第七話 肌色風景――ある意味第1章第一話のリベンジ
「……あの子はもう、機嫌悪いからって一人で勝手に行くことはないでしょうに」
合流した藤田たちから一人足りない理由を聞いて溜め息。まったく、周防に集団行動を促していた本人が真っ先に単独行動してどうする。
あの子本来の気質からすればむしろ有り得ることではあるのだけど。
「教室でもたまにあることですよ。移動教室でいつの間にか先に行ってたり」
「……そうだったのか」
流石に上の学年だとそんな細かいところまで伝わってこない。私と桜井のクラスの接点といえば(冬休み前までは)藤田か乾くらいなのだから尚更だ。
やはり一度形成された人格を矯正することは生半可ではない。桜井も、周防も、私も。
「そのご様子ですと、キリンさんは中学生の時分からあのように暗く沈み込むことが多くあられるのですか?」
「そうね」
短く肯定はしたものの、正確なところを言うと、初めて会ったときにはもっと酷かった。
三年前、私が中二で桜井が中一、二学期の半ばだったわね、あの子が転校してきたのは。もっとも、私が初めて桜井を見たのはあの子が転校してきてから一週間以上経った後だけど。
たまたま、あの子とクラスメイトが口論している場に通りかかった、それが最初だった。経過も知らずに割り込みたくはなかったのだけど、相手は随分ヒートアップしているようで、あのままだと掴み合いの喧嘩に発展しかねないと(見るに堪えないわよね、女同士の取っ組み合いって。しかも大抵後引くし)間に入ったのだけど、身体に触れそうになった途端桜井が金切り声を上げて。それでなんとなく口論の原因が分かったんだけど。
酷い潔癖性。それがその転校生への第一印象だった。
それだけならそれ以上関わる事はなかった。しかし。
その日の放課後からだった。いや、正確には私が気付いたのがその日の放課後だったのであり、実際は転校初日から近くまで来ていたらしいが。ともかく、その日の放課後だ、その子が学校の武道場、空手部の練習を覗いていたのは。
これが校外の人間であったり男子生徒であったなら、不埒な目的で覗いている可能性を考慮に入れて声をかけていただろうが、そこにいたのはそれとは真逆の女の子。たとえ入部希望であったとしても、向こうから話しかけてくるのが筋であり、私から動く気はまったくなかった。
事実、それが一週間続いても私は動かなかった。流石に一週間も続けば他の部員も気付く。それが原因で集中力を切らす者もいた。しかし、それはその当人の問題だ。見られているだけで調子を崩す方が間違ってる(それならいっそ彼女に話し掛ければよさそうなものだと思うが、当時の部長であった私が静観の構えを見せていたために、それも躊躇われていたらしい)。
一週間後、彼女は来なかった。諦めたのだと、誰もが思った。私だってそう思った。理性では。感情でも。
しかし。
ただひとつ、嫌な予感だけがそれを否定した。
理由はそれだけ。もっと正確に言うと、私の嫌な予感は外れたことがない。それだけの理由で、私はあの少女を探しに行くことにした。
本当、嫌になるほどよく当たる。
彼女の姿は至極あっさり見つけることが出来た。場所は校舎裏、テンプレ過ぎて探す側としては助かった。
状況もまたテンプレ。外面の良い女子生徒が気に入らない転校生を取り巻き連れで囲み、評判の悪い男子生徒をけしかけてる、といった図。どちらが悪役か考えなくていい分にはとても楽だった。
ただ、目の前に示されている結果は逆だった。
男が腕を押さえて蹲り、女たちは囲むというには一歩引いている。
遠目でも私には分かった。男の腕は、折れていた。
しかし結果に至るまでの過程が見えてこない。だが、折った犯人が誰かは一目瞭然だ。
だから、転校生が次の行動に移る前にとりあえず落とした。当然、女どもと男にはきつく灸を据えておいた。
この後私は桜井から――この時初めて私は彼女の名前を知る――話を聞いた。とはいえ、彼女らの間に何があったかという細かい話は聞いていない。それは桜井のほうから話さない限り、私から踏み込む問題ではないと判断した。
訊いた事はひとつだけ。あの男の腕をどうやって折ったのか。
彼女は渋り、私は粘った。結果、先に根負けしたのは桜井だった。
“異常破壊力”。ロクな筋肉もついてない細腕で机を割るという実演付きで教えてもらった。ちなみに、実演を促したのは私からだが、それは彼女の言葉を疑ったからではなく――桜井はそう思っていたのでしょうけど――その力の程度を見極めたかった為だ。
