第43話 純粋な夢
愛するがゆえに憎み、 憎むがゆえに愛した女の物語。
ドーセット、1998年夏 / セクター7制御室、2038年7月26日
朝の光が古びた木造の家の窓から差し込み、部屋全体を黄金色に染めていた。カーテンの隙間から漏れる光の筋に、埃がきらきらと舞っている。外では小鳥たちが朝の挨拶を交わし、その声は澄んだ空気を通して室内まで届いていた。雨上がりの森の香り——土と緑と水が混ざり合った生命の匂いが、開け放たれた窓から流れ込んでくる。森が呼吸するように、朝露を含んだ風が優しく頬を撫でた。
壁に掛けられた母の水彩画が、朝日を受けて息づいているように見えた。赤と黄色のチューリップが風に揺れ、今にも花びらがこぼれ落ちそうな錯覚を覚える。母マーガレット・コートの繊細な筆致は、自然への深い愛情を物語っていた。
「母さん!小川に行こう!」
8歳のエリザが階段を駆け下りる音が、古い木造家屋に響き渡った。裸足の小さな足が床板を踏む度に、心地よい軋みが生まれる。白いパジャマの裾が翻り、寝癖のついた金髪が朝日を受けてキラキラと光った。その瞳は澄んだ青——まだ何の曇りもない、純粋な好奇心に満ちた青だった。
台所から、小麦粉と卵の香ばしい匂いが漂ってきた。母マーガレットが朝食のパンケーキを焼いている。エプロンに付いた小麦粉を払いながら、優しく微笑んで娘を迎えた。
「朝ごはんを食べてからね」
母の声は、朝の空気のように穏やかで温かかった。
「もう、早く行きたいのに!」
エリザは頬を膨らませ、足をばたばたさせた。その仕草があまりに可愛らしくて、母は笑いながら彼女の頭を撫でた。手のひらから伝わる温もりが、エリザの心を満たしていく。
「自然は逃げないわ。でも、朝露に濡れた森は特別よ」
母の言葉には、自然科学者としての知識と、芸術家としての感性が宿っていた。
朝食を終えると、二人は手をつないで森へと向かった。小道は昨夜の雨でしっとりと湿り、足元の落ち葉がさくさくと心地よい音を立てる。時折、樹々の間から差し込む光が、まるでスポットライトのように道を照らした。木々が首を傾げるように道の側に傾いていた。まるで通り過ぎる母娘を数えているかのように。
「母さん、見て!青い蝶々!」
エリザが興奮して指差す先で、モルフォ蝶が優雅に舞っていた。その羽は、空の青を凝縮したかのような深い色彩を放っている。
「きれいね。でも触っちゃダメよ。見守ることも愛情なの」
母の教えは、常に自然への敬意に満ちていた。エリザは真剣な表情で頷き、蝶の動きを目で追った。
小川に着くと、水音が二人を歓迎した。澄み切った水は底の小石まで透けて見え、朝の光を受けてきらめいている。エリザは真っ先に水辺に駆け寄り、靴下も脱がずに水に足を浸した。
「冷たい!でも気持ちいい!」
澄んだ水に手を浸し、指の間を流れる感触を楽しむ。水の冷たさが、生きている実感を与えてくれた。小魚たちが好奇心を持って近づいてきて、エリザの指をつつく。
「くすぐったい!」
彼女の笑い声が、小川のせせらぎと調和して森に響いた。
母がバッグからスケッチブックを取り出す。使い込まれた表紙には、無数の絵の具の跡がついていた。
「エリザも描いてみる?」
「うん!」
エリザは母から鉛筆を受け取り、真剣な表情で魚を描き始めた。線は拙く、魚というより楕円に尾びれがついただけの形。でも、その一本一本の線に、生き物への愛情が滲み出ていた。
「上手ね。心で見たものを描いているわ」
母の褒め言葉に、エリザの顔が輝いた。
「私、大きくなったら母さんみたいに自然を守る人になる!」
突然立ち上がり、両手を大きく広げて宣言した。水しぶきが太陽の光を受けて、小さな虹を作り出す。
母は娘を優しく抱きしめた。その腕の中で、エリザは世界で一番安全な場所にいると感じた。
「きっとなれるわ。あなたなら」
その瞬間、風が吹いた。どこからともなくチューリップの花びらが舞い込んできて、二人の周りを踊るように旋回した。赤い花びらが朝の光に透けて、まるで炎の精霊のように見えた。
「わあ、きれい!」
エリザが花びらを追いかけて走り回る。母はその姿を見守りながら、静かに微笑んでいた。この瞬間が永遠に続けばいいのに、と願いながら。