第七話 変わらないもの
「お母さん! 私、お母さんみたいな警察官になれるかな?」
まだ幼かった頃のミナが、母と並んでベッドに入っていた。
淡いオレンジ色のディスクライトが、静かな夜の部屋を柔らかく照らしている。
「うーん、ミナはちょっと泣き虫だからなあ」
母はくすりと笑った。
「でもね、いいおまじないがあるんだよ」
「第七地球、日本国、東京都……」
ミナは、小さくつぶやくように、心の中で家の住所を一つずつ思い浮かべた。
そのたびに、目の前のディスプレイに文字が浮かび、静かに確定されていく。
昔、家族と暮らしていた場所。母と、父と、妹と、何気ない日々を過ごしたあの家。
エンジンが低く唸り、宇宙船が発進する。
タクミから借りた宇宙防衛隊の公用艇。今となっては旧型で、どこか頼りない印象だった。
操縦の必要はない。入力した座標に従って、自動で船は進んでいく。
それでもミナは、コックピットのハンドルを両手で強く握りしめていた。じんわり汗が滲む。手を離したら、このまま宇宙の闇の彼方へ吹き飛ばされそうで怖かった。
窓の外では、無数の光の粒が尾を引くように流れていく。
あまりに速すぎて、星々の姿はもう見えなかった。
出発から、五時間ほどが経った頃。
船は徐々に速度を落とし始めた。
窓の外に広がるのは、見覚えのある景色だった。
――太陽系。
図鑑でしか見たことのなかった惑星たちが、まるで絵のように美しく浮かんでいる。
青白く輝く海王星。
優雅な輪を持つ土星。
巨大な縞模様をまとった木星。
太陽がまばゆい光で、船体を照らし出す。
いまは見えない他の惑星は太陽の反対側にいるのだろう。
船はさらに速度を落としながら、静かに進んでいく。
月だ。地球の裏側から見る月の模様には、どこか奇妙な違和感があった。
そして
青かったはずの地球が白く不気味に光っていた-―
息が詰まり、胸の奥が冷たくひりつく。
手足が震えて自分で抑えることができない。
ミナは、まるでお守りのように握っていた薬瓶をポケットから取り出す。
震える手で瓶の蓋を開ける。
これは宇宙防衛隊の救護班から処方された、即効性のある精神を安定させる薬。
水も飲まず、錠剤を口に入れる。
すると薬が舌の上でやさしく溶け込む。
現実が、まるで夢の中の出来事のように、少しずつ輪郭をぼかし始める。
手足の震えも、やがて静かに収まっていった。
ミナはようやく肩の力を抜いた。
しかしその直後、突き上げるような吐き気が襲ってきた。
胃の奥からこみ上げてくるものに、ミナはたまらず身をかがめ、ハンドルに向かって嘔吐した。
「……もう、決まった量の三錠も多く飲んじゃってる。さすがに飲みすぎた……」
弱々しくつぶやきながら、ミナは濡れたハンドルを見つめてつぶやいた。
やがて、宇宙船は目的地に到着し、ミナの家の前で静かに停まった。
宇宙船のハッチが、鈍い金属音とともに開く。ミナは宇宙防衛隊用の防護服を着て、家へ向かって歩こうとする。
その一歩一歩が、静まり返った世界に異様なほど大きく響いた。
人の声はもちろん、鳥のさえずりも、虫の音さえもしない。
庭の草はぼうぼうに伸び、荒れ地のようだった。
ナツキが言っていた“残留粒子”の影響だろうか。空は鈍く濁った灰色をしている。
足取りは重い。吸い込まれそうな静寂――
昼間のトンネルに足を踏み入れたときのような、不安と恐怖が胸を締めつける。
いや、それよりももっと息苦しい。
心の奥底からせり上がってくる得体の知れない感情に、足が地面に縫い付けられるようだった。
けれど、ここは確かに――思い出がたくさん詰まった場所。
妹の未希と笑いながら縄跳びをした庭。
母と父が、いつも玄関先から見送ってくれたあの場所。
自転車の練習で、何度も膝を擦りむいた道。
かつては、温かく包んでくれた場所だった。
それが今では、冷たく、牙を剥いてミナを拒んでいるかのようだった。
―-ここはもう、帰る場所じゃないんだ。
「……やっぱり……、ダメだ………」
足が動かない。
目からはたくさんの涙があふれる。
再び全身が震え出す。
――ナツキさんの言ったとおりだ。ふるさとに行っても私が壊れちゃうだけだ。
魄玉を探し出す以前に。
ミナはその場に崩れ落ち、膝を抱えて小さくうずくまった。
反射的に薬瓶を取り出そうとする――が、顔は防護服に覆われていて、飲むことができない。
――助けて…
「ミナが絶っっ対に泣きやむおまじない!」
遠い昔の記憶。お母さんの温もり。
温かい布団の中。
♪~
お母さんが歌っていた。
心に染みわたるような、優しいメロディー。
でも、歌詞はヘンテコ。
「なに? この変な曲?」
幼いミナは笑いながら、首をかしげて尋ねた。
お母さんはくすりと笑って、髪を撫でながら答える。
「ミナが赤ちゃんのとき、これを歌うと絶対に泣き止んだのよ。」
怖くて眠れない夜も
転んで泣いた日も
お友だちとけんかして、ひとりで帰ってきた日も
いつでもこの歌が、ミナの涙をそっと拭ってくれた。
―――
♪~
ミナは声を震わせながらも、必死に歌い続けた。
静まり返った地球に、かすかな歌声が広がっていく。
優しいメロディー。ヘンテコな歌詞。
――あのときと、変わらない。
震えが少しずつ収まっていく。
涙も、静かに止まっていく。
「お母さんのおまじない、本当だね」
ミナは天を見上げて、そっと微笑んだ。