2.
テティデューは馬車から視界いっぱいに広がる畑を見つめこれからの旅路を思っている。
「ここの畑はいつ見ても素晴らしいわね……。エイリカ、あれは何かしら?」
「トウモロコシですね。丁度食べ頃かと」
「へえ、良いじゃない。どうせならそのまま焼いて出して欲しいものだけど、ロンドーリアの領ってよくわからない加工をするのが好きなのよねぇ……」
旅路を思ってはいる、のだがそこにあまり深刻な雰囲気は無い。
テティデューとエイリカの馬車の旅はもう三日にのぼろうとしている。幸いこの馬車の旅はもうじき終わりだ。彼女らが今いるのはロンドーリアの領地、目的地の彼らの城まではもう間も無くと言ったところだろう。
ロンドーリアの領地では中々に珍しいことに農業、工業、商業に力を入れた治世を行っている。アバストロフ家を含め大抵の貴族はあまりそれらを重視せず、競うように芸術分野に力を入れているものだ。彼らにとって大抵の物は神に芸術を奉納しその対価として与えられる物であってわざわざ作り出す必要を感じていない。
「お父様はロンドーリアは変わり者一家だと言うけれどエイリカはどう思うかしら?」
「自分の意見を他人に代弁させるのは少し行儀が悪いわ」
「ま、それもそうね」
テティデューとエイリカは芸術こそ至高とする家に生まれて来た。それ故にどうにもロンドーリアの領地がなぜ発展できているのかをあまり理解できてはいない。エイリカなどは元々様々な分野において多くの知識を持っているがそれでも文字の上で知ったことに実感など沸かないものだ。
ただ、だからこそこの度の視察は二人にとって非常に興味深いものでロンドーリアの若き才英から多くの話を聞ければと思っている。
「頭の固いお父様に聞かせる面白い話が聞ければいいのだけれど」
遠くに見える城を見てテティデューが呟く。ただその言葉を受けてエイリカが刺すように呟く。
「あなたがモンテギュー様に聞かせるべきなのはロンドーリアのリンド様を婚約者として選ぶかどうかなのだけれどね」
「……ああぁー、せっかく忘れてたのに……」
それまでの楽しそうだった表情が一変してどんよりと沈んだ暗い表情へと変わって行く。何も知らぬ人が見たら具合でも悪いのかと勘違いするだろう。
テティデューにとって婚約者選びとはそれほどに気分が乗らぬ、しかしやらねばならぬ一大事である。
馬車は無情にも走り続ける。広大な畑を通り抜け、商売人の活気で賑わう町中を通り抜け、城で待つ若き才英の元へ一心不乱に走り続ける。
リンド・ロンドーリア。領主の嫡男として政務を支える彼には悩みがあった。他国の商人を迎え入れたは良いが商売のノウハウを得るのに手間取っていることだろうか、東の農地が不作で食料生産が予定よりも少なくなったことだろうか、自領で機械を生産をしてみたが想定よりもコストがかかってしまったことだろうか。
全て違う。それらは確かに問題ではあったが既に改善策を幾つか検討しているところだ。
では彼の頭を悩ます問題とは?
彼の部屋の戸が叩かれる。
「どうした?」
「リンド様。そろそろアバストロフ家のテティデュー様御一行が到着なされるとのことです」
「そうか。では出迎えの準備をしよう」
ロンドーリア家と同格とされるアバストロフ家の一人娘にして自身の婚約者候補であるテティデューが訪問してくることである。
彼は為政者として家の権勢を保ち、自領の民を、牽いてはこの国の全ての民の生活を上向かせる義務がある。そしてその為には力が必要だ。
「ロンドーリアとアバストロフが婚約という形で結びつきを強められるなら、今後我らの権勢が脅かされることは無い」
テティデューの訪問は表向きロンドーリアの領地を視察する為ということになってはいるが、今後に向けて婚約者候補との顔合わせであることは容易に想像がついていた。そして彼女の旅程には同じく婚約者候補のいるトゥルギア領があることも調べは付いている。
つまり、彼女の目的は両候補の比較。
「上手く気に入られると良いが……」
リンド・ロンドーリア。彼が領主である父に大層気に入られ、多くの事に采配を振るう理由は単純だ。彼がそれだけの成果を出している、それに尽きる。
幼い頃より様々な教育を受けた彼は特に芸術からの脱却、ということに力を入れていた。無論、神に奉納することで様々な対価を、時に奇跡としか呼べないほどの大きな対価を得られる芸術を無視することは出来ない。しかしそれに頼り切ることはあまりに危険だ。どれほど芸術に打ち込もうと常に素晴らしい作品を完成させられるわけでは無い。時に十年以上神への奉納に足る作品を作れない者もいるのだ。
