第47話 アラン・ウェイド
ドーセット、2007年春
高校の中庭。桜の花びらが風に舞い、春の陽光が世界を優しく包んでいた。しかしエリザにとって、それらは色褪せた背景でしかなかった。霧が見ている。千の目を持って、彼女の孤独を品定めしている。
17歳になった彼女は、いつも一人でベンチに座っていた。黒いセーターに身を包み、長い金髪で顔を隠すようにして、スケッチブックに向かう。他の生徒たちの笑い声が遠くから聞こえてくるが、それは別世界の出来事のようだった。
描いているのは、かつて美しかった小川。しかし今は、黒い線で塗りつぶされている。鉛筆が紙を引き裂くように動き、怒りと悲しみが線となって刻まれていく。紙が悲鳴を上げるような音——それは、彼女の心の叫びだった。
「暗い絵だね」
突然の声に、エリザは顔を上げた。そこに立っていたのは、茶色の髪と人懐っこい青い目を持つ少年。制服は少しくたびれているが、清潔に保たれている。何より、その瞳に宿る優しさが、エリザを戸惑わせた。
「…誰?」
警戒心を隠さず、冷たく返す。
「アラン・ウェイド。生物の授業、一緒だろ?」
ウェイド。その名前に、エリザの全身が緊張した。まさか——
「何か用?」
声がさらに冷たくなる。氷のように、鉄のように。
「君の絵、いつも見てた。自然が好きなんだね」
アランは屈託なく微笑み、隣に座ろうとした。
「好きだった。過去形」
エリザはスケッチブックを閉じ、立ち去ろうとした。しかし、アランの次の言葉が彼女の足を止めた。
「じゃあ、また好きになれるよ。今度の週末、森に行かない?」
「なんで私なんかと」
振り返り、疑いの眼差しを向ける。
「君の目が、母さんに似てるから」
意外な答えに、エリザは戸惑った。アランの目に、嘘や下心は見当たらない。
「君の母さん?」
「去年亡くなった。ガンで。最後まで庭の花を大切にしてた」
アランの目に、自分と同じ喪失の痛みを見た。母を失った者同士の、言葉にならない共感が生まれた瞬間だった。
「…一度だけよ」
なぜ承諾したのか、自分でも分からなかった。
土曜日の森。
アランは約束通り、学校の裏門で待っていた。リュックサックを背負い、まるで遠足に行く子供のようにわくわくしている。
「来てくれた!」
その純粋な喜びの表情に、エリザは少し心が和らぐのを感じた。
二人は森の小道を歩いた。エリザが知っている森とは違う道を、アランは自信を持って進んでいく。木々が首を傾げるように道の側に傾いていた。まるで二人の行く末を見守っているかのように。
「ほら、まだこんなに緑が残ってる」
アランが指差す先に、工場の煙が届かない小さな楽園があった。まるで時が止まったかのように、緑が生き生きと茂っている。
「本当だ…」
エリザは息を呑んだ。澄んだ小川が静かに流れ、岸辺には緑の苔がびっしりと生えている。野鳥のさえずりが木々の間から聞こえ、蝶が花から花へと舞っていた。
「ここは僕の秘密の場所。母さんと見つけたんだ」
アランはリュックから双眼鏡を取り出し、エリザに手渡した。
「キツツキがいるよ。見てみて」
エリザが覗くと、赤い頭の鳥が一心に木を叩いていた。規則正しいリズムが森に響き、生命力に満ちた姿が彼女の心を打った。
「生きてる…」
呟きに、3年ぶりの驚きが込められていた。
「そう、みんな必死に生きてる。だから守りたいんだ」
アランの横顔を見る。そこには打算も嘘もない、純粋な思いがあった。この少年は、本当に自然を愛している。
「君…本気なの?」
「本気だよ。君と同じ」
その言葉に、エリザの心の氷が少しずつ溶け始めた。
ここで、沈黙の会話が始まる。
二人は言葉を交わさずに、小川のほとりに座った。エリザがスケッチブックを開くと、アランは静かに見守った。
鉛筆が紙の上を滑る。最初は硬い線だったが、次第に柔らかくなっていく。黒一色だった世界に、少しずつ光が差し込んでいく。
アランは何も言わない。ただ、温かい眼差しで見守っている。その沈黙が、エリザには心地よかった。
絵が完成すると、そこには小川と、一羽の小鳥が描かれていた。3年ぶりに描いた、希望の絵。
アランは微笑み、親指を立てた。エリザも小さく微笑み返した。
言葉はいらなかった。二人の間に、確かな絆が生まれていた。
その日から、二人は毎週森で会うようになった。最初は警戒心を解かなかったエリザも、アランの真摯な姿勢に少しずつ心を開いていった。