表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

天国の扉

作者: LFG!
掲載日:2025/10/29




 チャイムが鳴ると、教室のざわめきが波のように広がった。

 帰り支度を始めるクラスメイトの中、僕――相川慎(さがわしんじ)はまだ机に向かい、ノートに目を落としていた。


「また居残り?」


 窓際から声がした。

 佐伯凜音(さはくりんね)。幼馴染で、クラスでも目立つ存在だ。

 黒髪をゆるく束ね、制服の袖を折り返している。


「ちょっと、テスト範囲が広くて」

「まじめすぎ。そんなことしてたら青春終わっちゃうよ?」


 冗談めかす口調に、僕はわずかに笑った。

 外では部活の掛け声が響くが、教室だけは静かに時間が止まったかのようだった。


「ねぇ、慎」

「なに?」

「放課後、屋上行かない? 風、気持ちいいよ」


 その誘いが、日常の空気を少し揺らした。


「屋上か……」

「嫌?」

「ううん。ただ――」


 屋上には“噂”がある。

 ――放課後の風が止む瞬間、天国へ通じる扉が開く。


「扉のこと?」


 心を見透かしたように、凜音は微笑む。


「よくわかったね」

「まぁ、長い付き合いですから」


 くだらない噂だと思っていた。

 けれど、凜音は真顔で話す。


「知ってる? 屋上のドア、時々開いてるんだって」

「管理の先生が閉め忘れてるだけじゃないの」

「違うよ。風が止まるときにしか開かないんだって」


 その目は冗談ではなかった。

 午後の光を映して、どこか遠くを見つめている。


「……じゃあ、行ってみる?」


 自然に言葉が出た。

 彼女の笑顔が、少しだけ揺れる。


 その時、背後から声がした。


「よう」

「あ、健司」


 振り返ると、伊藤健司(いとうけんじ)が立っていた。

 肩にカバンを引っかけ、いつもの気の抜けた笑み。


「また残ってんのか。真面目だな」

「まあ、テスト近いし」

「あんまり根詰めすぎんなよ……大丈夫か?」


 心配そうな顔に、首を傾げる。


「なにが?」

「……あの日から、無理してるだろ」


 ――あの日?