故に彼は農業を、工業を、商業を発展させることで人々の生活を良くしようと考えた。初めこそ芸術至上主義の者は彼の主張に反発していたが、衣食住が足りてそれから人々は芸術に打ち込むだけの余裕を得られるのだと根気強く説得した結果、今ではロンドーリアの領に彼の言葉を疑う者はいない。
いつでも最低限の食事はとれるだけの農産物を収穫し、芸術分野にも転用できる様々な機械の開発に勤しみ、活発化した商取引は時に人々により良いアイデアを届ける。それらはリンドの緻密で綿密な計画によって生み出された結果だ。
彼は事前の計画を立て結果をきっちりと出す、そういう事が得意なのだ。
ところで今回のテティデューの視察に関してはほんの数日前に彼女らが決め、リンドの元へ報せが来たのはつい昨日のことらしい。
「せめてテティデュー嬢についてもう少し詳しく調べる時間が欲しかった……」
テティデューについて彼が知ることは父が領主同士の会談の際に聞いた話や人々の噂話程度しかないのだ。圧倒的に準備不足である。
大きな溜息をつきながら彼は身だしなみを整えると出迎えの為に外へと向かうのであった。
馬車を降りた令嬢と、その出迎えをする令息が今、相見える。
「ようこそ我らがロンドーリアの地へ、テティデュー嬢」
「出迎えて頂き感謝致します。リンド様」
リンドは馬車から降りるテティデューを見て心の奥で思う。
なるほど、確かにこれは美しい。
テティデューの噂と言えば様々にあるが、その中でも特に有名なものはその容姿にまつわる噂。彼女は国中の者がこぞってモチーフにしたがるほどの美貌を持っている。実際にアバストロフの領地を訪れた者はそこに飾られている像や絵画に詩、果ては大掛かりな建築物にまで彼女がモチーフとなる物があり驚くという。
彼がテティデューを見たのは幼い頃以来であり、流石に尾鰭の付いた噂では無いかと勘繰っていたのだが、一目見てその評価を改めることにしたようだ。
対してテティデューは出迎えの為にわざわざ城の外にまで出て来たリンドを見て思う。
聞いていた話よりも敬意を持って対応してくれるのね。
リンドの噂話はテティデューの耳にも入っている。曰く、彼は公務を滞りなく進めることに命を懸けており、その価値が無い物には時間も敬意も払うことは無いと。実際に彼の部下として働いていた者の中には激務に耐え切れず逃げ出してしまった者も多いと聞く。
今回も出迎えは部下に任せて本人は出て来ないだろうと彼女は踏んでいたのだが、少々勝手な想像が過ぎたと彼女は心中で謝罪する。
そんな二人の考えはどちらも若干間違っているのだが。
テティデューをモチーフとした芸術作品の多くは彼女が自らを押し売りして造らせているものであるし、リンドがわざわざ出迎えに来たのはこれも公務の一環と捉えているからに過ぎない。
お互いはお互いの勘違いに気付くことなく、しかしそれ故に互いに好印象のまま一行は城の中へ。歓迎会と今後の予定の確認を兼ねた食事会が始まる。
ロンドーリア家のもてなしは全く、豪著なもので、食事一つをとっても金のかけ方が違うというものだ。何百尾に一尾しか獲れぬと噂の魚介、辺境でしか取れぬ貴重な果実、熟成に何年もかかる調味料、それに加え領地で収穫された野菜や育てられている家畜の肉。
それらが熟練の料理人の手によってより人々を喜ばせる形となって人々に提供される。それはもはや一つの芸術と呼ぶに相応しい。
その一つ一つをしっかりと皆が味わった。
「流石に素晴らしい食事の数々ですわ」
そう言って口元を拭く彼女の姿を見て、しかしリンドは疑問を抱かずにはいられない。
「……しかしアバストロフ家の御令嬢であるテティデュー嬢であればこのぐらいの食事はそう珍しくも無いのでは?」
ロンドーリアにとってアバストロフ家は決して軽んじることが出来るような相手ではない。此度の食事も可能な限りの準備はして来たものだが、しかしどうにも時間が無かった。用意できた食材の幾つかはリンドにとって完全に満足の行く物では無かったのだ。
実際、テティデューは幼い頃より家の格に合った、つまりは今日の献立に匹敵するほどに、或いはそれをも超える豪著な食事を経験して来ている。そういう意味ではこの食事会は数ある経験の一つにしかならないだろう。
しかし彼女がこの食事を素晴らしいと評したのはその点ではない。
「失礼ながら、確かに食材や料理人の質の話をするならば、今日の食事に劣らぬものをしたこともありますわね」
