第9話 タイムリープ
ジュディは目をこすりながら起き上がった。
「怖いよ...」
泣きそうな声で言った。「ウーちゃん」を探した。ウーちゃんが、昨夜とは違う場所にいる。
「ママ、霧がお化けみたい」
震える声で言った。
「ウーちゃん、隠して」
小さな声で囁き、ぬいぐるみを毛布の下に押し込んだ。でも、ウーちゃんの足の黒い染みが、既に胴体まで広がっている。
霧がドアの隙間から滲み出すように入り込み、室内の空気が重くなっていくのを全員が感じていた。塵の匂いに混じって、金属的な臭気が強まり、喉が乾く感覚が全員を襲った。喉の奥で、何かが蠢いている感覚。
メアリーは子供たちを抱き寄せた。
「大丈夫よ」
囁いたが、声には自信がなかった。
「ティム、どうする?」
夫を見つめ、声には決意と恐怖が入り混じっていた。
ティムがドアに手をかけた瞬間、叫んだ。
「下がれ、メアリー!」
ドアが、内側から膨らんでいる。何かが、押し入ろうとしている。
森の奥からの唸り声が急激に高まり、耳をつんざく轟音へと変わった。音は皮膚から直接体内に侵入するような感覚があった。バンガローの壁が激しく震え、トタン屋根が軋むような音を上げる。壁の板が剥がれ落ち、窓ガラスがひび割れ始めた。ガラスの亀裂が、稲妻のように広がっていく。
赤い粒子が霧の中で渦を巻き始め、急速に膨張していった。無数の小さな点が統合されて、より大きなパターンを形成していく。パターンが、巨大な花—チューリップの形を取り始める。
無数の機械が一斉に起動したかのような振動音が連なり、空気そのものが震えているようだった。空気が、固体になったかのように重い。
「下がれ!」
ティムが再び叫んだが、声は轟音に飲み込まれた。窓ガラスが砕け散り、鋭い破片が室内に飛び込み、灰を舞い上げた。破片が、時間の欠片のように宙を舞う。
ヴァージニアは本能的にスケッチブックを胸に抱きしめた。恐怖が彼女の体を凍りつかせ、鉛筆を握る指が震えていた。それでも、その手は最後まで離さなかった—大切な記録を守るように。スケッチブックのページが風でめくれ、チューリップの絵が赤い光に照らされる。
アールはタブレットを強く握りしめ、画面に映る現象を記録しようとしたが、画面は既に赤い警告サインで埋め尽くされていた。
「記録が消えていく...でも覚えてる、全部覚えてる」
彼の目が、一瞬、老人のような深い知性を宿す。
突如として白い光が室内を包み込み、全ての視界を焼き尽くした。高周波のノイズが頭蓋を貫き、家族の叫び声が断片的に響き渡る。
「ティム!」
メアリーの叫び。でも、その声が過去からなのか、未来からなのか、分からない。
「何だこれ!?」
アールの混乱した声。データを、理解を求める声。
「やめて!」
ヴァージニアの悲鳴。でも、その声には諦めもある。
「パパ、ママ!」
ジュディの泣き声。でも、どこか遠くから聞こえる。
全ての声が重なり、混沌が極限に達した。時間が、螺旋を描いて崩壊していく。
メアリーは子供たちに向かって手を伸ばした。
「こっちよ!」
叫んだが、光の奔流に弾かれるように体が浮き上がった。重力が意味を失う。
「家族を!」
ティムが喉を裂くような声で叫び、指先がメアリーの腕に触れそうになるが、その瞬間、光が全てを覆い尽くした。
「何があっても一緒よ」
メアリーの最後の言葉が、時空の狭間に響いた。
重力が消え、暖炉の火が一瞬で消えた。灰が渦を巻き、アールはタブレットを握りしめながら叫んだ。
「記録が...!」
画面は既に暗転していた。でも、彼の頭の中では、全てのデータが鮮明に残っている。
ヴァージニアはスケッチブックを胸に押しつけた。
「見えない!でも感じる...チューリップが咲いてる!」
叫び、金髪が光の中で舞い上がった。
ジュディは泣き叫んだ。
「ウーちゃん!」
大切なぬいぐるみが光に吸い込まれていくのを見た。でも、ウーちゃんの黒い染みが、今は銀色に輝いている。
家族全員が霧と光の渦に呑み込まれ、互いの距離が広がっていく。光の中で時間が歪み、メアリーの視界に家族のシルエットが浮かんでは消えた。過去と未来が、同時に存在する瞬間。
光が最高潮に達し、突然全てが暗転した。騒音が消え去り、深い静寂が耳を圧迫する。メアリーの体は急に重くなり、冷たい地面に叩きつけられる感覚が一瞬走った。
意識が途切れる直前、メアリーは見た。暖炉の灰の中から、小さなチューリップが芽を出している光景を。それは幻覚かもしれない。でも、希望の象徴として、彼女の心に刻まれた。