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第46話 母の死

その夜、家に脅迫状が届いた。


新聞の切り抜きで作られた文字が、白い紙に不気味に並んでいた。


「次は娘だ」


母の顔が真っ青になった。今まで見たことのない恐怖の表情が、母の顔を歪めた。手紙を持つ手が激しく震え、紙がカサカサと音を立てる。


「エリザ…」


母は娘を抱きしめた。その腕は、守ろうとする必死さで震えていた。


「大丈夫よ、母さん。私、強いから」


エリザは母を慰めようとしたが、自分の声も震えていることに気づいた。


三日後の朝。


霧が深い早朝、急なノックが響いた。エリザが眠い目をこすりながら階段を降りると、玄関に二人の警官が立っていた。雨に濡れた制服が、廊下の明かりで鈍く光っている。


風が耳打ちしてくる。聞き取れない言葉で、警告を囁き続ける——もう遅い、と。


「コート家の方ですか」


「はい…」


父が寝間着姿で現れた。


「奥様のことで…」


警官の声が、まるで遠くから聞こえるように感じられた。


「事故死です。崖から転落したようです」


父は膝から崩れ落ちた。エリザは立ち尽くし、現実を理解することを拒否した。


「嘘だ」


小さな声が漏れる。


「母さんは、あの道を知ってた。事故なんかじゃない」


警官は無表情に書類を閉じた。


「証拠がありません。お気の毒ですが」


「調べてください!母さんは殺されたんです!」


エリザの叫びは、朝霧に吸い込まれて消えた。


雨の葬儀。


黒い傘が墓地に並ぶ。参列者は驚くほど少なかった。環境運動の仲間たちも、恐怖に怯えて来なかった。工場の関係者から圧力がかかったという噂が、ひそひそと囁かれていた。


エリザは墓石の前に立ち、母の形見の指輪を握りしめた。銀の冷たさが、現実を残酷に突きつける。雨が頬を伝い、涙と混じり合って地面に落ちた。


「母さん、ごめんなさい。私、弱くて…守れなかった」


声は嗚咽に変わり、膝が震えた。


「でも、諦めない。母さんの夢、私が継ぐから」


しかし14歳の少女の心に、もう一つの感情が芽生えていた。それは、愛と表裏一体の感情——憎悪。


「人間が母さんを殺した。信じていた人たちも、誰も助けてくれなかった」


握りしめた拳から、血が滲んだ。


純粋な夢は、その日、黒く染まり始めた。母を奪った世界への憎しみと、それでも母の夢を継ごうとする愛情が、彼女の心の中で激しくせめぎ合い始めた。


父は母の死後、抜け殻のようになった。仕事も手につかず、酒に溺れるようになる。エリザは14歳にして、壊れかけた家庭を一人で支えなければならなくなった。


学校では「環境テロリストの娘」と陰口を叩かれ、友人たちも一人また一人と離れていった。孤独が彼女を包み込み、心を凍らせていく。


それでも、母の遺した研究ノートだけは大切に保管した。そこには、自然を浄化する夢が、母の優しい筆跡で綴られていた。


「いつか必ず、母さん。きれいな森を取り戻すから」


しかし、その誓いは復讐と紙一重だった。愛が深ければ深いほど、憎しみもまた深くなる。純粋だった少女の心は、少しずつ、しかし確実に歪んでいった。


ある夜、エリザは母のスケッチブックを開いた。最後のページには、未完成のチューリップの絵があった。赤い花びらが半分だけ描かれ、残りは白紙のまま。


「母さん、私が完成させるから」


震える手で色鉛筆を取り、絵を描き足していく。しかし、描けば描くほど、花は歪んでいった。赤が黒に変わり、花びらが棘に変わり、美しかったものが醜く変貌していく。


「違う…こんなはずじゃない」


涙で視界が滲む。しかし、手は止まらない。まるで、心の闇が絵に投影されているかのように。


最後に描き上がったのは、もはやチューリップではなかった。それは、憎悪の花だった。


「母さん、ごめんなさい」


スケッチブックを閉じ、暗闇の中で一人泣いた。


外では、工場の煙突が相変わらず黒煙を吐き出していた。その煙は、まるで巨大な怪物が世界を飲み込もうとしているかのように見えた。


「私たちは何を閉じ込めているんだ?」


エリザは窓の外を見つめながら呟いた。答えは明白だった——希望を、愛を、そして純粋だった自分自身を。

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