1
芸術には価値がある。絵画、音楽、舞踊、演劇、文学、等々々――。
それらはこの国における至高の宝であり、人々は日々の、或いは人生の時間を芸術の為に捧げる。例えば絵を描く者ならば寝食を忘れより良い構図を、華美な色を、細緻な描き込みを追い求める。無論、それは絵画のみでは無く音楽、舞踊、演劇、文学、等々々――、それらの全てに共通するものだ。
なぜだ? なぜ彼らはそれほどまでに全てを芸術に捧ぐのだ?
決まっている、それだけの価値があるからだ。
石畳の道の中央を彼女は歩く。そこに住む誰よりも堂々と足を高く掲げ皆の注目を意に介することも無く力強く歩いている。
「テティデュー様、今日はどちらへ?」
道端の似顔絵描きが彼女に尋ねた。彼女は気を悪くする風も無く立ち止まり彼に答える。
「今日はお父様のお城でディナーよ。それまでは暇ね。……そうね。折角だからあなたに似顔絵を描いてもらいましょう」
「良いんですか? 私なんぞに時間を使われて……」
「何を言ってるの」
彼女は備え付けてあった椅子に座り似顔絵描きの目を見つめる。
「あなたの絵に期待してるのよ」
微笑みと共に放たれた言葉は似顔絵描きの心を射抜いたようで、彼は若干取り乱しながらも、誠心誠意、自らの持てる全力を以て彼女の似顔絵を描き始めたのだった。
アバストロフ家の令嬢であるテティデュー・アバストロフは当領における有名人だ。彼女は領地を一人の護衛と共に自由に歩き回り、領民と気さくに談笑し多くの関わりを持っている。
例えば広場で詩を諳んじる彼はテティデューの半生に多少の脚色を加えた詩を唄っている。
例えば黙々と石膏像を作る彼は少々背丈が高く髪の長いテティデューの像を工房の前に飾っている。
例えば先ほどの似顔絵描きは今後似顔絵の見本にテティデューのそれを使うだろう。
「あ、睫毛はもう少し長くしてちょうだい。あと後光が差している方が神々しくてよくないかしら?」
他と同じように少々加工が為されているようだが。似顔絵描きに注文をするなど少々おかしな話であるが、しかしこれは彼女の美点なのだ。
領民にとって領主の一人娘であるテティデューは貴き存在で本来ならばたかが一似顔絵描きがこのように近しい距離で接してはならぬ御方である。実際、最初は彼女を見かけても遠巻きに見ているばかりで声を掛ける者などいなかった。領民は皆が互いの適切な距離感というものを弁えていたのである。
つまり、その辺りを弁えられなかったのはテティデューの方であった。
今では街中で芸術的活動に勤しむ者が、それはつまりここに住むほとんどの者がという意味だが、彼女の顔見知りで町を歩いていれば今日のように誰かが彼女に声を掛けて彼女をモチーフに創作に勤しむ。
この日も時間を忘れて多くの注文を付けてはより良い作品作りへ没頭していた。それは領主である父との約束も忘れそうになるほど。
「テティデュー、そろそろ終わらせないと時間が無くなるわ」
そんな彼女には優秀な護衛兼お目付け役が一人付けられている。
「あら、エイリカ。もうそんな時間?」
「奉納の時間も考えるとそろそろ完成させておかないとぎりぎりでしょうね」
彼女の名はエイリカ。奔放ですぐに時間や約束事を忘れるテティデューを御しているのは間違いなく彼女だ。アバストロフ家と縁の深い親戚の娘で幼い頃よりこちらに預けられテティデューと共に過ごしていたのだが、それ故にいつの間にやら彼女のお目付け役となっていたのである。
今では武芸もある程度は身に付けておりアバストロフ家の騎士も彼女には一目置いているとの話だ。
それはそれとして似顔絵はテティデューの要望に振り回されながらも完成へと向かって行く。幸いエイリカが釘を刺したおかげでつつがなく終わりそうだ。