 頭の奥がわずかに霞む。


「行こう、慎」


 凜音が手を伸ばす。

 その指先は不思議なほど冷たく、胸の奥まで触れるようだった。


「あ、おい――!」


 健司の声が遠く離れていく。

 凜音は僕の手を引き、廊下の蛍光灯が一本ずつ流れる。

 薄暗い校舎で、足音が重なる。


「凜音、待って……どこ行くんだよ」

「屋上。行こうって言ったでしょ」


 その声は静かで、夢の中のようだった。


 思わず手を振り払う。

 パシン、と音がした。

 凜音の手が、宙に残ったまま止まる。


「……ごめん、ちょっと落ち着けって」


 掌が冷たさを帯び、冬の空気に触れた感触が残る。

 凜音はしばらく僕を見つめた。微かな悲しみが瞳に宿る。


「……やっぱり、覚えてないんだね」


 その言葉の意味を問う前に、凜音は前を向く。

 廊下の窓ガラスが夕陽を反射し、淡く光った――。



 ♦



 伊藤健司は、自分の席で窓の外をぼんやり見つめていた。


「……どうしろってんだよ」


 去っていく後ろ姿を引き留められなかった。

 傷つけるのが怖かったのだ。


 数日前のあの騒ぎが、頭の奥でちらつく。


 救急車のサイレン、教室に駆け込む先生たち、ざわめく同級生。

 そして――白いシートの揺れ。


 誰も、あの光景のことを口にしなかった。

 けれど、空気は澱んだままだった。

 あの日を思い出すたび、心の奥底がひんやりと冷たくなる。


 あの事件以来、壊れてしまった友人を思いながら。


「慎……」


 健司は頭を抱えたまま、椅子から立ち上がれなかった。



 ♦



 放課後、僕は凜音に手を引かれ、屋上へ向かった。


 錆びた階段を踏みしめる。足音が二つ重なる。

 ドアの前に立つと、黄色いテープが光る。

 『立ち入り禁止』――凜音はハサミで切り裂いた。


「ちょ、凜音!?」

「もう切っちゃったから」


 昔から彼女はこうだった。

 内気な僕と違い、凜音は恐れ知らずだ。


 カチリ。錠が外れる音が静かな屋上に響く。

 凜音がドアを押し開けると、夕焼けの空と風に揺れるフェンスだけがあった。


「あれ……?」


 凜音の声が震える。

 瞳には焦りが混ざる。


「扉……ない」

「え?」


 凜音は必死に辺りを見回す。

 屋上の端に近づき、何度も同じ場所を見つめる。


「ここに……あったの。扉が」

「なに言って――」

「やだ……止まってよ、風……!」


 叫びが屋上に反響する。

 凜音が叩いたフェンス代わりの手すりが、空と一緒に鈍く揺れた。


「凜音!」


 駆け寄る僕。

 凜音は震える手で虚空を掴む。掌が何もない空を切る。


「ここにあったの……扉が、あの日……」


 涙が頬を伝い、胸の奥が疼いた。


 ――あの日。


 視界が白く染まる。

 冷たい風。響く悲鳴。錆びた手すりに伸ばされた白い腕。


 “危ない、凜音!”