転校生は潔癖症ではなく、その力で何かを壊すことを恐れていたという訳だ。
理屈などわからない。超能力や魔法といった、非科学的な言葉を用いなければ説明がつかない力なのかもしれない。わかることは、目の前で起きたことはただの現実で、事実だということだ。ならば、受け入れ、対峙せねばならない。
その場で、私は桜井を空手部に入れることを決めた。
相当渋い表情をされたわね。自分でも当然だと思う、こんな力を見せた後に体育会系の部活へ引き込めば、利用されると考えても無理はない。とはいえ拒否されることはなかった。やはり彼女は入部志願だったらしい。
後で聞いた話だが、桜井は義姉より武道系の部活動に入ることを勧められていたらしい。その判断は半分正解で、半分間違っていたと私は思っている。普通の中学の部活動で、しかも空手という――遺憾なことではあるが――マイナーなスポーツに専門的な指導教員がいるわけがないのだから。
だから、未熟ではあるが私が指導をすることに決めていた。
とりあえず、私がまずやったことは、上下関係の確立。それと、ネガティブな感情の根底にある「自分は何でも壊せる」という思い上がりを壊すこと。
そのために、まず桜井を完膚なきまでに叩きのめした。
攻撃は、全て受け止めた。受け止めて、流した。傷ひとつ付かなかった。受け止めた手は、痺れすら覚えなかった。
目を丸くした桜井は、こちらの攻撃に反応すら出来なかった……のは当たり前として、全身数箇所の骨に皹が入り、転校二週目で病院送りになってしまうとは流石に予想外だった。やり過ぎたとは思っていないけど。
まあ、結果的にはそれが良かったのでしょうね。入院中、お互いにゆっくりと話すことが出来たから。初めて見舞いに行った日には化け物でも見るような目で見られたけど。最初に教えることが年上への礼儀になったのは予定外だったわね。
その代わりといってはなんだが、先輩の務めとして愚痴を聞くくらいのことはしてやった。聞いて、やはり空手部に入れることにした。精神を養い、恐怖を克服しろ。力に振り回されるな、抑えつけ制御しろ、と。
……正直、偉そうにどの口が、と思いはしたが、しかし桜井にそれが必要なことに変わりはなかった。
そして退院後。あの子は自分の足で武道場へと入ってきた。いきなり大声で「よろしくおねがいします!」と挨拶されたときは、本当に同一人物かと疑ったわ。
いや、正直第一印象から体育会系が似合うとは思ってなかったから、空手として強くなるとはまったく思ってなかったのよね。当人曰く、昔からの性格はむしろこっちだそうだ。
とはいえこれで万事解決とはいかず、折に触れて暗く、周囲が触れ難いほどに拒絶のオーラを放っていることがまま見られた。それでなくても、普段からどこかに影が差す印象を残していた。どうやらまだ何か悩みを抱えているらしかった。おそらく、“異常破壊力”と同程度の。
そこから先は深く追及しはしなかったけど。そもそも桜井の問題が周囲に被害を与える類のものでなければ私は矯正しようと思わなかっただろうし。こうして関わった以上は最後まで面倒を見るべき、とも考えたけど、向こうだって話してこない事にこちらから触れる必要は感じない、と結局のところ私のスタンスはそのように落ち着いたのだった。
そして、周防の転入。……今思えば、転校当時の周防に対する桜井の態度は同族嫌悪だったのかもしれない。他人との関わりを拒む姿に、無意識に昔の自分を重ねていたのかもしれない。
いや……同族嫌悪ではなく自己嫌悪、だろう。桜井と周防には決定的な違いがひとつある。
桜井は弱い。脆弱に他者を撥ねつけ逃げる。
周防は強い。頑強に他者を踏み込ませない。
結果が同じでもそこへ至るまでの土台――心の芯がまるで違う。その違いを劣等感として覚えていたとしても……いや、考えすぎか。
ともあれ、周防だ。あれが来て以降桜井の雰囲気が上向いてきていた。何があったかは知らないけど、どうやらいい薬になってくれたみたいね。それでも……
「流石にいきなり根底が変わることはない、か」
ふうっ、と宙を仰いで一息。そのとき、
「んにゃああああああ!?」
絶叫。
「なんだっ!?」
その疑問の声をあげる前に既に身体は動いていた。この声は桜井。音源は私たちが向かう先――露天風呂。
「どうした桜井!!」
数秒で到達、勢いを殺さず暖簾をくぐる。
「何よ!?」
「なんだー?」
「……悲鳴?」
「今の声、桜井さん……?」
「何事でしょう」
ツルッ
「かっ!?」
バターン!