似顔絵描きが最後に美しい宝石のような瞳を描き入れる。
「完成、かしら」
「ええ、テティデュー様、どうぞ。力作ですよ」
彼の言葉通りそれは見事な作品だ。テティデューの注文故に少々加工が過ぎる部分を除けば、彼女の整った顔立ち、絹のように美しくしなやかな髪、奔放で明朗な表情、それらの特徴を上手く捉えている。
「良いじゃない。ほら、エイリカも見て」
「……成程、確かに惚れ惚れするような絵ですね」
絵を見て笑みを浮かべる二人に似顔絵描きは満足そうだ。
「実際、こんなに良い作品を描けたのは初めてですよ。正に渾身の一作です」
「ならばきっとあなたには幸福が訪れるわ」
テティデューが微笑み似顔絵を天に掲げた。
芸術の奉納。
天に居られる神々は人の作り上げる芸術を好んでいる。故に人々はより良い作品作りに命を懸け、対価として各人にとっての幸福を得るのだ。
天に掲げた似顔絵から光が立ち昇る。その光が空を覆う雲を抜けて地上から見えないほど遠くへ行き誰の目にも見えなくなる。三人はそれでも空を見上げ続けた。
やがて、一筋の光が雲を割いて煌めいた。
「来たわね」
その光に乗って何かが地上へ降りて来る。それは似顔絵描きの目の前へ降りて来たかと思うとその何かだけを残し光は小さな粒となって消えて行った。
「おお、これは……」
それはどういった素材で出来ているのかも想像がつかないほど薄く、頑丈な箱だ。そしてその中に入っているのは大量の食料。
「あら、食べるのに困っていたの?」
「実は娘に子供が生まれたと報せがありまして……。精の付くものをたくさん持って行ってやろうと」
「そうなの? おめでとう、素晴らしいことだわ」
「ありがとうございます」
似顔絵描きは涙を流して感謝を告げる。しかしテティデューはそれを鼻で笑った。
「馬鹿ね、なぜ感謝する必要があるの。これはあなたが描いたものでしょう? もっと堂々としなさい!」
そういって彼女は似顔絵を彼の手に握らせる。
「次はお孫さんの似顔絵を描くと良いわ。もちろん、これよりも素晴らしい物を、ね」
「……はい、必ず!」
領民の間でテティデューの評判は頗る良い。それは彼女が気さくで陽気で話しやすいということもあるのだが、それ以上に彼女の性格や言葉に良い影響を受けた者が数え切れないほどいることの方が大きな要因だ。
そうとも、彼女は領民にとても好かれている。
「お前は、もう少し早く来れないものか……」
そう、領民には好かれている。父親からは……、ここでのコメントは控えさせてもらおう。
「お父様、そうは言いますけどね。今日も私、一人の優秀な似顔絵描きを発見して来たところですのよ」
「エイリカ、本当かね?」
「嘘ではありませんね。その後にあちらこちらと寄り道した挙句に時間通りに城へ辿り着けなかったこととはあまり関係ないと思いますが」
「ちょっと、エイリカ!」
「そうか……、そうか」
テティデューの父、モンテギューは彼女のお転婆に散々手を焼かされ続けている。幼い時分から今に至るまで彼女の事を思うと気の休まる時など無いのだ。
その分、進んでお目付け役をやってくれているエイリカには絶対の信頼を置いていた。ここでの信用の差とはつまりそういう事なのだ。
「まあいい。優れた芸術家が世に出ることは素晴らしいことだ。その点に関してはお前を褒めねばならんな、テティデュー」
「あらお父様、わかっているじゃありませんか」
「そしてそれほど芸術が持つ価値をわかっているお前ならば、この国を覆う空に文字通り暗雲が迫りつつあることも、儀式の日取りが近いことも分かっているのだろう」
「……あー、ははは」
テティデューはそのことについてあまり考えたくは無かったようでで苦笑いを浮かべている。モンテギューとエイリカは思わず頭を抱えていた。
