4.
十日間の視察を終えてテティデューは城の一室で物思いに耽っていた。彼女の手にあるのは一本の筆。それはロンドーリアの工業エリアにあったとある工場で造られていた物だ。品質はそこそこだが大量生産されとても安価なそれは彼女の手の中でくるくると踊っている。
部屋の壁は様々な色彩で植物を象った模様が美しく、手織りの絨毯はとある高名な職人の一点物。彼女が肘を付いている机や腰を下ろしている椅子も木材から拘った逸品であるし、部屋を煌々と照らす照明は透明なガラス細工に覆われている。美しい絵画が壁に数点掛けられ、棚の上には翼を象ったオブジェが飾られていた。
「この部屋はまるで実家のようで落ち着くわね」
彼女はその手に持つ筆だけがこの部屋にそぐわぬ異質な物であるとさえ感じていた。ここがロンドーリアの地であるにも関わらず、だ。
テティデューにとって視察の日々は婚約者選びという事を考えなければ意外にも楽しい時間となった。普段から見慣れているアバストロフの領地と全く異なるその街並みはまるで別の世界を覗き見ているような時間だったのだ。
例えば。
「ここが工業エリアですの?」
彼女の前に広がっていたのはまるで箱のような飾り気のない建物。彼女にとって家とは建築家やその家の持ち主が自らの拘りを詰め込み建てる物だ。アバストロフの領地にある家はその一つ一つが異なる形をしており、時に生活に不便であろうと思われるような形の建物すらある。中でも人が擦れ違うのがやっとだろうという幅の家を見た時は流石の彼女でさえここに住むのは遠慮したいと思ったほどだ。
しかしどうだろう。今、目の前にある建物には拘りなどない。あるのは統一された無機質さであり、それは正しく人を包む箱である。
「ああ。ここでは日夜人々が働き日用品などを作っている」
「中を覗いても?」
「構わない、が。あまり邪魔はしないでやってくれ」
テティデューは中の人々はこの建物をどう思っているのか、そう思いながら中へと入って行く。
リンドが責任者に話を通し中へ、中へ。幾つかの扉を潜り抜けて辿り着いた先では何やら大勢の人が目の前の大量に積まれている毛を選別しているようだった。
「これは……?」
「ここは筆の工場ですから、あれは馬の毛を選別している所ですよ」
「筆……、馬の毛……」
後にエイリカが言っていた事であるが、筆の材料としては馬は一般的なもので多くの家畜がいることから安定して取れる為に大量生産には向いているとのことらしい。テティデューはその言葉をまるで異国の知識のように遠く感じた。
アバストロフの領地に住む画家や書道家は筆に強い拘りを持っていることが多く、多くの者は一点物を使用している。テティデューにとって筆を大量生産するというのはどうにも馴染みが無く強い違和感すら覚えることであった。
彼女の周りに存在していたのは全て貴重な一点物。誰かが心血を注ぎ作り上げたこの世に一つしかない芸術品だ。
しかしここはどうだろう。同じ形の物を同じ工程で作り上げるそれは誰が作っても最終的な出来上がりにはほとんど差異が無い。否、差異が無い事こそが求められているのだ。
彼女は数え切れないほどにある出来上がった筆の一本を拾い上げる。
「……いくらかしら」
「テティデュー、あなた筆なんていくつも持っているでしょう」
「いいじゃない別に」
何かしら書をしたためる事もあるだろうと彼女が持って来た荷物の中には数本の筆がある。実家に帰れば彼女に贈られても職人謹製の筆がその何倍もの数ある。
そのどれと比べても明らかに質の低いこの筆を彼女はじっと見つめている。
「視察の記念だ。その一本はテティデュー嬢にプレゼントしよう」
「いいのですか?」
「構わん。代わりにこの筆はかのアバストロフの令嬢御用達と謳わせることにするさ」
「それは……。流石はリンド様、商売上手ですわね」
リンドはふっ、と笑みを浮かべると工場長の元へ行き幾らか話をする。この筆の売り文句でも考えているのだろう。
テティデューは変わらず手に持った筆を熱のこもった視線で見つめている。
「そんなに気に入ったの?」
その様子に思わずエイリカが声を掛ける。これまでどんな筆を贈られた時のもそのような表情を見せたことは無い。
それは彼女がその贈り物を喜ばなかったという事では無く、どこか質が違うということだ。
