婚約破棄?上等、封印証拠で公開監査し監査公爵と溺愛契約
「婚約破棄だ。横領の罪だ」
建国祭の壇上で、王太子の声が石畳に落ちて跳ね返った。祝福の音楽は途中で切れ、広場の空気だけが妙に重くなる。隣で聖女が扇の陰から笑ったのも、私にははっきり見えた。胸の奥が冷たくなる。けれど嘆くのは後だ。私は息を吸い、吐き、決める。「承知しました。では、会計印をお返しします」そう告げて、腰の袋から印章と鍵束を取り出し、絨毯の上へ置いた。赤い房が揺れ、金属が小さく鳴る。
群衆がざわめく。ざわめきの中に、布の擦れる音や息の止まる音が混じる。群衆は私を指さし、顔を背け、期待するように見つめた。期待されるのは涙ではない。壊れた関係の後始末だ。だから私は、泣く代わりに手順を差し出す。「以後、あなたの名で支払いは出せません。明朝から祝祭予算は止まります。今夜の公開監査で、封印を切って確かめましょう」私の声は思ったより落ち着いていた。今夜、壇上で泣くのは私ではない。
王太子の頬が引きつり、聖女がわざとらしく首をかしげた。
「泣きもしないのね。冷たい人」
その札を貼り付ければ、横領の罪まで真実に見えるとでも思っているのだろう。けれど私は、刺さった場所を手順で縫い止める。
「私が守るのは、帳簿の正しさだけです」
守るものを、ひとつにする。心がぶれても、軸はぶれない。今夜の公開監査で嘘を数字で裂き、私は泣かずに勝つ。最後は公の場で契約が結び直される甘さで回収する。
王太子が手を上げた。
「こいつを連れて行け。証拠も押さえろ」
連行の気配が走る。私の肩が反射で強ばった。ここで引きずられたら、私の手順は終わる。終わらせない。
「止まれ」
低い声が、伸びかけた足を縫い止めた。
扉口から進み出てきたのは監査官公爵だった。黒い外套の襟元に、監査の印が冷たく光る。表情は石のようで、けれど視線だけは刃物みたいに澄んでいる。
「本監査を開始します。提出期限は今夜まで」
監査規定により、証拠は観衆の前で封印し、今夜の公開裁定室で開封する。関係者の接触は今夜まで禁じられる。
会場の空気が変わった。ざわめきは息を呑む音に変わり、王太子の笑みが消える。聖女の扇も、ほんの少し遅れて止まった。
私は公爵の前へ進み、胸元の内袋を押さえた。中にあるのは返却リスト。帳簿から抜き出した支払いのまとめだ。武器はこれだけでいい。
「返却リストです。存在だけ、ここで示します」
私は紙の角だけを見せ、すぐに隠した。
公爵が短くうなずく。
「受領する。封印する」
彼は私の手から内袋を受け取り、封蝋を落とした。赤い蝋がとろりと垂れ、印が押される。観衆の前で、封印という鎖がかかった。
「えこひいきではない。手続きだ」
そのひと言で、私の肩から力が抜けた。守られることが今は怖い。けれど守られなければ、裁定の場に立てない。
王太子が叫ぶ。
「監査官ごときが王家に指図するな」
「指図ではない。裁定の前段だ」
公爵は淡々と言い切った。冷たいのに頼もしい。私はその温度のなさに救われた。
聖女が扇で口元を隠し、甘い声を落とす。
「公爵様。かわいそうに。彼女は動揺して、変なことを言っているだけですわ」
「動揺しているのは、数字のほうだ」
公爵が視線を広場へ向ける。群衆の中に、暮らしを背負った顔が並ぶ。止まるのは誰かの明日だ。だからこそ、手順は公でなければならない。
私の喉が乾く。王太子はまだ、私を縛れると思っている目だ。聖女は同情の皮で私を包み、窒息させる気だ。
私は息を吸い直した。
「監査官にお願いがあります。返却リストは、今夜の公開の席で開封してください」
公爵の視線が、わずかに私へ戻る。うなずきだけが返ってくる。それで足りる。
王太子の声が尖る。
「公開だと? 王家の恥を晒す気か」
「恥を晒すのは、嘘です」
口から出た言葉は短い。短いほど、刺さる。私は泣かない。泣く代わりに、手順で刺す。
会場の端へ誘導されながら、私は自分の指先を見ないふりをした。震えている。怖い。けれど怖いから、手順の中にいる。
公爵が歩調を合わせてくる。視線は前のまま、声だけが落ちる。
「今夜の言葉は、全部ここで記録する。余計なことは言うな」
「はい」
「守るものは?」
「帳簿の正しさだけです」
公爵が小さく息を吐いた。笑ったのかどうか、私は判別できない。けれど胸が、ほんの少し温かくなる。
「手順だ」
会計室の灯りを思い出し、私は書式と印の押し跡だけを頭の中でなぞった。怖い。だから今夜も、手順の中に立つ。
控えの通路に下がると、背中に視線が刺さった。聖女が追いすがるように歩き、扇で口元を隠す。
「ねえ。あなたがいなくても王都は回るわ。代わりはいくらでもいるもの」
王太子が頷き、わざとらしく腕を組んだ。
「そうだ。会計など誰でもできる」
誰でもできるなら、なぜ今まで私に任せたのか。胸の奥が熱くなる。怒りは数字を歪める。私は息を吐き、言葉を削った。
「明朝、止まります」
