第四話 上下関係――ある部活・ある幼馴染み・ある主従
結局こおりちゃんを翻意させることは出来ず、明野さんが未定で、とりあえず現時点では八名の参加が確定になった。
わかってたことだ、こおりちゃんには集団の中にいる気自体が無い。
「でもですね、ボク、こおりちゃんは連れてくべきだと思うんですよ」
ヒュンッ
「ふうん、強制的に参加させても楽しめないと思うけど。その理由は?」
パシンッ
「だっていつでもどこでもひとりきりなんて、絶対精神衛生によくないですよ」
ビュッ
「だからとりあえず集団の中に放り込んでおく? でも、それって逆効果になりかねないわよ」
スパンッ
「っとおっ、え、どうしてですか? こおりちゃん別に内気って訳じゃないし、普通に話も出来るから、皆の中にいればそのうち自然に溶け込んでいきそうじゃないですか?」
シュ、シュッ
「ないわね。あれは強いて『孤』でいるわ。不特定多数の中に放り込んだところで、自分と他の差異を浮き彫りにするだけだと思うけど」
トン、パンッ
でも、自分と他人が違うのなんて当たり前なんだから、
「――そんなの、妄想とおんなじです!」
踏み込み、中段突き。本気で打ち込む。
『異質性』“Attack”を乗せた、本気の拳。
「――そうでもないわ」
その拳は左掌で受けられ、
ズンッ
同時の右脚の踏み込みにより、地面が揺れた。
流された。力が吸い取られたかのような感覚。一瞬の脱力。目の前に、先輩の右掌。
「……参りました」
「うん。相変わらず直感に頼り過ぎね。もっと考えて身体を動かさないと」
「でも、偉い人は「考えるな、感じろ」って」
「それは考える必要もないほど武が身体に染み込んだ達人の話ね。理性と本能の融合が至高であり、決してドタバタ殴りかかれと言ってる訳じゃないわ」
「ドタ……バタ……」
自分じゃあ無駄のない動きをしてるつもりなのに、先輩にはそう見えてるのかー……。
ズーンと落ち込みかけるボクに、優姫先輩は相好を崩した。
「ふふ。でも桜井の素直な拳は嫌いじゃあないのだけれどね」
そう言って微笑うけど、片っ端から避けられいなされ、渾身の一撃に至っては正面から止められてる身じゃあ、到底褒められる出来とは思えなかった。まあ、優姫先輩にとって空手ってあくまで「趣味」らしいからね、そこまで厳しい水準を要求する気はないんだろう。
「で、少しは憂さが晴れたかしら。生憎打たれ役にはなってあげられなかったけど」
「はい、まあ……少しは」
気ままに殴るだけが鬱憤の解消方法じゃない。特に最後の一撃を避けず受け止めてくれただけでも気晴らしになった。こおりちゃんが現れるまで、ボクの本気を平然と受け止められるのはこの人だけだったのだ。しかも、こおりちゃんと違って純粋な技術で。
「で、周防のことだけど。そういうのって、確かにあるのよ。差異というより、どうしようもない隔絶って」
……大企業のお嬢様で、学園内では「最強」という不動の地位により畏怖の念を一身に集める人の言葉は、説得力があった。
「とはいえ、私もあれはあのままでいいとは思ってない。あれは、放置しておくにはあまりに危険よ」
「危険……?」
「ええ。常識とか倫理観ってものを、平気で飛び越えそう」
聞き返したのは疑問の意ではなかったけど、先輩は律儀に返答してくれた。事実先輩の言うことは的を得ていて、「人を殺せる、殺した」とこおりちゃんは発言している。実際その場面を見てはいないけど、本当にやる、と思わせる雰囲気がこおりちゃんにはある。
「往々にね、才能のある人間っていうのは一人突出して行動したがるものなのよ。周りに合わせるより、最低自分さえ居ればどうにかなるって考えるのかしら。だから自分の意見をより正しいものとして通したがる」
そう聞くと子供っぽいだけ、と思うけど、
「ただ、あれはちょっと違うわね。自分の意見が優れている、なんて思考は微塵も無い。やると決めた、だからやる。それだけの決断力と行動力は正直――尊敬に値する。でも、だからこそ放置は出来ない」
驚いた。敬意という言葉もだけど、それ以上に何も知らないはずの先輩がこおりちゃんという人間をここまで理解していることに、だ。何か、そういったものを感じさせる出来事でもあったんだろうか。
「よく……わかりますね」