「エイリカ、私にもね、この筆の何を気に入っているのかよくわからないの」
テティデューはそう言ってそのつまらない何の変哲もない一本の筆を大事に懐に仕舞った。
視察を終えた今、テティデューは手に持った筆で目の前にある紙に一本の線を入れる。それは何か深い意図があるわけでも無く、ただその筆を使って書いて見たかっただけだ。
「書き心地はどうかしら?」
彼女を後ろで見守っていたエイリカがそう尋ねる。テティデューは振り向いてゆっくりと首を横に振った。
「比べ物にならないわ。普段使っている筆の方が何倍も書きやすいわね」
「まあ、そうでしょうね。テティデューが普段使っている筆の一本でそれを何本買えると思う?」
「十本ぐらいかしら?」
「一番安い値段が付くものでも百は買えるわ」
その言葉にテティデューは目を丸くして、それから手に持った筆を見た。
「それは凄いわね」
微笑みを浮かべた彼女はしかし筆を変えようとはせず気の赴くままに線を引く。幾つもの線が重なった紙の上には難解な模様が出来上がっていた。
しばらくして彼女はゆっくりとその紙を天に掲げる。一分ほどその状態で静止していたが何も起こらず、やがてゆっくりと紙を置いてどこか物憂げにそれを見つめる。しかしその一方で彼女は確かに笑みを浮かべてもいたのだった。
テティデューとエイリカが晩餐会の席に向かうとそこには既にリンドが座して待っている。今回の視察では共に過ごす最後の夜となるであろう。
リンドは部屋へと入って来た令嬢を見つめ悩んでいた。彼女は自分やロンドーリアの領地の事をどう思っているのだろうか、今回の視察でこの場所を幾らか気に入ったのだろうか、と。
或いは、彼自身がテティデューの事をどう思っているのかについてを。
「今日で最後の夜となるわけだが、ロンドーリアの領地をどう感じたか聞いても良いか?」
故に彼は早速そのことについて切り込んでいく。数日を共にしてテティデューの性格をある程度掴んだ彼は変に回りくどい聞き方をするよりも真っ直ぐ切り込んだ方が彼女には通じやすいと把握していたのだ。
直接、真っ直ぐ尋ねられれば当然彼女はその問いに自らの言葉で答えを返すだろう。
「こう言ってはなんですけれど……。正直に言えば、事前の想像よりもずっと楽しめましたわ」
「それは……、我々にとっては嬉しい言葉だな」
「ええ。エイリカに話を聞いてなんとなく感じていた印象とはまるで違いましたわね。芸術に囲まれて生きて来た身としてはつまらなそうな町だと思っていましたが……。そうですわねぇ……」
テティデューが次の句を考える。彼女は決して詩人や小説家のような言葉の繰り手では無いのだが、それでも懸命に目の前の彼へ自身の想いを伝える言葉を探し続ける。
「……私は、芸術とは一人一人の心の表現だと思ってましたわ」
「人は自らの思いの丈を何かしらの芸術という形で表に出す、といったようなことか?」
「少し違いますわ。私が言いたいのは、人はその心の内にある衝動を抑えることなど出来ない、そんな話ですの」
「それは……、君が言うと説得力があるな」
リンドはこの数日のテティデューの姿を思い返す。共に行動していても彼女は興味の惹かれるまま、つまりは衝動のままに勝手に動き回るのでそれに振り回されるのに疲れを感じていたものだ。もしも彼女を良く知るエイリカがいなければリンドはテティデューの事を放置して城に帰っていたかもしれないと思う程に。
「私がロンドーリアについてお話を伺った時、そこでは人々の心の内から湧き出る芸術への衝動を抑え付けているのではないか、なんて思っていましたわ」
「……アバストロフの領地は何度か訪れたことがある。建物の一つ一つを見比べるだけで日が暮れ、夕暮れ時に聞こえる詩の調べが心地よく、広場には天を貫くオブジェとそれを自らの絵に落とし込もうとする青年がいた。あそこで育った者ならば音楽も絵画も詩も建築も他の何もかもにも取り組もうとしないというのは、おかしなことだと思うのも無理は無い」
「わざわざそのような事を言わずとも大丈夫ですのに。私は考えを既に改めておりますので」
「では今の貴女の気持ちを聞いてみようか」
彼女は懐から一枚の紙を、絵を取り出す。
「……それは?」
「私が先ほど描いた絵ですわ」
