第49話 最後の希望、そして
東京、2015年秋~
国際ナノテクノロジー学会。東京国際フォーラムの巨大なホールは、世界中から集まった研究者たちで埋め尽くされていた。最新の研究成果が次々と発表され、未来への期待が会場を満たしている。しかし、その期待の影に、まだ誰も気づかない破滅の種が潜んでいた。
エリザ・コート、25歳。黒いスーツに身を包み、壇上で自信に満ちた発表を行っていた。環境浄化ナノマシンの革新的な制御技術。母の夢を、最先端の科学で実現しようとしていた。
「母さん、見て。私、ここまで来たよ」
心の中で呟きながら、プレゼンテーションを続ける。
発表を終え、拍手の中を歩いていると——
「エリザ…?」
振り返ると、8年ぶりのアランがそこにいた。茶色の髪は少し短くなり、スーツ姿も板についている。しかし、あの優しい青い目は変わらない。
心臓が激しく鼓動した。逃げ出したい衝動を、必死で抑える。霧が見ている。千の目を持って、彼女の動揺を品定めしている——そんな幻覚が一瞬よぎった。
「なぜここに」
声を平静に保とうとしたが、わずかに震えていた。
「僕も研究者になった。君と同じ道を選んだんだ」
アランの声には、昔と変わらぬ真摯さがあった。
動揺を隠し、冷たく返す。プロの研究者の仮面をかぶり直す。
「それで?」
「ウェイド・インダストリーズとは縁を切った。君との約束を守るために」
アランの言葉に、エリザは息を呑んだ。
「今更——」
「今更じゃない」
アランはポケットから小さな透明なケースを取り出した。中には、押し花のチューリップ。赤い花びらが、8年前と同じ色を保っていた。
「君の母さんが好きだった花。ずっと持ってた」
エリザの鎧が、音を立てて崩れた。涙が溢れ、もう止められなかった。涙は、錆びた鉄の音を立てて落ちた——いや、今度は銀の鈴のような音だった。
「バカ…」
震える声で呟いた。
ここで、沈黙の再会が始まる。
二人は言葉を交わさずに、会場の外のベンチに座った。東京の秋空は澄み渡り、イチョウの葉が金色に輝いている。
エリザは震える手でケースを受け取り、押し花を見つめた。アランは何も言わず、ただ隣に座っている。8年前と同じように。
長い沈黙の後、エリザが口を開いた。
「なぜ…待っていてくれたの?」
「君しかいないから」
シンプルな答え。飾り気のない、まっすぐな想い。8年経っても変わらない。
二人は同時に手を伸ばし、指先が触れ合った。言葉はいらなかった。8年の時を超えて、二人の心は再び繋がった。
2017年、結婚式。
小さな教会。招待客は少なかったが、温かい雰囲気に包まれていた。
ウェディングドレス姿のエリザが、鏡の前で不安げに呟いた。レースの袖を何度も直し、落ち着かない。
「本当にいいの?私なんかで」
母の形見の指輪が、ネックレスとして胸元で輝いている。
「君じゃなきゃダメなんだ」
アランが後ろから現れ、優しく肩に手を置いた。
「エリザ、誓うよ。君と君の夢を、一生守る」
その言葉に、エリザは振り返った。涙が止まらない。でも今度は、幸せの涙だった。
「私、幸せになってもいいの?」
「当たり前だよ。君には幸せになる権利がある」
アランは彼女を抱きしめた。その腕の中で、エリザは初めて本当の安らぎを感じた。
2018年、サラ誕生。
病院の個室。窓から差し込む朝の光が、生まれたばかりの命を優しく照らしていた。光が、優しく語りかけているようだった——おめでとう、と。
「見て、アラン。私たちの天使よ」
小さな命を抱きしめるエリザの顔は、母性に輝いていた。サラの小さな手が、エリザの指を握る。その瞬間、世界のすべてが変わった。
「サラ…」
アランが娘の名前を呼ぶと、赤ちゃんがふわりと微笑んだような気がした。
「この子には、私が失ったすべてを与えよう。愛も、夢も、希望も」
エリザは誓った。そして、初めて心から思った——生きていてよかった、と。
「サラ、あなたは愛されて生まれてきたの」
小さな頬にキスをすると、サラが小さな声を上げた。その声は、希望の鐘の音のように響いた。