第42話 世界の終わり
大型モニターを起動させ、エリザは2027年のロンドンの映像をもう一度再生させた。ナノマシンがアランとサラを侵食する瞬間。二人の悲痛な叫び。そして、灰となって消えていく最後の瞬間。
涙が頬を伝い、傷跡に触れて痛みを誘発する。物理的な痛みが、心の痛みを少しでも和らげてくれることを期待するかのように。
「あの日、人間が母さんの実験を汚し、私から家族を奪った。そして今、ティム一家がその罪を私の前に突きつけてきた」
涙を乱暴に拭い、白衣の袖に黒いシミが広がる。
「もう守らない。セクター7ごと灰にするのが私の正義だ」
しかし、「正義」という言葉を口にした瞬間、心の奥底で何かが軋んだ。サラなら、こんな選択を望むだろうか?アランなら、こんな復讐を許すだろうか?
その疑問を振り払うように、コンソールのスイッチを次々と操作する。
「全システム、ナノマシン解放モードへ」
警告音が鳴り響き、画面に赤い文字が点滅する。
「危険:ナノマシン制御解除」
若い技術者が恐怖に声を震わせながら懇願した。
「エリザ様、やめてください!」
「黙れ」
氷のような声で命じたが、その手は震えていた。
モニターに映るティム一家の姿を再び観察する。ジュディがウーちゃんを抱きしめる姿が、幼いサラと重なって見えた。
わたし、ジュディ。それとも、べつの誰か? 光が、名前を呼んでる気がする。 でも、その名前、わたしのじゃない。 サラちゃんの名前?
エリザには聞こえないはずの、ジュディの内なる声。しかし、なぜか心に響いてくる。
「ティム、メアリー…お前らがレイナの希望を継ぐなら、私がその全てを潰す」
しかし、その宣言には以前のような確信がなかった。白いコートの裾が動きに合わせて揺れ、まるで彼女の揺れる心を表しているかのようだった。
制御室の外では鉄壁が崩れる音が遠くから響いてきた。世界が終わりに向かって加速している。
最後のスイッチに手をかけた時、ふと壁に掛けられた家族写真に目が留まった。幸せだった頃の三人。サラが描いたチューリップの絵が、額縁の隅に挟まれている。
一瞬、手が止まった。
「この森、入った時より狭くなってない?」
アールの言葉が、なぜか頭に浮かんだ。そう、世界は確実に狭くなっている。憎しみによって、悲しみによって、そして——
しかし、すぐに目を逸らし、スイッチを押した。低い機械音と共に、ナノマシンの完全解放が始まった。
「プロトコル解除完了」
機械音声が、運命の瞬間を告げた。
制御室の温度が急上昇し、警告灯が狂ったように点滅を続けた。すべてのモニターに「システム暴走」の文字が踊る。
エリザの表情に一瞬の迷いが浮かんだ。アラン、サラ、そして母親との平和だった日々。庭でのピクニック、サラの誕生日、家族で見た夕焼け——
しかし、それらの記憶はすぐに苦痛に変わり、そして憎悪に転化した。幸福な記憶ほど、失った時の痛みは大きい。
「すべて…灰になればいい」
呟きは、もはや他者への呪いではなく、自分自身への宣告のようだった。
終わりの始まりは、ここから加速していく。しかし、彼女の心の奥底では、小さな光がまだ完全には消えていなかった。それは、ティム一家——特にヴァージニアとジュディの姿によって、わずかに揺らぎ始めていた。
その光が、やがて奇跡を起こすことを、今の彼女はまだ知らない。
「私たちは何を閉じ込めているんだ?」
セクター7の壁の落書きが、エリザの心にも刻まれていた。答えは明白だった——希望を、愛を、そして自分自身を。
しかし、もう遅い。
制御室に赤い光が満ち、世界の終わりが始まった。