「なんやなんや?」
後続の女性陣も脱衣所へ駆け込んでくる――その間を縫って、私は一人反転し廊下へと逆走した。……右手に乾の頭を引っ掴んで。
「貴様、どさくさ紛れで何をしている」
手に力を込める。ぎしり、と頭蓋骨が軋んだ。
「ぎゃああああ!! 割れる割れる!! 弁明を、お慈悲を!!」
「そんなものはない」
切って捨てる。だがこいつにかかずらっている場合でもない。中には既に痴漢が侵入しているのかもしれないのだから。
乾を放り捨てて再び脱衣所。大股で通過し、他の皆を追って開かれていた曇りガラスの扉から浴場へ。先に行ったメンバーと顔を見合わせる。
……む? 騒ぎ立てる様子が聞こえないのが妙だと思っていたが、なんだ? 不審者への怒りという雰囲気は全く無く、総じて困惑顔を見せている。
「……どうした桜井、害虫でも出たか……」
故にその程度の軽い出来事だったのだろうと予想をつけて湯気の向こうへと声を投げて――
「オネーサマ~~ッ♪」
「――は?」
――流石に対応出来なかった。
「――ぴぇ?」
裸の少女が一回転し、冷たい石の床に背中から落とされた。
「アウフッ!」
……言い直そう。冷静に適切なレベルでの対処は流石に出来なかった。反射的に体を半身に反らし、後頭部を抑え足を刈り払っていた。いや、全身ずぶ濡れの人間に抱きつかれそうになっていたのだから、これはこれで適切と言えるのか。
「……目を回してしまいましたね」
「空手だけじゃないんですか、獅子堂先輩」
大の字になって気絶している少女を覗き込む石崎先輩と明野。さらにしゃがみこんで頬を突つく藤田……その指が体の方にスライドする前に押さえた。
「ちてきたんきゅーのじゃまされた!」
「どこが知的だ」
むしろ痴的だ。
ぽたり、と水滴が落ちる。前を手ぬぐいで隠した桜井が側に寄って来た。
「えーと、優姫先輩……? 何で、こいつがここに……?」
「私が聞きたい」
「……ええと、介抱、したほうがいいんじゃ……ないかな、その娘。サフィさん……だっけ」
……呆気にとられていたということもあろうが、その当然の発想が内気な鈴木先輩の口から出るまで誰からも発せられなかったということが、我々の人間性を如実に表しているのかもしれない……。
Another eye
「ハア……なンといウ僥倖カ……マサカ、ココがオネーサマの御旅行先とは。サフィ、神の存在を信じそウでござイます」
「それは嬉しいわ。是非、ウチの教会にお布施を納めてくれないかしら」
「ハッ、いきなり金の話カ。所詮宗教ナド体よく金を巻き上げルためノ戯言に過ぎナイとゆウ事だナ」
「社会構造が金銭資本なのだから仕方ないことよ」
「明野さん、シビア……」
「神様に仕えてる身として、その発言はいいの?」
「ウチが貧乏なのは事実ですから。それに、人を作りたもうたのは主ですけど、お金を作ったのは人だもの。金銭の遣り取りはあくまで人の営みであり、あたしの信仰心を揺るがせるものにはなりえないわ」
「免罪符って知ってルカ?」
「プラシーボってご存知かしら?」
明野さんが銀色の綺麗な髪を指で梳く。ぱちゃり、と波紋が広がった。
……なんで、安らぐはずのお風呂でこんなに緊張しなくちゃならないんだろう。
「ザザッ、こちらチャーリー、どーぞ」
「……トランシーバー、かしら藤田さん」