 叫ぶが間に合わなかった。

 身体がふわりと浮く。瞳が僕を見つめ――風が止んだ。


 記憶はそこで途切れる。


「……思い出したんだ?」


 凜音は泣きながら微笑む。

 夕陽が沈み、風が再び頬を撫でる。


「あの日、凜音は……」


 呆然と呟く。


「ねぇ、慎。やっぱり、風が止まると――扉が開くんだよ」


 一歩下がる凜音。

 後ろにあったはずの手すりは、跡形もなく消えていて――。


「待って! やめろ、凜音――!」


 伸ばした手が虚空を掴む。

 日の光に、彼女の姿がゆっくり薄れる。


「ねぇ、お願い。一緒に行こう――慎」


 風が止まる。

 そして静かに――扉が開く音がした。


 視界が白く染まり、意識が途切れた。




 ――静寂。


 耳の奥に、かすかに風の音が残る。

 布団の中、目を開けると天井がぼやける。


「……夢、か」


 声が掠れる。

 手のひらの冷たさがまだ残っている気がした。

 部屋は静かで、時計の秒針だけが時を刻む。


 枕元の置き時計を見る。午前六時半。

 外は薄く光り、カーテンの隙間から灰色の空が覗いていた。


 ゆっくり体を起こす。頭がぼんやりし、現実と夢の境目が曖昧だ。

 凜音の顔が脳裏をよぎる。

 胸の奥底が鈍く痛む。


 立ち上がりカーテンを開けると、窓の外にはいつも通りの街並み。

 通学路を自転車で駆け抜ける学生、遠くで鳴る踏切の音。


「……行くか」


 制服に袖を通し、仏壇に手を合わせる。

 父と母の写真が静かに微笑む。

 線香の白い煙がゆっくり立ちのぼり、ほのかな香が部屋に広がる。


「おはよう」


 手を合わせると、煙が揺れ、まるで誰かが立っているかのように見えた。


 ふと、凜音の笑顔が脳裏をよぎる。

 あの夕陽の中で見た、最後の笑顔。

 火が、ぱちりと弾けた。


「行ってきます」


 玄関を開けると、外の冷たい空気が肌を撫でた。

 歩道を歩き、吐く息が白く浮かぶ。

 健司の家の前に着くと、玄関先に彼はすでに立っていた。


「……おはよう、健司」


 健司は黙って隣を歩き始めた。

 並んで歩く通学路。

 昨日のことを口に出せないまま、車と自転車の音だけが耳に残る。


「あ」


 正門が見えた瞬間、足が止まった。

 凜音が制服の袖を風に揺らしながら、立っている。

 その姿は、まるで――夢の続きに迷い込んだようだった。


「……ごめん、先行く」


 健司にそう告げるが、彼は眉を寄せたまま、何も言わなかった。

 鞄を握り直し、凜音の方へ走り出す。


 近づくたび、心臓が鈍く脈打つ。

 昨日の夢の断片――夕陽、屋上、止まった風――が頭をよぎる。


「おはよう、慎」


 凜音が微笑む。

 その声は、少し遠くから響いているようだった。


「……昨日、屋上に行った?」


 凜音の瞳が、一瞬揺れる。


「どうしてそう思ったの?」

「いや……夢で……」

「夢?」


 小首をかしげる凜音。朝の光が頬を淡く照らす。

 言葉が喉で止まる。“落ちた”なんて言えるはずもなかった。


「……夢、か。変な夢、見るね」


 笑みだけが返ってくる。


「そう。夢なんだ……だけど――」

「行ったよ」

「……えっ」

「慎と二人でね」


 風が吹き、イチョウの葉が凜音の肩に落ちる。

 それを払う仕草が、やけにゆっくりに見えた。


「凜音……あの日のこと、覚えてる?」

「覚えてるよ。全部」

「じゃあ、なんで――」


 チャイムが鳴り、ざわめきが戻る。

 生徒たちが急いで校門をくぐっていく。

 凜音だけが静止していた。


「ねぇ、慎」


 一歩近づく凜音。息が触れる距離。


「放課後、また屋上に来て」


 そう囁いて、背を向ける。風が髪を揺らし、校舎の影に溶けた。


 ――放課後、屋上。


 夢と現実が重なる底のない感覚。


 ふと、横を健司が通り過ぎた。


「健司」


 声をかけ、隣に並ぶ。


「……話してたのか?」

「え?」

「正門に立って、ずっと一人で――」


 小さな呟きは、風に掻き消される。

 何かが崩れ落ちる音がした。




 授業が始まっても、頭に何一つ入ってこなかった。

 黒板の文字はただの線に見え、チョークの音だけが遠くで響く。


 ノートを開いたまま、ペン先は止まっていた。

 何を書こうとしていたのか、もう思い出せない。


 ――放課後、屋上に来て。


 あの声が、何度も頭の中で反響する。

 まるで呼吸と一緒に、頭の中を満たしていくみたいに。


 “また屋上に来て”――どうしてまた?

 あの時、確かに落ちた。僕の目の前で、凜音は。


 胸の奥底が痛む。


 窓の外を見る。灰色の雲が流れ、屋上が霞んでいた。


 ――あそこに行けば、また会えるのか。


 そんな考えが浮かび、すぐに打ち消す。あり得ない。

 凜音はもういない。あの日、確かに――。


 ……でも、もし。


 もし“夢”が現実の断片だとしたら。

 もし彼女が“向こう側”から呼んでいるのだとしたら。


 “ねぇ、お願い。一緒に行こう――慎”


