第52話 対決と決断
過去と未来が交差する場所で、 選択だけが真実となる。
時間: セクター7副制御室、2038年7月26日、午後6時30分
鉄扉が重い軋みを立てて開き、エリザが副制御室に足を踏み入れた。その音は、運命の扉が開く音のようだった。
薄暗い部屋は時間が止まったような静寂に包まれ、埃の粒子が青い非常灯の光の中で緩やかに舞っていた。コンソールのモニターが不規則に明滅し、部屋全体に不気味な影を投げかけている。まるで過去の亡霊たちが、この瞬間を見守っているかのように。
壁には色褪せた写真とスケッチブックが無造作に貼られていた。若き日のエリザとアラン、そして小さなサラの笑顔。幸福だった時代の残骸が、まるで墓標のように並んでいる。
エリザの黒い制服は汗と灰にまみれ、かつての威厳は影を潜めていた。左頬の傷跡は赤く腫れ上がり、過去の苦痛が今も彼女を苛んでいることを物語っていた。青い瞳は冷たく、しかしその奥底には消えない痛みが渦巻いている。
手に持つナノマシン容器の中で、黒い粒子が生き物のように蠢いていた。霧が呼吸するように脈打ち、今にも飛び出そうと舌なめずりしているかのようだった。
「ここだよ、ナノマシンの制御コードを完全に解放する」
声は静かだったが、その響きには11年分の憎悪と絶望が込められていた。
その時、入り口にティム一家が現れた。
「エリザ!やめてくれ!」
ティムの叫びが静寂を破った。その声は、ガラスのように砕けて部屋に響いた。
エリザがゆっくりと振り返る。その動作には、獲物を見定める捕食者のような冷徹さがあった。
「愚かな人間たち、まだ抗う気?」
しかし、その声には以前のような確信がなかった。どこか、自分自身に問いかけているような響きがあった。
メアリーが一歩前に出た。教師として培った洞察力が、エリザの心の揺らぎを見逃さなかった。
「エリザ、あなたの心にはまだ愛があるよ。サラとアランのために、やめて」
その名前を聞いた瞬間、エリザの表情が一瞬歪んだ。まるで、古い傷に触れられたような痛みが走った。
アールが子供らしい率直さで呼びかけた。
「エリザさん、家族が大好きだったよね?」
ヴァージニアがスケッチブックを胸に抱きしめ、震える声で言った。
「レイナさん、私たち、エリザさんを救いたいよ」
ジュディが小さなぬいぐるみを掲げた。
「ウーちゃん、エリザさんを助けて!」
子供たちの純粋な願いが、エリザの心の氷にひびを入れた。
ティムが更に近づいた。
「エリザ!サラとアランを思い出してくれ!」
その瞬間、コンソールのモニターが勝手に起動した。2019年の映像が流れ始める——サラの7歳の誕生日パーティー。
「ママ、大好き」
画面の中のサラが、手作りのカードをエリザに渡している。
「エリザ、俺たちは家族だ」
アランが優しく妻と娘を抱きしめる姿。
エリザの瞳が激しく揺らいだ。
「サラ、アラン」
名前を呼ぶ声は、もはや冷酷な支配者のものではなかった。8歳の少女のような、震える声だった。
その時、ヴァージニアの緑の瞳とエリザの青い瞳が交錯した。一瞬、時が止まったかのような静寂が訪れる。エリザは息を呑んだ——その瞳の奥に、サラの面影を見たから。
ここで、沈黙の対話が始まる。
二人は言葉を交わさずに見つめ合った。ヴァージニアがゆっくりとスケッチブックを開く。エリザの視線がそこに釘付けになる。
ページをめくる音だけが響く中、二人の間に不思議な共鳴が生まれていく。芸術家同士の、時を超えた理解。
ヴァージニアは一枚の絵で立ち止まった。それを見たエリザの表情が変わる。驚き、理解、そして深い悲しみ。
二人は同時に小さく頷いた。言葉はいらなかった。
しかし、すぐに激しく頭を振った。
「いや、ウェイドが私の全てを奪ったんだ」
自分に言い聞かせるように叫び、コンソールを乱暴に叩いた。
「ナノマシン増殖:加速」
機械が悲鳴を上げるような音を立て、警告灯が狂ったように点滅し始めた。
その時、ヴァージニアが震えながらも一歩前に進んだ。
「エリザさん、見て」
少女は静かにスケッチブックを開いた。そこには「希望の光」と題された小川の絵があった。水面に広がるチューリップ型の光の波紋が、繊細なタッチで描かれている。
エリザはその絵に釘付けになった。構図、色使い、そして何より、その絵から感じられる純粋な感性——それはサラの描き方にそっくりだった。