暗雲が迫りつつある、というのは決して比喩では無く言葉通りそのままの意味である。おおよそ十年に一度ほど、この国の空は陽射しすら全く通さない程の黒い雲によって覆われてしまう。それをそのまま放置すれば大雨が降り始めそれは国中を押し流す洪水となるまで止まることは無いだろう。
しかし彼らにはそれを止める術がある。
「儀式……、三領地合同の演劇ですわね」
三領地とは一般にこの国でも最も広い領土を持つ三つの領地の事を指す。彼らが合同で行う演劇では普段何十人もの芸術家が集う広場を貸し切って行われる。幾つもの舞台セットがそこに建ち並び、一日を通して行われるそれは国外からも多くの者が見物しにやって来る一大イベントであり、それと同時に神に奉納される壮大な芸術だ。
彼らはこの儀式を奉納する代わりに迫り来る暗雲を晴らすことで国を維持しているのだ。
「半年後でしたかしら?」
「そうだな」
「まだ半年もあるじゃない」
「劇の脚本すらまだ完成していないようだがな」
テティデューは思わずバツが悪そうに視線を逸らす。
「脚本が決まってもやることは多いぞ。演者の選定と練習、大道具や小道具、様々なセットの用意、こんなのは一例に過ぎん。実際に劇が完成するまでにはやるべきことは山ほどある。まだ半年だと? もう半年の間違いだろう」
「……エイリカ、何か言い返せないかしら」
「モンテギュー様が正しいわ。テティデューは少し反省すべきね」
「うう……」
実際、半年というのは十分な準備期間とは言えない。儀式の為に動員できる人員は星の数ほどおり、セットの用意などに関しては実のところ然程問題は無い。
一方で演者に関してはどうしても練習の為に時間がいる。なにせ一日をかけて行うのだ。半端な練習量では粗の有る出来になるだろう。
そして粗だらけの演劇を奉納など出来はしない。そんなものに神は納得しないだろうから。
「……本当の所、私も分かってはいるのよ。早くしないといけないって」
「だったら早くしてくれ」
「でもね、お父様もわかるでしょ? 私が悩む理由」
無論、テティデューもこの儀式の大切さは理解していた。十年前、彼女が今よりも頭二つは背丈が低かった頃、その壮大な催しを彼女は特等席で見つめていたのである。主演を務めていた父が衆目を引き込む素晴らしい演技をしていたことも彼女の脳裏に焼き付いている。
そして何より、その演劇を奉納し暗雲が晴れ久方ぶりに太陽の光を一身に浴びる人々の姿を、その喜びに満ちた表情をはっきりと覚えている。
ただ、それでも。
「これにかこつけて婚約まで済ませろと言われると、悩まずにはいられないわよ」
彼女はこの国で言えば既に結婚適齢期。まして領主の一人娘であることも踏まえれば既に婚約者の一人も居なくては格好がつかない。跡継ぎの問題も考えると事は重大だ。
そしてこの儀式は三領地合同、この国で最も大きな三つの領地が手を取り行うこととなる。つまり領主の一人娘に相応しい間柄の者が大勢関わることになるだろう。
そこで三領地の現当主は考えた。ここで彼らの結び付きを強めるべくこの演劇に置いて婚約を発表してはいかがだろうか? 演劇の題材をラブロマンスにしその主演の二人を現実においても婚約する。丁度アバストロフ家は娘が一人いる、どちらかの領の息子を選ばせるとしよう。選ばれなかった方にも相応の対価を用意し三領地の結束を深めようではないか。
「政治の都合というのがあるのは分かりますわよ。でも突然に重大な決断を投げられた私の気持ちも考えて欲しいものだわ」
「それはまあ、その……。あの席では少々酒が入っていたのもあって……」
「娘の、或いは三領地の一大事をお酒の入った席でねえ……」
「んんっ、ごほん……。一応、酔いが覚めた後に改めて話はしたのだ……、うむ」