その台詞に少しいぶかんだような感情が混ざってしまったのは……多分、サフィの所為。
あの夕方、ボクたちを襲った仮面メイドとあまりに相似した姿、動作。同一人物と断定して構わないだろう。そして、そのメイドの主である優姫先輩……。まさか、とは思うけど邪推してしまう。そっちの繋がりを。
「それは……まあ、根拠もない直感よ」
言葉を濁した、とは断言できない。この先輩の直感が優れているのはよく知ってる。それでも直感にしちゃ具体的過ぎかな、と思う。
「そろそろ帰るわね。サフィエルも待ってるでしょうし」
「あ、はい」
こちらから質問を連ねる前に打ち切られる。仕方ないか、ここで突っ込んだ事聞いて雰囲気悪くなってもやだし。
もう三年の付き合いになるんだから、先輩がどんな人間かくらいは分かってる。だから、どうあっても悪いようにはならないだろう。背中を見せて武道場を去る先輩に、
「先輩、また明日です!」
いつも通りにさよならを言って、
「ええ、また明日」
いつも通りの返事を貰った。
そのまま先輩を見送って、
「……よしっ!」
最近日課になった練習を始めることにする。……そういや、もう結構時間経つけどそっちの師匠がまだ来ない。
「……ま、いっか」
どうせ一人でも出来るし、先に始めてれば向こうには分かるんだから。
そう判断して、『霧』を展開した。
「逃げなかっタことハ褒めてやル」
「いやあ、ははは。そんな、僕が逃げるはずないじゃないか」
白々しい。今の今までサフィから逃げ回っていたくせに。オネーサマのいる学園にいて、サフィから自分の存在を隠してなかった、など言わせない。
何より、コーリに先に接触しておいて黙っていたことが許し難い。
「そうカ。罰を受けル覚悟は済ませてイる、とユーことだナ?」
チキ、と左右の指の間に取り出すフォークとナイフ。さらに、陽炎のドアをゆらりと開く。
「いや、待てサフィ」
両手で押し留めながら後退していく、気弱な中間管理職のような仕草。刻み込んだ上下関係をしっかり覚えてるようで何よりだ。また躾け直すのは面倒だからな。
「待つ時間などナイ。オネーサマをお待たせするワケにはいかない。手早く、キリキリと、コーリについて話してもらうゾ」
「う、うむ。こおりちゃんについてというと、あれかな? 料理の腕が、かなりの域まで上達しているらしいぞ」
――雷が、駆け抜けた。
「なン、だと」
コッ、コーリが料理だとォッ!? そんな、小間使いの如き真似、このサフィのような下働きに任せてくれればいいのに! しかしコーリの料理ならばその美味は天にも響き渡り至福へ導かん事必定! 是非、この下女の舌にもご賞味させていただきたい所だが、そのような手間を掛かせるワケにも――
「悩ましイ」
「うむ、満足してくれたようで何よりだ。では僕はこれで」
「逃がすカ」
――既に準備していた『霧』を展開した。
「……ここまですることないんじゃないかな、サフィ」
「フン。今度煙に巻こウとしてミロ。そのときハ――」
隣へと手を向ける。そこにはサフィの腰までの高さの、太い上腕から後ろ脚が延びている変則的四足獣。『霧』と同時に喚び出した異界の生物。サフィでないサフィ。ミスティ・ヘーゲルネ。
「調教し直してヤる。骨の髄までナ」
「あ、相変わらずSだなぁ」
「違うヨ。サフィはMダ。オマエと違って」
そう。だから、コイツは何時まで経ってもサフィより下だ。
学園生徒の自治組織、生徒会。その長がキョーで、オネーサマがその下に就いていることの示唆を、サフィにはすぐに看破出来た。そこにあるのは、生徒会の持つもうひとつの顔、ブリッジの下部組織というわかりやすい理由だけじゃない、キョーという一人の人間に関わる理由がある。
怖いのだ。圧倒的過ぎる『存在』を再び体感することが。
「恐怖と同居出来ナイ体たらクで、アノお二方と共に居よウなど、片腹痛イ」
「……前から思ってたのだが、キミ、片言の割には日常会話で使わないような言葉を頻繁に使うな」
「ダカラ話を逸らすナ、と言ってルだろウ?」
合図は、要らない。
飛び掛ったヘーゲルネに、キョーの身体は押し倒された。
同時に馬乗りにされ、さらに服の肩をカンッとフォークで床に縫い付ける。
「……ぐっ」