「おー、むりがあるな!」
「自分で言っちゃった!」
「あまいなキリン! てめえのけつはじぶんでふくものさー!」
……格好良い台詞のはずなのにこれっぽっちも格好良くないなあ。
「ホウ、見上げタ根性ジャないカ」
「……今更藤田に言っても無駄な気はするけど、ケツなんて女の子が使っていい言葉じゃないわよ」
「んー、じゃあア○ルか?」
「沈むか?」
「いや、にげる! およいでにげる!」
そう言ったかと思うと藤田さんは副会長の怒気にも取り合わず、お風呂の石縁を掴んで本当にバタ足を始めてしまった。
「わーい」
「わぷっ」
ばしゃばしゃと跳ね上がるお湯が桜井さんの顔にまともに引っ被る。
「ぷくぷくぷく……」
逆に口元まで沈んでやり過ごす鳳さん。いい具合に力の抜けた表情で、このまま寝入ってしまっても不思議じゃなさそう。
藤田さんを止めようとする桜井さん、その桜井さんに集中してバタ足の勢いを増す藤田さん、その様子を安全圏から高みの見物と決め込んでる明野さん、その明野さんに不意打ちでお湯を被せるサフィさん。
なんだかんだありつつも、結局みんな温泉を満喫できているみたいだった。
「皆さん、テンションが高いですね」
長い黒髪をアップに纏めたあんりが私の傍にちゃぷんと浸かる。
「楽しめていますか、水芭さん」
「うん」
聞くまでもなくわかってたのだろうけど。私の感情の機微は、この幼馴染みには筒抜けだったりする。
「……ちょっと、怖いこともあるけど」
「大丈夫ですよ。姫さんがいらっしゃれば本当に険悪になってしまう前にお止めになられるでしょうから」
「……それはそれで、怖いよ……副会長が」
引率の先生みたいな心境なのかな、ばしゃばしゃと騒ぐ後輩たちを仕方ないな、とでも言いたげな視線で眺めている。……なんでお風呂でまで眼鏡掛けてるんだろう。
それにしても……健康美っていうのかな、手足と同じように腰もきゅっと引き締まって、そのおかげで服を着ていたらぜんぜんわからなかったんだけど、
「姫さんって、着痩せするタイプだったのですね」
「うん……」
思わず頷いてしまった。脱いだらすごいっていうあれ。服着てるときはおなじくらいだと思ってたのに、脱いだらすごい差がついてたっていう不思議現象。ちょっと泣きそう。
桜井さんやサフィさんも手足がすらっとしてるし。やっぱり運動してるとちがうのかな。明野さんなんてとても肌が白くてきれいだし。
「ふふふ、お気になされることなんてありません。水芭さんはとても可愛らしいですから」
「ひゃうっ」
ちょ、ちょっと、突然後ろから抱きつかないでよあんり!
むに、もに
「ひゃ、う! あんり、どこさわって」
「大丈夫です。成長具合を確かめているだけですので」
もみもみ
「ひゃううう」
「……お変わりないようです。おかしいですね、翠歌くんに昔から揉まれ続けてこの大きさというのは……やはり男の方に揉まれて大きくなるというのはただの都市伝説なのでしょうか」
「~~っ、このヘンタイ姉弟!」
顔が急激に熱くなって、反射的に手が伸びた。
ばちん
「あうっ」
どぼんっ
額を軽く叩いただけでいつものように後ろにひっくり返った。いつもなら後頭部を押さえて唸っていても放置しておくところだけど、流石にお風呂でそれはできない。本当に死んじゃう。
「もがっ」
って、もう溺れてる!?