それだけで足りた。ふたりの笑い声が追いかけてきたけれど、私は振り返らない。
復讐じゃない。手順だ。
夕方までの時間は、短いのに長かった。
窓の外で太鼓が鳴るたび、私は机の上の鍵束を並べ直し、金属音で自分の震えを押さえた。廊下で私の名が飛んでも答えない。答えれば、感情が先に出る。
紙とペンを渡され、私は要点だけをまとめた。説明ではない。公爵が問いを投げたら、私は数字で答える。その準備だけを積む。
夕刻、祝祭の支払い命令が一件、差し戻されて戻ってきた。承認欄には王太子の署名、けれど会計印の欄は空白のまま。
差し戻し票の余白に、『……本当に、止まっている』と走り書きが残っていた。
私は頷くだけだった。泣く代わりに、手順が先に勝つ。
遠くで鐘が鳴り、夕暮れが濃くなる。私は息を整えた。
扉の外で、王太子の声が聞こえた。
「封印など無意味だ。今すぐ開けろ」
公爵の声は低い。
「今は開けない。公の場で切る」
「なら、公開の席を潰してやる」
「好きにしろ。裁定は逃げない」
その会話が、私の胸を締めた。怖い。けれど、準備は進んでいる。準備と選択の結果で勝つ。偶然にはしない。
裁定室へ向かう直前、私は自分の手袋の紐を結び直した。
「震えるのは悪じゃない。倒れないための準備だ」
その短い声が、氷みたいな手順の中に、ほんの少しだけ熱を落とした。
その夜、監査庁の公開裁定室は灯りで白く、列席者は同じ列に座らされていた。壇上の中央に置かれたのは、監査庁の裁定印章と、監査官公爵の冷たい視線。裁定者と観衆が揃う。逃げ場は、最初から無い。
公爵が封印袋を掲げる。赤い封蝋の印が、誰の目にも同じ形に見える。
「本件の証拠は一つ。先刻、建国祭の広場で封印した返却リストだ。今ここで、開封する」
王太子が椅子を蹴って立ち上がった。
「偽造だ! あの女がでっち上げた!」
「赤い封蝋は、広場で皆が見た同じ印だ。今さら触れたと言うなら、触れた者の名を言え」
公爵の声は温度が無い。だからこそ、嘘が凍って割れる。
公爵は封蝋に刃を入れ、乾いた音で割った。蝋の欠片が皿に落ちる。袋の口が開き、紙の束が引き出される。
公爵はその一枚を裁定台の硝子板に挟み、灯りの下へ滑らせた。数字と署名欄が白く浮き、前列から順に息が止まる。
「読み上げる。支払番号、金額、支払先、承認欄」
公爵自身が紙束を掲げ、淡々と読み上げた。
「支払番号一二七三。金貨三百。支払先、聖女付・私室装飾費。承認、王太子署名」
ざわめきが波になる。
「支払番号一三一九。金貨五百。支払先、王太子名義・遊興費。承認、王太子署名」
波が刃になる。
聖女の扇が落ちた。王太子の顔から血の気が引く。私は、胸の奥の氷がほどけるのを感じた。濡れ衣の核が、数字で裂けていく。
会計印はどうなっている、と観衆がざわめいた。
公爵が淡々と続ける。
「会計令嬢は、壇上で印を返却した。以後の支払いは止まっている。明朝から祝祭予算が動かないのは、彼女の言葉通りだ。止まった数字が、誰の嘘を露にするか……見届けよ」
これは偶然じゃない。私が選んだ手順と、公爵が仕込んだ封鎖の結果だ。
王太子が叫んだ。
「そんな金など, 王家のためだ!」
公爵は返却リストを一枚めくり、最後の欄を示した。
「王家のためではない。王家の名を使った私物化だ。監査妨害も含め、規定に基づき裁定する」
室内が静まり返る。
「王太子の継承権を停止。監視下の拘束。私財の没収。聖女は称号を剥奪し、王都から隔離する」
社会が、音を立てて歯車を切り替えた。拍手ではない。安堵の息が、部屋を満たす。荷車を押す人間の明日が、ここで戻る。
私は立ち上がり、短く言った。
「私が守るのは、帳簿の正しさだけです」
その言葉は、もう孤独じゃない。
公爵が私の前へ降りてくる。視線は冷たいままなのに、距離だけが近い。
「会計令嬢。おまえを冷たく扱ったのは、証拠を汚さず、相手に気取らせないためだ。広場での制止も封印も、規定どおりの証拠保全。えこひいきではない」
言い訳は一行で足りる。胸の奥の氷が、遅れて溶ける。
公爵は顔を上げ、観衆へ向き直った。
「――だが、最後だけは私情で行く。帳簿の正しさだけを握って立つ背に、俺は最初から落ちていた。彼女は、私の婚約者だ」
裁定印章が下りた瞬間、私はその一言の甘さだけで満たされ、罪も嘘も王太子も、その場で終わった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。帳簿の正しさだけを握って立つ彼女と、冷たい声で逃げ道を塞ぐ公爵の組み合わせが、少しでもスカッと甘く残れば嬉しいです。よろしければ、ブックマークと☆☆☆☆☆評価、ひと言感想で応援してください。刺さった台詞・いちばん痛快だった制裁・最後の甘さの感想など、どれか一つだけでも置いていってください。反応を頂けると次作の燃料になります。レビューも大歓迎です。とても助かります。