「上出来だヨ、キョー。咄嗟に陽炎のドアを開いていたラ、さらニお灸を据えるところだったヨ」
コイツのビジョムス……いや、テレムスはレギュラー、ヘーゲルネはコモン。クラスではコッチが劣っているが、生憎勝敗を決定付ける条件は何もソレ一つじゃない。その証拠に、サフィはキョーに勝った例しかない。本来戦闘タイプでないビジョムスの脇をすり抜けてキョーをフルボッコにするなんてオチャノコサイサイだ。
「キョー、答エロ。……ハルカは、コーリに何をシた?」
「何、と言われてもな」
「オマエもとぼけルのカ? コーリが、サフィを忘れルはずないだろウ!」
それは、コーリからサフィへの評価じゃない。サフィたちからコーリへの評価だ。
コーリが、一度『友』と認識した相手を忘れるなど、有り得ない。ましてやサフィは――バカな思考は捨てろ。
「コーリの精神ニ介入できルなら、ハルカ以外有り得ナイ」
「興味深いお話です。私にもお聞かせ願えませんか?」
――あるはずのない第三者の声に沈黙したまま振り向く。ガチャリとドアが開き、黒髪の女が姿を現した。
「キサマ……どうしてココにイル?」
「こーりんを一番よくご存知と思われるお二人が、ご一緒に残られているようでしたので」
イシザキ・アンリ。どこまでも胡散臭い笑顔を浮かべて、サフィの問いとは意図のズレた答えを返してきた。
「一応、私はこーりんの監視を任ぜられている正式な『ブリッジ』の一員であるはずですのに、教えられていることはあまりに少ないのですよ? かといって上司に詰め寄る訳にもいきませんし。ですから、ここはあくまで協力者でしかいらっしゃらないキョウさんと、それどころか敵方の一員でいらっしゃるサフィさんに伺うのが摩擦が少なく済むのではないか、と考えた次第でして。水芭さんにはお先にお帰り頂いて、戻ってきた所存なのですよ」
「オマエの事情なんて聞いてナイ。古代種オーナーのオマエが、どうやってサフィの『霧』に侵入ってきた、と訊いてル」
古代種の「霧を分解する」という性質上、そのオーナーは『霧』を喚べない。召喚主に指定されていない者が『霧』に入り込むためには、やはり『霧』が必要なのだ。コーリほどの技量があれば、逆に古代種の性質を利用して侵入することは可能だが、この女に真似できるものじゃナイ。
「私のミスティは何度もご覧になられたことがあると思います。それでも、まだわかりませんか?」
挑発の意を無視して、アンリの腕の中に納まったイモムシ型ミスティ・ワーミンを見る。
……そうか。念系か。
十系の一つ、念。いわゆる超能力、サイコキネシスというヤツだ。能力としての発現の仕方こそ個々のミスティにより異なるが、それ以前に念系の持つエネルギーそのものがある特性を有している。
すなわち、空間干渉。テレポートなどはその典型だ。
そして、『霧』への侵入すなわち別空間への侵入。早い話が、作り物の空間の境界に穴を開ける程度の芸当、彼らにとっては技にも満たない手慰みに過ぎないってコトだ。
「ナルホド。……ダガ迂闊じゃあないカ? 今ココで、ともすれば奇襲に使える力を晒してしまうとはナ」
「あらあら。サフィさん、貴女――私にお勝ちになられた例がありましたか?」
「ソレでサフィの上に立ったつもりカ? ハモれもしないミスティ頼みの分際デ」
チリッと肌がひりつく。お互い、懐に手を差し込んで――
「そこまでにしよう、二人とも。サフィ、この『霧』は長時間の運用目的で張ったものではないのだろう?」
「……その通りダ」
長々と話してオネーサマをお待たせするなど、断じて許されることではナイ。
「私も早く水芭さんに追い付きたいですし、……こうして睨み合っているだけでは埒を開けようがないですしね」
両者合意の元矛を納め、ついでにヘーゲルネをキョーの上からどかす。
「やれやれ。……さて、話を続けようか。とは言っても言われたことに心当たりは全くないのだが」
「そもそも、何故桜井理事を名指しで? やはり、ご一緒にお暮らしだからですか」
「そんなの、可能な生物がハルカしかいないからに決まって――ハアアッ!? ナッ、ナッ、今ナント!?」
「あ、う、えー、それはだな、」
「こーりんは、只今桜井理事のお家で暮らしてられるのですよ。ご存じなかったですか?」
「きっ」
聞いてねーゾ、アノ天然!