「では何かそれらと今日の食事に違いが?」
「この食事が素晴らしいのは、これこそがロンドーリア、そういう主張がはっきりと伝わってくることですわ」
リンドはその言葉に思わず息を呑む。
「ただ贅沢な食事を出すだけでは少々趣がありませんわ。でもこの食事は違う。例えば私たちアバストロフの者が人をもてなすのならば、きっと人々から優れた芸術作品を募りそれを奉納して得た物でもてなすでしょう」
テティデューの父、モンテギューは領主でありながら演劇の才能においても名を轟かせている。そんな彼が多くの役を演じた劇を天に奉納しその対価によって人をもてなすのをテティデューは数えられぬほど見て来たものだ。それに彼女自身もまたその為に絵や詩を書いたことなど数えられない。尤も彼女のそれは奉納するに値しないとされてしまったが。
それに対してリンドはこの度のもてなしに芸術を利用することは無かった。
「料理を運んでくれた使用人は食事の一つ一つにどこで獲れた食材をどのように調理したのかと説明してくれたのを覚えてますの。それはつまりロンドーリアらしく、実際に育てた作物や獲った魚、それらを商いによって集めて来たということでしょう?」
リンドはそれに対して何も言わない。それは彼女の言葉を否定するものでは無く、ただ単に目の前の令嬢がそこまで察していることに驚きを隠せなかったからだ。
テティデューは柔らかく、見る者を皆の心を癒すような笑みを浮かべる。
「だから私は思ったの、これこそがロンドーリアなのだ、とね」
リンドは、婚約相手候補がどのような相手なのか見極めるのにこの食事会は都合が良いと思っていた。領地の発展の為に政略結婚をする、それは良い。しかしその相手がどうにもならない愚物であれば少々考え直すべきだろう
例えば、この料理の数々が意味することを理解できる程度の知能はあって欲しい。
「……こちらからそれとなくヒントを出して行くつもりだったのだがな」
思わず彼は小声で呟く。
リンドは何も言わずともその意味を汲み取れるとは思っておらず、またそこまでを求めてもいなかった。想像以上の賢さを持つ目の前の女性に思わず興味が惹かれ。
「まあ私もエイリカに言われて気付いたのですけどね」
その言葉に無表情で固まる。
「テティデュー、そのことは黙っておいてと言ったでしょう」
「仕方ないでしょ? 騙しているみたいで悪いじゃない」
リンドは思わずテティデューの隣に座っているお目付け役へと目を向けた。彼女の事は知っている。
テティデューについて調べた時、必ず一緒に情報が上がって来るのがエイリカだ。細かい出自までは調べ切れてはいないがアバストロフ家と深い関係にある家の者で、幼い頃より彼女の警護や身の回りの世話をしているらしい。
エイリカはリンドが自身を見つめていることに気が付くと恭しく一礼をする。その所作はテティデューに比して謙虚さが窺える美しさを持っていた。
「ふむ、エイリカ、だったか。あなたはロンドーリアへの見識が深いらしい」
「私の仕事にはテティデューのサポートも含まれています。それで事前に調べておいただけでございます」
「そうか、テティデュー嬢には優秀な友人がいるようだ」
半ば社交辞令も交えリンドがエイリカを称える。内心ではテティデューとの婚約を決めた時に彼女も付いてくるというのは悪くない話かもしれないなどと今後の展望を考えていたのだが。
不意にテティデューは机を叩いて立ち上がる。
「……何か?」
周囲の者はエイリカも含め震える拳を胸に掲げるテティデューに訝し気な視線を向けていた。次の瞬間、彼女はテーブルを回り込み対面にいたリンドの元までわざわざ向かい彼の手を取る。若干引き気味で警戒心すら露にしている彼を前に。
「そうでしょう!?」
彼女は満面の笑みで叫ぶ。
「エイリカの素晴らしさをわかってくれるだなんてあなたきっといい人なのね! エイリカは幼い頃から私の傍にいてくれる素敵で無敵で最高なエイリカなのよ! 彼女を形容するには本のページが幾つあっても足りないぐらいに言葉を尽くさなければならないし絵画にするならアバストロフの領をキャンバスにしてもまだ足りないの! 他にも言いたいことは幾つもあるのだけれどそうね、エイリカはとっても賢くて私が公務に赴く時はいつだって傍で力を貸してくれるのよ。今日だってその一環ね、わざわざロンドーリアについて調べて来たのでしょう? 大丈夫、わかってるわ。どうせ元からそのぐらいの知識はあったのでしょうに。そうそう賢さだけがエイリカの武器じゃないわ。力だって凄いのよ、あんなに細くて可愛らしいのによ? 大工をやってるまるで、そうターリアの大イチョウを知ってる? あのイチョウの幹のような体格のおじさまを投げ飛ばすのよ? エイリカは武術を習えば誰にでも出来るなんて嘯いていたけれど私にはどうやってるのか見当もつかないわ。それだけじゃなくて他にも――」
