第44話 家族の絆
セクター7制御室、2038年7月26日、午前11時30分。
エリザが目を開けた。40年前の記憶が、まるで昨日のことのように鮮明だった。朝の光、母の温もり、小川の冷たさ、チューリップの花びら——すべてが、今も肌に感じられるほどリアルに蘇る。
しかし、現実は残酷だった。制御室の赤い警告灯が、あの日の花びらとは正反対の意味で明滅している。かつて生命の象徴だった赤が、今は破壊と死の色となって彼女を取り囲んでいた。機械の唸りが、小川のせせらぎの記憶をかき消していく。
「母さん…」
呟いた声は、もう少女のものではない。40年の歳月が刻んだ傷跡が、声帯にまで及んでいた。冷たく、硬く、絶望に満ちた声。
モニターに映るティム一家。彼らもまた、家族の絆で結ばれている。ジュディがウーちゃんを抱きしめる姿が、かつての自分と重なって見えた。あの頃の自分も、母の手を離さなかった。
ここで、沈黙の独白が始まる。
エリザは誰もいない制御室で、一人記憶と対話していた。
幼い自分の声が聞こえる——「母さん!小川に行こう!」 母の声が応える——「自然は逃げないわ」
しかし、自然は逃げた。いや、人間が追い払った。
「家族…か」
皮肉な笑みが浮かぶ。しかしその奥に、消えない痛みが宿っていた。左頬の傷跡がうずき、過去の痛みが物理的な感覚として蘇る。
あの純粋な少女は、どこで道を踏み外したのだろう。母の教えを守り、自然を愛し、生命を大切にしていたはずの自分が、なぜ今、すべてを灰に変えようとしているのか。
答えは分かっている。純粋であればあるほど、裏切られた時の痛みは深い。愛が深ければ深いほど、失った時の絶望は計り知れない。
「母さん、私は…間違ってしまった」
小さく呟いたその言葉は、機械音にかき消されて誰の耳にも届かなかった。
そして、彼女は気づかなかった。制御室の隅で、監視カメラがすべてを記録していることに。そのカメラの向こうで、ハーヴェイが静かに見守っていることに。
「この光、ほんとうに、しゃべってたのかも」
ヴァージニアの声が、どこからか聞こえてきたような気がした。
エリザの手が、震えながらコンソールに触れた。画面に映るのは、40年前の小川の映像。そして、現在の汚染された同じ場所の比較画像。
母が守ろうとしたものを、自分が破壊しようとしている。その皮肉に、エリザの心は引き裂かれそうだった。
しかし、もう後戻りはできない。
「でも、チューリップは咲く」
小さく呟いた。それが希望なのか、諦めなのか、自分でも分からなかった。
制御室の赤い光の中で、8歳の少女の影が一瞬だけ見えたような気がした。