「もうっ、少しは反省してよっ」
「ごぼごぼ」
なに言ってるのかわからないって。
もがくあんりの手を捕まえて引っ張る。けど、運動音痴のあんりほどじゃないけど私だって非力なほう。倒れたほうが協力してくれるならともかく、暴れる相手を引っ張り起こすことができない。
「……何をやっているんだ、貴女たちは」
と、横からすっと伸びた手があんりの両手をつかみ、軽く引き上げてくれた。
ざばっ
「げほげほっ。助かりました、水芭さん」
「あ……ううん、私じゃなくて」
「石崎先輩、これに懲りたらセクハラは自重するのがよろしいかと」
副会長が冷たい目であんりを睨んでる。うう、睨まれてるのは私じゃないのに怖いなあ。
「それは不可能です。水芭さんを愛でない私など私ではありませんから」
なんて迷惑な信念なんだろう。
ところで、みんなの目が私たちに集まってる。正しくはあんりに、もっと正確にはあんりの、その、
「……浮いてる」
明野さんの絶望的な呟きが耳に届いた。
「アレは脂身、アレは水風船、アレはゴムマリ……」
ひい、サフィさんの周りの空気が肌の色よりずっと黒いよう。
「……杏李先輩、見せ付けてるんですか、それ」
桜井さんがストレートに言った。ちょっと目が据わってる。桜井さんだってじゅうぶん大きいと思うんだけど。
「ふふふ、皆さん」
それら羨望混じりの敵視を受け止めて、あんりは言った。
「女性の価値は胸の大きさで決まるものではありませんよ」
……そうだけど! そのとおりだと思うけど! その言葉はあんりだけは言っちゃいけないって!!
「どの口ガ……!」
「これっぽっちも本音に聞こえないわね。あれかしら。あたし、挑発されてるのかしら」
あわわわわ。
「そんなことはありませんよ。例えばうちの翠歌くんですが、私が抱き締めてお顔を胸の間に挟んでも苦しそうに振り払われるばかりで、でも水芭さんのお胸は翠歌くんの掌にジャストフィットでいらっしゃるのか、幾度も幾度も――」
「ちょっとーーー!?」
ななななに口走っちゃってくれるのこの幼馴染みーーー!?
「…………へえ」
「わあ……」
「ナルホド、男は大きさヨリ揉ミ心地……」
「貴重なご意見、ありがたい」
わー、わー、わあああああーー!! 頭抱えて駆けずり回りたい気分だよ!!
「皆さん、水芭さんをあまり苛めないでください。恥ずかしがりやで初心な可愛らしい女性なのですから」
だから、あんりが言うなーーー!!
「でも知らなかったな。翠歌先輩ってこんな可愛い彼女いたんだ」
桜井さんの予想外の一言でパニックが覚め、代わりに脳内の温度が急上昇。さらに、いきなり恥ずかしくなってきた。
「ええっ……可愛いって……それに、彼女って……」
「……まだなのですよ」
と、あんりがこれ見よがしな溜め息を吐いた。
「もう、絶対OKに決まっていますのに、翠歌くん、未だに告白することを躊躇っておられるのですよ」
「……んーと、それはちょっとみっともないっていうか」
「ヘタレね」
「ヘタレダな」
「はい、それはもう間違いなく」
すいかに甘いあんりもこの件に関してだけは厳しい。私のほうからだって何も言えないんだからおあいこだとおもうんだけど、あんり曰く「男性からはっきり仰らねば」ということらしい。
……九分九厘大丈夫だってわかってても、怖いんだよね。万が一勘違いだったらどうしよう、とか。『幼馴染み』から『恋人』になるって、どう変わるのか、とか。
「翠歌くんがこの旅行にご一緒されてましたら、お風呂場でバッタリ、と定番のイベントを仕掛けるところだったのですけど」
うん、すいかがいなくてよかった。……ちょっとだけ、いてもよかったかもしれないと思う気持ちがあったりなかったりするかもしれないけど。
「……そういうのは、せめて三人だけの旅行のときにして下さい」
いや、そしたらあんりの歯止めが効かな……? 副会長、湯船に浸かったまま桶にお湯を汲んでなにを……?