 あの言葉の意味が、今になって重くのしかかる。

 一緒に行く――どこへ? あの“扉”の向こう側へ。


 ペンが手から滑り落ち、教科書の上で静かに止まった。

 教師の声が遠のく。クラスの笑い声も、もう届かない。


 ――いっそ、行ってもいいのかもしれない。


 この世界に残る理由なんて、もうない。

 両親はいない。凜音もいない。

 朝に線香をあげるあの仏壇だけが、僕と現実を繋いでいる。


 なら、もういい。

 凜音のいる場所へ。あの風の止む瞬間に、もう一度――。


 気づけば、ノートの端に文字が刻まれていた。

 無意識の手が、鉛筆で線を描いていた。


 〈放課後 屋上〉


 それはまるで、約束のように刻まれていた。




 チャイムが鳴った瞬間、世界が切り替わった気がした。

 ざわめき、椅子の軋む音、足音の波。

 それらが遠ざかっていく中、僕は静かに席を立った。


 教室の出口へ向かいながら、視線を横に向ける。

 健司が窓の外を見つめていた。表情は硬い。


「……なぁ、健司」


 声をかけた。けれど、彼は反応しなかった。

 まるで僕の声が届いていないみたいに。


 悲しみが胸に込み上げた。


 ――やっぱり、もうダメか。


 あの日以来、僕はおかしくなったと思われている。

 凜音の話をしても、誰も信じなかった。

 健司でさえ距離を置いた。


 でも、それでいい。

 もうすぐ全部終わる。嫌われたままの方が、きっと楽だ。


 そう思って、僕は笑った。乾いた音が唇の端で弾ける。


 カバンを持ち、教室を出る。

 廊下は夕陽に染まり、床に長い影が伸びていた。


 一歩ずつ、階段を上がる。

 金属の段に響く足音が、妙に重く感じた。


 ――もうすぐ、終わるんだ。


 途中で切られた黄色いテープを跨ぎ、錆びたドアの前に立つ。

 指先に触れる鉄の冷たさが、やけに生々しい。


 鍵はかかっていなかった。

 カチリ、と音が鳴る。鼓動と同じリズムで胸が揺れる。


 押し開けると、オレンジ色の空が広がった。

 風が頬を撫でる。冷たく、優しい。


 屋上の中央に、凜音が立っていた。

 風にスカートを揺らし、髪が光を透かしている。


「……来てくれたんだ」


 凜音の声は懐かしく、どこか遠い響きを帯びていた。

 夕陽に染まる輪郭が、淡く揺れている。


「約束、だから」


 自分の声が震えていた。


 凜音は微笑んだ。

 その笑みは、涙のように儚かった。


「もう、寂しくないよ。……ねぇ、慎」


 風が止んだ。

 世界が音を失った。


 凜音が一歩、近づく。

 その瞳の奥に、“向こう側”の光が見えた気がした。


「一緒に行こう」


 彼女の指先が、僕の手に触れる。

 冷たい。けれど、その冷たさが心地いい。


 二人で、屋上の端へと歩く。

 手すりは、もうなかった。


「手、離さないでね」

「離さないよ」

「本当に?」

「うん、絶対」


 ――やっと、掴めたんだ。


 小さく息を吸い、目を閉じる。


 風が止まった。

 そして静かに――扉が開く音がした。


 空が反転する。

 すべてが溶けた。




 ――ピッ、ピッ、ピッ。


 規則正しい電子音が、遠くの海鳴りのように聞こえた。

 まぶたの裏に白い光が滲む。


 息を吸う。空気が重い。


 目を開けると、白い天井。蛍光灯の光が淡く滲んでいた。


「……ここ、どこ……」


 声は掠れ、かすかに響く。


 腕に透明な管が刺さっている。点滴、モニター。

 画面には緩やかに波打つ線と小さな数字。


「病院?」


 ただ、それだけは理解できた。


 でも、なぜここにいるのか思い出せない。

 屋上、凜音、風が止む――そして――天国の扉。


 思考の途中で、ドアが開く音がした。


「先生、反応あります!」


 ナース服の女性が慌てて声を上げ、医師たちが入る。

 手にしたライトが瞳に差し込む。


「瞳孔反応あり。心拍安定……奇跡だな」


 ――奇跡?