「……ゴホン。あー、僕は遥香女史について詳しくないのでね、その様子だと二人のほうが彼女についてよく知っているのでは――」
「ナチュラルに話を元に戻そうとすンナ! ハッ、ハッ、ハッ、」
「……舌を垂らした犬さん?」
「ハルカとコーリが、同棲だトォッ!! 奴メ、仕事にかこつけテコーリを籠絡するツモリかッ!? とっくに過ぎ去ッタ灰色の青春時代を今になッテ往生際悪く取り返そうってカァッ!?」
「あれ、頭痛ですか?」
「うぅん……なんだか、今どこかの誰かにとてもヒドイこと言われたような気がするよぉ。とりあえず、今度心当たりを片っ端から問い質してみようかなぁ。手始めにサフィちゃんあたりから当たってみよおっと」
「ふふふ。安心してくださいサフィさん。桜井理事はずっとお仕事中です。引き取っておいてずっと放置というのは如何なものかと愚考する次第ですが」
「――ハッ! あ、ああソウカ、そうだったナ。チッ、驚かせるんじゃナイ」
「(……ご存じでいらっしゃいましたか。機密事項のはずですが、どこまで把握しておられるのでしょうか)」
「(……輝燐クンのことは気付いていないようだな……助かった)」
……キョーめ、まだ何か隠してるな。まあいい、確かにこれ以上ズルズル引き延ばす訳にもいかない。
「とにかく、コーリとハルカは接触しているのダロウ? ならば決まりダ、ハルカがコーリの記憶ヲ弄ったに違いナイ」
おのれハルカめ、何を企んでいる?
「そうだろうか、僕は違う考えだが。案外、少し刺激してやればキミのことを思い出すかもしれないぞ?」
「ヌ? 馬鹿言うナ、ハルカならバ念入りに記憶を消していルだろウ、簡単に復元出来ルはずがナイ」
「消されているならそうかもしれんが、単に思い出せないだけかもしれないぞ?」
「ソレはサフィを侮辱しているのカ、それともコーリをカ? そんなことは有り得ナイと、オマエだって知ってルだろウ」
「そうだな、普通ならサフィの言う通り有り得んだろう」
「ええと……子供の頃のことですから、普通に忘れておられるだけ、ではダメなのですか?」
「ダメダメだね」「駄目だな」
「……続けて下さい」
「うむ。確かに普通なら有り得ない。だが、忘れているわけではないだろう? この街で、何が起きたのか」
キョーの指摘が示すモノにすぐさま思い至る。サフィが口にするより先に、アンリが答えた。
「『白い死神』ですね」
「ああ。その後半年眠り続けていたんだ。検査で異常は診られなかったはずだが、記憶の一つや二つ飛んでいてもおかしくない」
「……チッ」
言われてみればナルホド、そちらの方が可能性が高い。ハルカといえどコーリの記憶を弄るのは容易な話でなく、しかし他の可能性が見当たらなかったから断言してしまったが、どうやらハルカという大き過ぎる存在を前に視野狭窄に陥っていたらしい。
「しかし、改めて考えてみればその辺りの後遺症が残ってないか、気にした事は無かったな。こおりちゃんに一度聞いてみるのもいいかもしれん」
「素直にお答え頂けるでしょうか、あのこーりんから」
「大丈夫だろう。健康診断の延長程度の事、余程の事がない限り問題あるまい。他人事に無頓着なこおりちゃんなら記憶に抜けがあるとしても隠したりしまい」
「他人事、ネ。やハりソウなってたカ」
その程度は予想通りだ。あの事件でコーリは自覚しただろう、己が世界の異端である、と。
その「他人事」の対象にはサフィも含まれているのだろうが……悲観する気持ちは全く湧いて来ない。
それでいいのだ。コーリとサフィでは存在する次元がまるで違う。サフィ如きをコーリがいちいち気に掛ける必要はないのだ。そう考えれば、コーリがサフィを覚えていないのも、結果的にはプラスなのかもしれない。
「だがサフィ、こおりちゃんがキミを覚えていれば決して他人事扱いなどしないはずだ。こおりちゃんにとってキミは――」
「――お喋りが過ぎるヨ、キョー」
トンッと、キョーの肩にヘーゲルネが乗った。二人とも表情にこそ出していないものの、驚愕と警戒の気配が明白に伝わってくる。
初動に、全く反応出来なかったのだろう?