「――フッ!」
そのまま横回転で……投げた! 女湯と男湯を分ける塀の上へそれは飛び――
ズガンッ
「ギャッ!」
ちょうどのタイミングで出てきた何かにぶつかって、
ドシーンッ
「ぐえっ」
その何かは、男湯の石畳に落っこちたみたいだった。
「「「…………」」」
「……まあ、この手の馬鹿をする顔は、あの面子の中だと決まってるわね」
「あいかわらずばかだなー、けー」
「……伊緒、せっかく明野さんがあえて特定は避けたのに台無し……」
……あれ? みんな、副会長にはツッコミなし? ううん、うちの副会長なら何でもアリって気はするけど。
「反省の色無し。後で制裁だな」
なにか怖いことを呟いて、手拭いと桶を掴んで洗面所へと歩いていく副会長。……女の子同士だからって、ちょっと堂々としすぎじゃないかなあ……。
Another eye end
「……何馬鹿やってんの、あれ」
「愚問だな、周防。馬鹿は馬鹿なことをするから馬鹿と呼ばれるのだよ」
「それはトートロジーじゃね?」
「いや、定義さ」
乾が女湯を覗こうと敷居の壁をよじ登る様子、そして一撃で撃墜される様を傍観していた俺とキョウはそんな感想を述べ合う。
ついさっき便乗で女湯に入り込もうとして獅子堂に阻まれたばかりらしいのによくやる。ていうかな、獅子堂がいる限りどれだけこそこそ立ち回っても無理だろ。そう、それこそこの壁を一撃で崩すとか、そんな荒業でも用いない限り。
「……で、見事に気絶してるな」
「ふむ、仕方ない。連れ出すとしよう。なあに、まだ来たばかりだ。温泉を堪能する時間は十分にある」
そう言うとキョウは乾を引きずって曇り戸の向こうへ消えて行った。
乾をダシにして逃げたか。余計なヤツがいなくなれば俺を連れてきた理由を問い詰められかねないと踏んだな。訊いたところでまともに答えるつもりなんてない癖に。
それにしても姦しい声がよく響く。それと何だ、昨日の黒メイドがいるみたいじゃないか。獅子堂を追ってきたのか?
「……レリ、お前は」
『覚えてないよ。わかってるでしょ? こおりがあの時のことを忘れてるならぼくだって忘れてる』
「だよな」
自分ではない自分。オーナーとミスティってのはそういうものだ。
「……で、お前熱くないのか」
横目でお湯にプーカプーカと浮いてるレリーフをジトッと見る。
『ちょっと。あれだよね、こういうところのお風呂って温度高めで、明らかにお年寄り向けだよね』
そう言いながら氷の葉がパチャパチャと動く。それはお湯に浸かってても溶けることなく、逆に周囲の水温を下げているのだ。こういうあたりもまた、ミスティの非常識さ加減である。
『ま、ちょっと熱いのを我慢するくらいが粋ってものだよ』
「何を訳知り顔に。お前が温泉の何を知ってるって言うんだ」
『む、聞き捨てならないなあ。ぼくは温泉で骨抜きになることに掛けてはミスティでも一、二を争う自信があるよ』
「何妙な自信つけてんの、お前。子供の頃はちょっと熱いお湯浸かるだけでギャーギャー泣いてた癖に」
『むむむ、昔は昔じゃん!』
「で、子供の頃より後は温泉入る機会なんてなかったよなあ?」
『それはこおりが修学旅行とか全パスしたからだよね!?』
え、そだっけ? 修学旅行、修学旅行……うん、行ってないな。
『うう……いいよ、ぼくはこの温泉を堪能するんだもん。こおりだって、もうここにいる事実は変えようがないんだからさ、楽しまないと損じゃない?』
「……ま、そりゃそうだ」
