になった?
「どうしよう……」
困った、困った、と言いつつ土イルカの背をそっと撫でる。……流石に抱きつくのは、童心に帰るにしてもやり過ぎだろう。
……うぅむ、現状にそれほど不満があるわけでもないみたいね、私は。
全体的に弛緩した空気が流れる。しかし。
「…………」
この状況を見計らっていたかのように動く影がひとつ。
ザザザと雪と叢を掻き分け少女とミスティに迫る。
そして。
最優先でメルフィンを蹴り飛ばした。ぐおっ、助走つけたってのに重っ!
「キュイ!?」
「なっ」
近いか? ならもう一発、と足裏で押し出すように蹴る。
「貴様、いきなり現れて何を――」
頭に血が昇る獅子堂――に構わず地に伏せた。
「何を終わった気になってるんだ、お前!」
その状態で逆に叱り飛ばす。ここからが本番だろうが!
「何を、!」
その感覚の鋭さは流石だ、咄嗟に倒れ伏す。
頭上を、殺意の刃が通過した。
今度は顔を上げてその正体を確認した、――牙だ。無数の牙の機関銃の如き一斉掃射。
森の木々が断ち切られ、ばらばらと崩れ落ちる。露天風呂の閾壁のように。
「……今まで気付かなかったとは、迂闊にも程がある。私の頭は飾り物か」
そもそもだ、何故メルフィンはあちらこちらと駆け回っていた? それも全速で、何かから逃げるかのように。
あの時、俺が気付いたのがメルフィンの去った瞬間だったなら。俺の後方から放たれた牙は誰のものだ?
答えは簡単、というかそのまま。逃げていた、追いかけられていたのだ。
もう一体の、ミスティに。
切り拓かれた森に、月明かりが差し込む。
その中に、枯れ木の鮫を見た。