「サフィさん、今のは」
「オマエには出来ないことだヨ、鈍牛女」
「……挑発のおつもりですか」
フン。ようやくその胡散臭い笑顔を消したな。
「さっきも言った通リココでヤりあう気はナイヨ、時間もナイしネ」
「そうですね。では、持ち越しという事で」
結ばれた休戦はそのまま導火線に灯された火種だ。必ず爆発の時が来る。
とはいえ、それは一先ず置いておく。所詮本題からは脇道に過ぎない。
「とりあえず、僕の方でさりげなく聞いておこう、彼がどの位の事を忘れてるのか」
「仕方ナイ。そういう裏方仕事は確かにキサマの方が得意だ」
「裏方役が裏方仕事で負けているとハッキリ言われてしまうのはどうかと思うのですが」
「サフィは裏方じゃなくテお側付きだかラ。オマエらみたいな腹黒デもナイ」
「適材適所というヤツさ。サフィより機会も多いからな、任せておくといい」
「……そーいえばキョー、キサマコーリの近くにいるコトを黙ってタ仕置きがマダだったナ」
意図的に言葉の温度を下げ、袖からではなくポケットから殊更ゆっくりと取り出す――コルク抜きを。ソレを瞳に映した途端、キョーの顔がさっと青褪めた。
「い、一応僕にもキミにも立場というものがあってだね?」
「黙れ。ソレ以前にキサマはサフィの下っ端だと何度言えば理解出来ル?」
ぽーんぽーんとコルク抜きを手で弄ぶ度にキョーの顔から色が失われていく。
「オネーサマとコーリ、お二人と一日の大半を一つ屋根ノ下……ナント至福な環境……! ギギギ、マジ妬ましイ」
「ヒッ!? ストップ、悪かった! 僕が全面的に悪かったから、その手の凶器をしまってくれたまえギャッ!」
「……キョウさんの悲鳴、初めてお聞きしました」
アンリがどーでもいいことに感心している。ちなみに最後の悲鳴は、最初の悲鳴でビクンと肩を揺らした所為で、そこに乗ったままのヘーゲルネに顔を引っ掻かれた悲鳴だ。バカめ。
「ヨシ、サフィも来週からココに通う」
「い、いや、君は僕の二つ下だろう。流石に無理だから」
「……熱でもあルのか、キョー。オマエがソンナ普通のことを言うなんテ」
「サフィさんの仰られるとおりです、キョウさん、失望しました。それでも生徒会長さんなのですか」
「い、いつから横紙破りが生徒会長の仕事になったのか知らないが……サフィ、もう一度言うが自分の立場を考えてくれ。キミの入学、まして編入など認めてもらえるはずがない。今この場で戦闘が始まっててもおかしくないんだぞ?」
……そんなこと、言われるまでもナイ。
「フン。――キョー、貴様に重要な任務を与えル。ソレで不問としてやルからありがたく思うがイイ」
「……ああ、なんだ?」
警戒して、しかし反駁はしなかったキョーにわずかに満足し、コルク抜きと交換で服の中から取り出したモノは、
「貴様はカメラマンダ。オネーサマの浴衣姿、確実に収めておけ」
差し出すデジカメを、
「うむ、了解した。万難排して達成しよう」
キョーは自信あり気に、面白そうにニヤリと笑った。よろしい、サフィの下っ端ならその程度の度胸はナイと。
と、ようやくヘーゲルネがキョーの肩からストンと下り、同時に世界がスッと晴れた。リミットだな。
……オヤ?
「『霧』が張られているナ」
規模はごく小さい。校舎の離れにあるあの建物は、武道場だったか。あそこを中心に渡り廊下いっぱいまでを半径として覆う程度の範囲。戦闘目的で張るには場所も規模も半端が過ぎる。とすると、
「オマエたち、こんな時期に新人研修ヲやってるのカ?」
「私たちのお仕事に、時期はあまり関係なされないと考えるのですが」
……時候という意味ならそうだろうがな。今、この状況下で、新人なぞ鍛えてる時間は惜しいだけだと――
……待て。確か、オネーサマは道場に寄ると仰られて――
「――オイッ、キサマら!」
「待て待て待て待て、多分誤解だ! 優姫クンはおそらく既に武道場を出ている!」
……グッ、思考を先読みされた。しかしこの眼で確認するまで安心するわけにはいかん!