つま先まで伸ばせるほどでかい風呂に入れる機会なんてそうはない。ちょうどいいことに今は俺とレリの二人だけだ、ぐーっとリラックスするとしますか。
『で、誰もいなくなったところで、こおりは覗きとかしないの?』
「しないすると思うかお前は俺を何だと思っとる」
息継ぎひとつ入れずに抗議。まあ冗談の類だとわかっちゃいるが。
『うーん、こおりにもいーかげん発じょ……好きな娘の一人や二人出来てもいい頃だと思うんだよね』
「失礼な。俺だって異性に欲情することぐらいざらにあるぞ」
『いや、わざわざ言い直したほうに突っ込むことないよね!?』
といっても……好き、ねえ。
「俺が他人にそんな強い感情振り分けると思う?」
『性的欲求は強い感情でないと?』
「本能だろ、人間の、いや生物の」
『本能に従って覗きを?』
「引っ張るな。本能を抑制できるのが理性であり、人間だろ」
『つまり、本能では覗きたい?』
「それもない。馬鹿らしい」
『だよねー』
結論、乾は馬鹿。
それから雪化粧の施された風景を眺めるでもなく眺めて数分、いい加減熱くなってきたところで出ようとして、
パチャンッ
「ん?」
背後から――岩縁を背もたれにしているので、つまり浴槽の外から、何かが水の中に飛び込んだかのような音が聞こえた気がした。
特に何を意識するでもなく振り向き様に、目の端に何かの影を捉えたような気がしたが、完全に視界に納めたときには当然そこには何もない。
「…………」
ここで湯船から上がり、その影があったと思わしき場所へ近づくあたり、俺は君子とは呼べないだろう。まあ、どうせ気のせいだとは思うし、どうでもいいことではあるけど、一応念の為。
男湯と女湯を分かつ壁の真ん前。だからどうしたってことはないけど。この壁がいきなり崩れでもしない限り俺がどこにいようが何の問題もないんだし。
石畳に手を着く。……普通の石だな、特に水が溜まってる場所なんかもないし――
『! こおり伏せ!』
手を足を投げ出して五体投地。次の瞬間、頭の上を何かが通り過ぎ、次いで鋭い断裂音、とどめに頭の上に落ちてくる硬いもの。手で頭を抱え防御姿勢。痛いものは痛い。
立ち上がる。振り向く。“Ripple”――
「な……な……」
……妙に背中の風通しがいい。この驚きに掠れた声も、ここで聞こえるはずない人間のもののような。
そろり、と首を回す。そこには、
「「「…………」」」
崩れた禁断の壁の向こう、いずれも呆気に取られた、よく知る女性陣の顔。それだけではなく、普段では決してお目にかかれない、彼女たちの赤裸々な姿。
大、中、小、様々な女性の象徴。水に濡れ煌く、若く瑞々しい肌。各々の曲線を描く、柔らかなボディライン。
この状況において、俺が言えることはひとつだけ。
「絶景哉」
うん、馬鹿だ。引き金を自分で引く辺りが特に。
「死んじゃえーーっ!」「死になさい!」「死んでください」「あはは、しねーっ」「……ワア」「……はふう」「ぷくぷくぷく」
堰を切ったように飛んでくる風呂桶。さらにそれら弾幕の中を飛び込んでくる一人の英雄。数歩で俺を射程へと収める。
初めて間近で見るそいつの素顔。しかし、印象に残るのは憤怒に燃えるその瞳のみ。
「地獄へ落ちろ」
ズバン、と腹を逆袈裟に斬り上げられたかのような衝撃とともに、俺は浴槽へ頭から落ちていく。その一瞬といえる間、俺の脳裏に浮かんだ言葉はたったひとつ。
……獅子堂サン、マジ怖い。
杏李>>>輝燐≒優姫>>伊緒>サフィ≒水芭>真砂>>心。
何が、かはあえて言わないけど。