政略結婚、アバストロフ家の格というものを考えればテティデューもそれが必要であることは理解している。しかしどうしても思ってしまうのだ、詩人が唄う恋物語のように、文学史に残るラブロマンスのように、情熱的に愛を伝える舞踊のように、熱狂的なまでの愛に身を焦がされてみたかった、と。
幼い頃から市井の者と関わり様々な恋や愛にまつわる話を、芸術の創作か現実にあった話かに関わらず、聞き続けた彼女だからこそついそのことが頭を過る。
彼女にも演劇の脚本を進めねばならぬという焦りはあったが、その一方で自らの憧れ故にどうしても気持ちに熱が入らない。焦れば焦るほど考えもまとまらずついには考えるのを止めて市井へと足を運ぶ。
悪循環である。
テティデューとモンテギューは二人同時に溜息をついた。二人の仲は特別良いわけでもないが長く共に時間を過ごす家族であり互いの考えは概ね理解している。それ故に現状のままではどうにも上手く行き難い事だけは理解していた。
「ロンドーリアとトゥルギアの御子息についてお二人はご存じですか?」
なるほど、二人には確かに深い溜息をつくことしかできなかったがここにはもう一人、エイリカがいる。
「ロンドーリア家のリンド様は政治の分野に秀で今は領地の経済状態を良くしようと様々な施策を行っているとか」
「ああ、そうだな。彼は既に領地経営になくてはならない存在だと聞いている」
「トゥルギア家のガーレン様は屈強な騎士で領民からは軍神と崇められていると聞きますね」
「かの家からは大勢の騎士が排出されてますものね。僻地を襲う盗賊団を征伐したのもガーレン様が率いる騎士団だったなんて噂が流れてましたわ」
唐突に出された話に二人は困惑しながらもどうにか話を合わせる。しかし二人はよく知っている。エイリカが如何に機知に富んでいるか、そして二人が難題に直面した時に何度助け船を出してくれたのかということを。
「エイリカ、何か考えがあるのね?」
「考えという程の事ではありません」
「ふむ、しかし何かあるのだろう? 我々は君の意見を聞きたい」
「では及ばずながら私の意見を具申させて頂きます」
こほん、と彼女は咳払いを一つして二人を見渡し、それから、鼻で笑った。
「ふっ、お二人は少々おつむが弱くて困ります」
「エイリカ?」
「ろくに人となりを知らぬ相手に抱くことが出来るのは妄想でしかないでしょう? それを元に愛だの恋だの婚約だのと言われても……、テティデューがそんなこと出来るわけないでしょう」
「むぅ、一理ある」
「……私のこと馬鹿にしてないかしら?」
「そうと決まれば私の言いたいことはお二人にもお判りでしょう?」
二人の表情は困惑に染まる。が、直後、顔を見合わせて叫ぶ。
「「実際に会ってみろということね!」か!」
「そういう事です」
エイリカの提案はこうだ。
どうせこのまま何もせずにいればテティデューは脚本も婚約の相手も決めることは出来ないだろう。それならば、実際に二人に会ってどちらかを好きになれば良い。
「移動時間も考えるとそれぞれの領への滞在期間は十日ほどが妥当ですかね」
「そうだろうな。流石にその後の事も考えれば一月以上の時間は取れん」
「あのー、私まだ何も言ってないのだけれど……」
テティデューの発言は二人の黙っていろ、という無言の圧力に揉み消される。
「善は急げだ。明日にでも出立できるように準備を整えよう。エイリカ、君も付いて行ってくれるか?」
「もちろんです。テティデューのお目付け役は私にしかできませんから」
本人を余所に次々と埋められていく予定を見ながらテティデューは項垂れる。
「どうしてこんなことに……」
そう呟く彼女を見ていてのは面白がるような笑みを見せる壁の中の絵画だけだったという。