 何が奇跡なんだ。

 僕は確かに――


 医師が機械のスイッチを押す。音が少し高く鳴った。

 白い光が静かに揺れる。


 声がでなかった。

 呼吸が浅くなる。


 視界の端、ナースが立っている。

 口元が動くが、水の底から聞こえるように鈍い。


 意識は浮いたり沈んだりを繰り返す。

 それから、時間がぼんやりと流れていった。


 翌朝、目を覚ますと病室に朝の光が差し込んでいた。

 点滴の滴が静かに落ち、呼吸器の管は外されていた。


「……目が覚めましたか」


 医師の穏やかな声。


「屋上から落ちたんですよ。奇跡的に命は助かりました」


 言葉の意味をすぐには理解できなかった。


「……落ちた、って」


「頭を打っていますから、無理に思い出そうとしないでください」


「じゃあ、凜音は?」


「……しばらくは、集中治療室で経過観察が必要です。では、また」


 医師が去り、胸の鼓動だけが速まる。

 点滴の量が減り、歩行の練習が始まる。

 体は鉛のように重いが、日ごとに音が鮮明になる。


 五日目の朝、医師が告げた。


「今日から一般病棟に移りましょう。面会も自由です」


 ストレッチャーで廊下を進む。

 白い廊下の先に、淡い陽の光。

 窓の外では風が木々を揺らす。


 ――風が、動いている。


 あの日の風、止まった空気、凜音の声。


 窓越しに校舎の屋根。

 鳥が一羽、白い羽をきらめかせて横切った。


 ゆっくり目を閉じる。

 指先には、もうあの冷たさは残っていなかった。


 病室に入ると、柔らかな日差しが白いシーツを照らす。

 カーテンがゆっくり揺れる。


「ここで少し休んでくださいね」


 看護師の声に、かすれた声で応える。

 ドアが閉まり、静寂が戻る。


 天井の白、滴る点滴の音。

 現実のはずなのに、まだ夢の中にいるようだった。


 右手をゆっくり持ち上げる。

 少し震えるけれど、確かに“動く”――生きている。

 僕は、天国の扉をくぐり損ねたのだろうか。


 凜音。


 そう口にしかけたとき、コン、コンと静かなノックが響いた。


「……どうぞ」


 病室のドアが開き、柔らかな光が差し込む――。


 その姿を見た瞬間、息が止まった。


「……凜音?」


 声が震えた。

 夢だと思った。けれど、彼女は確かにそこに立っていた。

 髪は少し伸び、以前よりも儚げな表情で、それでも笑っていた。


「慎……よかった。本当に、よかった……」


 その目に涙が浮かぶ。

 僕は何も言えず、ただ見つめ返すことしかできなかった。


 ――どうして、凜音がここに?