「今日の所はここまでダ! キョー、写真忘れるナ! ソレト、そこの肥満体にダイエットさせておけ!」
言い捨てて生徒会室を飛び出した。
まだ早い。まだ、その時ではない。
本来、サフィがオネーサマを心配するなどおこがましいにも程がある。アノコーリすら超える可能性を持つ方なのだ、シシドウ・ユウキという存在は。
しかし、だからこその不安がある。
かつてサフィは二度、都合三名のその場に立ち会った。だからこそ断言できる。
ソレは、決して無事には終われない。
まだ、準備が足りない。こうしてサフィが向かっても、なんら解決することなどナイ。それでも足は止まらない。
「オネーサマ……」
サフィにとって、アノ方は何者にも代え難い主なのだから。
火照った身体に冬の外気が心地いい。でも、身体には薄っすらと汗を掻いているから、このままにしておくと風邪を引きかねない。寮に戻ってすぐ風呂を沸かす気ではあるけれど、やはり更衣室で軽くシャワーを浴びてくればよかったか。
でもいつまでもサフィエルを待たせる訳にもいかないし。あの娘、先に帰っていいって言っても必ず待ってるのよね。不快とか文句という訳じゃないのだけれど。
……襟元を開いて鼻を利かせる。匂いは……しないわよね? 一応武道場を出る前に確認はしたけれど、あそこ、汗の匂いが染み付いたような場所だものね。
ちらと窓の向こう、離れにある武道場を振り返った。
……出て行くときの、桜井の視線を覚えている。少し、私の態度を変に思われていたみたいだ。
けど、仕方ない。こんなこと、私自身上手く説明できる自信がないし、他人に話したい内容でもない。
……ねえ、桜井。やっぱり私、ときどき思うのよ。
周防とは、他人のままでいるべきだったんじゃないか、って。
転校初期と比較して桜井の周防に対する態度は大違いだ。あの頃の桜井なら一緒に旅行に行こうだなんて決して言わなかっただろう。
桜井の周防に対する感情はどういう類のものなのだろう。お節介? 家族愛? それとも恋愛感情? 多分、本人も分かっていないんでしょう。
私は、どうなのだろう。
分からない。初めから、分からない。
一目惚れ? そう言われればそうかもしれない。
生理的嫌悪感? そう言われればそうかもしれない。
『理解』らない。『理解』ることは、どんな形であれ、周防という存在が私の中に、もう他人と呼べないほど深く入り込んでいるということ。
……お笑い種だ。私は、そんな人間をこそ望んでいたはずなのに。
カチャリ
「ねえ、周防さん……貴方は、一体――ッ!」
タタタッとこちらへ近づいてくる気配に急ぎ思考を立て直す。次いで姿を現したのはやはり、
「……どうしたの、サフィエル。そんな息切らせて」
「いえ…………少々…………お待ちヲ…………」
「しかも、なんでそんな笑顔なの?」
「…………ただノ…………杞憂でしタ、から……」
「? よくわからないけど……落ち着いたら、帰りましょう。お茶くらいなら淹れてあげるから」
「……! いえ、オネーサマにそのような雑事をお任せするワケにはッ」
「気にするな。屋敷じゃない、いち学生の寮でまで仕事をすることはないわよ。素直にもてなされなさい」
「いえッ、屋敷だろうト外だろうト、サフィエルはオネーサマの侍従でアルことに変わりなくッ」
言い募りながら後を追うサフィエルを連れて校舎を出る。一緒に歩いて、同時に別のことを考える。
こうして私を慕ってくれているサフィエル、それに桜井。彼女らが私にとって大事な人間であることに疑いはない。
それでも、だ。何と言えばいいのだろう。私が、彼女らとの間に常に感じている、この隔絶感は。もう数年、共に過ごした大切な友人である彼女らが、無関係な赤の他人であるはずがない。それなのに、何故、
決定的に、他人事という感覚が拭えない?
あの時の感覚を覚えてる。とても平静に、容易くそれを行ったことも。もう十年近く前だというのに、目を背けることを許さない自分自身に辟易する。あるいはだからこそ大事なのか、自分とあまりに隔たった、壊れやすいものと判ったから。
だから、きっと求めていた。願っていた。この、筆舌に尽くし難い隔絶を感じない相手、そう――他人ではない人間を。
……私らしくもない他力本願。そして、実際に現れた途端の尻込みも、本当にらしくない。
らしくなくとも、事実は変えられない。
ねえ、周防――周防さん。私は、貴方が――
……怖い。