「成程、この模様は、なんだか味わい深いな。あまり絵画への造詣は深くないもので上手く言い表せないが」
「下手糞でしょう?」
リンドがどうにかフォローに回ろうとしていたのを描いた本人がバッサリと切り捨てる。
「……テティデュー嬢はあまり絵は得意では?」
「私、芸術方面の才能はからっきしでして。幼少より様々な先生を付けてもらったもののどれも良い結果は残せませんでしたわ」
「そうか……、ではその話が先ほどの問いと如何なる関係が?」
「筆を執ったのは久しぶりでしたわ。実家に帰ればたくさんの私へ送られた芸術性も実用性も高い筆がいくらでもあるのですけれど、どうにも私にはあの筆たちは、あまりに重たくて」
アバストロフの家に生まれた者にかかる重圧とはどのようなものだろうか。かの領地ではあらゆる人々がその才を如何なく発揮し自らの芸術品を天に奉納しその対価を得る。そしてその領主は演劇の世界で並ぶ者無い、とまで称されるほどの大スターだ。ではその娘ともなればきっと素晴らしい作品を、後世に語り継がれるほどの作品を作り上げるに違いない。
彼女の家にある職人たちから送られた筆の数はその期待の重さを表している。
「それに比べてこの筆はとても軽く扱えましたわ」
リンドは素材の重さにあまり差は無い、などというあまりにつまらないジョークを自重する。
「テティデュー」
「あら、何かしらエイリカ」
リンドとテティデューの会話にエイリカが何かしらの補足以外で口を挟むのは珍しく二人の視線が彼女へ向かう。その期待を一身に背負った彼女は渾身の表情と手振りと共に。
「それなら実家に封印されている筆は半分に折ってしまえば良いわ。軽くなって書きやすくなるもの」
リンドは唖然として声を上げることもできなかった。場を和ませるのにジョークの類は非常に有効だ、彼自身それははっきりと理解している。しかし当然それは時と場合によるし、ジョークの質にも大きく左右される。
端的に言えば、今そのジョークを言う時か? と彼は思った。
「ふ、どうかしらうちのエイリカは。凄いでしょう」
自慢げな表情を浮かべるテティデューに対し彼は冷や汗を浮かべながら曖昧に頷くのだった。
「……あー、その筆を気に入ってもらえたのなら幸いだ」
そして彼はどうにか話を引き戻す。
テティデューはそれに対しこほん、と咳ばらいを一つして。
「そうね、少し感傷に浸って分かりづらかったわ。私が言いたかったのは……」
彼女は先程取り出した絵を愛おしそうに見つめる。リンドはその表情を少し意外に思い、その心中を探ろうと試みるがそれは叶わない。
探るまでも無く彼女は伝えてくれるのだから。
「あなた方の作った筆は芸術を諦めた私にもう一度それを描かせたのよ。人生を懸けずとも芸術に向き合う道があるなんて私は知らなかったわ」
「……絵を描くのは楽しかったか?」
「ええ。この絵を描くのはとても楽しかったわ」
ロンドーリアの領地では芸術を至上の物として考えていない。領民は自分たちの暮らしに必要な物を自らの手で作り上げ、足りない物は他の領地や国との交易で補う。そして彼らは自らの生活の地盤を安定させ、余暇をそれぞれのしたいことをして過ごすのだ。例えば誰もが首を傾げる絵画をかき上げ、聞けば思わず耳を塞ぐ音を紡ぎ、意味が難解過ぎて頭が痛くなる詩歌を嗜む。
ここでは人々が生きて行く為に芸術が必要ではない。だからこそ彼らは他の誰に見せるわけでも無いつまらない芸術へと時間を捧ぐ事が出来る。
「あなたはきっと優しい人ね」
「……どこを見てそう思う?」
「あなたのおかげで私は絵の楽しさを思い出すことが出来たのだもの」
テティデューのその微笑みを喩える言葉は彼の中には無かった。しかし彼はそれで良いと納得していた。
数日前、彼女ならばロンドーリアの領地を芸術の都とすることが出来たのかもしれない、そんな風に思うこともあった。それは間違いではないと彼は断ずる。
ただ、それを後悔することはもう無いだろう。
「私も芸術の才はあまり無い」
「そうなのですか?」
「ああ……。だが、今日は」
彼は、リンドはじっとテティデューのその美しい顔を見た。
「久しぶりに筆を執りたい気分だ」
リンドはもう後悔などしない。もしもロンドーリアの領地が芸術の都だったのならば、彼女のこの笑顔を引き出すことは出来なかったのだから。