 屋上で、手すりが壊れて、僕は手を伸ばした。

 けれど――掴めなかったはずだ。


 その手が離れ、彼女は――


 喉が詰まり、息が浅くなる。

 凜音がゆっくりとベッドに近づき、僕の手をそっと包んだ。

 その手は温かく、生きている体温だった。


「覚えてる? あの日のこと」


「……屋上で、風が止んで……君が落ちて――」


 凜音は首を横に振った。

 その動きは、穏やかで、どこか痛みを含んでいた。


「落ちたのは――慎、あなただよ」



 ♦



「よう」


 振り返ると、伊藤健司が立っていた。


「また残ってんのか。真面目だな」


 凜音は言葉を返さない。


「あんまり根詰めすぎんなよ……大丈夫か?」


 話しても、理解してもらえないことがわかっていたからだ。


「……あの日から、無理してるだろ」


「行こう、慎」


 暗闇に手を伸ばす。

 冷たいモヤが、それでも手の感触を伝えてくれる。


「あ、おい――!」


 教室を出て、屋上へ。


《凜音、待って……どこ行くんだよ》

「屋上。行こうって言ったでしょ」


 夢のようにあやふやな言葉。

 それでも確かに聞こえた。


 手を振り振り払われる。


《……ごめん、ちょっと落ち着けって》


 暗闇を見つめる。


「……やっぱり、覚えてないんだね」


 もう何度目なんだろう。

 前を向く。屋上へ――。


「慎?」


 振り向くと、既に廊下は静けさを取り戻していた。

 俯くと、自然と頬を涙が伝った。


「今日も、ダメだった」


 帰路につく。いつものように、家には帰らず病院へ。

 慢性期病棟のベッドで、慎は眠るように活動を止めていた。


 あの事件から半月が経った。

 あの日、屋上から落ちる凜音の手を引き、代わりに落ちたのは慎だった。


「天国の扉……」


 落下する慎が、そこに吸い込まれていくのを、確かに見た。

 それ以来、慎は暗闇となって学校を徘徊している。


 眠る慎の手をとる。


「起きてよ……慎……」


 何度繰り返しても、屋上に行く前に慎は消えてしまう。

 慎の手を取り嗚咽する内に、気づけば意識を手放していた。


 気づけば、学校にいた。


 教室に、慎がいる。

 暗闇ではない――人間の姿で、彼はそこにいた。

 理由はわからなかったが、光明が差したことだけはわかった。

 それだけで十分だった。


 慎の手を引いて、屋上に続く階段を上る。

 (はや)る気持ちを押さえつけて、この日のために携帯していたハサミを取り出す。

 『立ち入り禁止』と書かれた黄色いテープを切り落とした。


「ちょ、凜音!?」

「もう切っちゃったから」


 焦る声に、短く返す。

 カチリ。錠が外れる音が静かな屋上に響く。

 ドアを押し開けると、いつも通りの空と風に揺れるフェンスだけがあった。


「あれ……?」


 違和感。


「扉……ない」

「え?」


 辺りを見回すが、扉は見えない。

 ハッとして屋上の端に立つ。そこは、慎が落ちた場所だった。


「ここに……あったの。扉が」

「なに言って――」

「やだ……止まってよ、風……!」


 手すりを叩く。


「凜音!」


 反応できない。

 手が震える。虚空を掴む。


「ここにあったの……扉が、あの日……」


 涙が頬を伝い、胸の奥が疼いた。

 振り返ると、慎の顔が驚きに歪んでいた。


「……思い出したんだ?」

《あの日、凜音は……》


 慎の体が暗闇に包まれる。

 風が止まった。扉が開く音がした。

 体が、扉に吸い込まれていく。


「ねぇ、慎。やっぱり、風が止まると――扉が開くんだよ」

《待って! やめろ、凜音――!》


 夕日が色を取り戻したようだった。


「ねぇ、お願い。一緒に行こう――慎」


 扉に吸い込まれる。

 目を覚ますと、病室のベッドで慎の手を掴んでいた。

 馴染みの看護師さんから退室を促されて、自宅への帰路につく。


 次の日。

 校門に立って待っていると、健司の横に暗闇があった。

 健司を置いて近づいてくるそれに、声をかける。


「おはよう、慎」

《……昨日、屋上に行った?》


 どきりとした。慎は、昨日の事を覚えている。

 予感が確信に変わった瞬間だった。


「どうしてそう思ったの?」

《いや……夢で……》

「夢?」


 どちらが夢を見ているんだろう。

 そう思うと、笑えてしまった。


「……夢、か。変な夢、見るね」

《そう。夢なんだ……だけど――》

「行ったよ」

《……えっ》

「慎と二人でね」


 放課後、暗闇はいつも通り夕日に溶けた。


「絶対に、一緒に帰るんだ」


 病院へ。

 慎の手をとって、眠りにつく。


「放課後、また屋上に来て」


 慎は、朝の話を覚えていなかった。

 同じ話を繰り返し、屋上で待つ。

 授業を受けなくても、誰も探しには来なかった。


 ドアが開く。

 目を向けると、慎がそこに立っていた。


「……来てくれたんだ」


 慎は覚えてくれていた。

 それが、無性に嬉しかった。


「約束、だから」

「もう、寂しくないよ。……ねぇ、慎」


 暗闇に染まる前に、慎の手を掴む。


「一緒に行こう」


 二人で、屋上の端へと歩く。


「手、離さないでね」

《離さないよ》

「本当に?」

《うん、絶対》


 ――やっと、掴めた。


 小さく息を吸い、目を閉じる。


 風が止まった。

 そして静かに――扉が開く音がした。


 空が反転する。

 すべてが溶けた。


 病室で目を覚ます。

 看護師に退室を促され、帰路につく。


 次の日、慎が長い眠りから目覚めたことを知った。

 健司と共に、病院へ。


 健司は泣いていた。


「天国の扉はあるって、言ったでしょ?」


 笑いかけると、健司は苦笑した。


「頭がおかしくなったのかと思ったぜ」


「失礼な奴」


 病室につく。


「先行けよ」


「良いの?」


「あいつに泣き顔見られたくねぇ」


「あはは、何それ」


 ドアをノックする。


《……どうぞ》


 中から聞こえるくぐもった声に、少しだけ驚く。

 そんな自分がおかしくて、あの天国の扉のことを思い出して――


「……ふふっ」


 ドアを開く。


 天国の扉は、もう必要なかった。




ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

感想や☆等頂けると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