一度話し出すとまるで自己陶酔の世界に入ったミュージシャンの如く延々と止まらぬ言葉の洪水にリンドは思わず握られている手を振りほどきかけたが、ぎりぎりの所で彼の理性がそれを留める。そして話の通じそうにないテティデューは無視し助けを求めるようにエイリカの方をちらりと見た。
エイリカはごほん、と咳ばらいを一つすると。
「テティデュー、少し落ち着いた方が良いわ」
どう考えても自分の世界に入ったテティデューに聞こえそうもない普段と変わらぬような声で淡々とそう言った。リンドはそんな小さな声が届くものかと呆れと諦観の混じった溜息をついたが、ふと、声が聞こえなくなったことに気が付く。
彼が顔を上げるとそこには顔を赤くしたテティデューがか細い声で鳴いている。
「あ、ぁ、そ、ご、ごめんなさい」
彼女はゆっくりと手を放すと手足が左右同じ方を前に出して席へ戻る。リンドはそれを見て彼女にも恥の概念があったのか、とぼんやり思った。
席に戻ったテティデューは冷たい水を少し飲むと一拍置いて再び顔を赤くする。彼女は確かに父親も手を焼くような奔放さを持っているが、それはそれとして時と場合は弁える程度の礼節を持っている。今回の視察も相手方に失礼の無いように気を付けるつもりだったのだが。
「私、ちょっと、時々、我を忘れることがありまして、その、ごめんなさい」
リンドは赤面し消え入りそうな声でそう言い訳する彼女を見て、寧ろ事前の情報よりも彼女への評価を高く改めていた。
「いや、気にすることは無い。寧ろ人間らしい行動とも言えるだろう。きちんと反省できるのであればその程度は可愛らしいものだ」
「そうかしら? ……失礼かもしれないけれど、リンド様には私のように勢いのまま我を忘れる、なんてことは無さそうに見えるわ。理性的で合理的、そのようにお見受けできます」
「それは誉め言葉と受け取ってもよろしいか?」
「もちろん、私はそのつもりで申し上げましたの。それらはきっと私が持ちえないものですから」
二人が話したのはほんの短い時間だ、テティデューも彼の全てを理解した、などとまで言うつもりは無い。しかしエイリカから道中に聞いた彼のこれまでの功績と実際に話をした印象を合わせると彼は正に理性と合理の塊であると結論付けるに値したらしい。
そしてテティデューはそのことを高く買っている。
「私はどうしてもすぐに感情的になってしまうところがあるわ。幼い頃からの悪癖の一つね。自身の感じるままにあちらこちらふらふらと、エイリカやお父様には随分と世話をかけてしまった、いえ、今でも世話をかけているわ。あなたのようであれば或いはもっと民の為に力を尽くせたのかもしれない、そう思うことも少なくないのよ」
「……テティデュー嬢」
リンドはその言葉に対し対応をすぐさま考える。テティデューの言葉は確かに正しい。彼は理性的で合理的、だから彼は無意識にテティデューが最も欲している言葉を探るのだ。
それこそが自領を、曳いてはこの国をより栄えさせる方法なのだから。
「あなたの行いは、確かに時に周囲に迷惑をかけるものかもしれない。しかしあなたの行いに救われる者も多いはずだ。我が領民から聞いたことがある。ロンドーリアの領では芸術を続けられないとアバストロフの領に行った者がいると。その中にはあなたの姿に様々なインスピレーションを得て大成した者もいると。誰かの助けになれるのは非凡な才の一つだ。そう悲観することは無い」
悪癖を否定することは必ずしも救いにはならない。しかしそれが廻り巡って人を助けることもあると諭すことは気を楽にする程度の効果はある。その後もフォローを続けて行けば彼女はそれも自身の個性の一つであると認識するようになるだろう。
リンドは間違いなく彼の理に従い、テティデューの好意を得る言葉を投げたはずだった。
「たとえ本心からの言葉でなくともそう言ってもらえると嬉しいわ」
それが本心からの言葉であると思われていれば、の話だが。
二人の顔合わせと後日の予定を兼ねた食事会は終わる。互いの胸の内に僅かなしこりのようなものを残したまま。
そして彼らはそれらを抱えたまま翌日からロンドーリア領の視察へと赴くことになる。




