第41話 エリザの記憶と罪の告白
時間: 2038年7月26日、午前3時
場所: セクター7制御室
制御室は異様な緊張に包まれていた。赤い警告灯が不規則に明滅し、まるで断末魔の心臓の鼓動のように空間を赤く染めては闇に沈める。天井から垂れ下がる配線が火花を散らし、その度に影が壁に奇怪な形を描いた。エリザの涙は、錆びた鉄の音を立てて落ちた。
機械群から発せられる低い振動音は、地の底から響く呻き声のようだった。空気中の微粒子が赤い光を受けて舞い踊り、まるで血の雪が降っているかのような幻想的で不吉な光景を作り出していた。消毒液と焦げた配線の匂いが混ざり合い、鼻腔を刺激する。霧の匂いが、紫色をしていた。
エリザは灰色の制服に白いコートを羽織り、中央コンソールの前に立っていた。かつては希望に満ちていたその白衣も、今では絶望の象徴と化している。短い黒髪は汗で額に張り付き、濡れた毛先が頬を伝って揺れていた。左頬の傷跡は赤く腫れ上がり、過去の苦痛が今も彼女を苛んでいることを物語っていた。
冷徹な青い瞳がモニターを凝視する。そこには様々なデータが流れていたが、彼女が見ているのは数字ではなく、失われた過去の亡霊だった。
「侵食率60%を超えました!」
若い技術者の震える声が、機械音の中で響いた。
「東壁、完全に崩壊!」
別の技術者が絶望的な報告を上げる。
エリザはコンソールのパネルを握りしめた。爪が金属に食い込み、指関節が白くなるほどの力だった。
「ティム一家…お前らがアランとサラを奪った過去を私の前に突きつけた」
独白は憎悪に満ちていたが、その奥には消えない痛みが潜んでいた。コンソールのスイッチを乱暴に叩く。機械が悲鳴を上げるような音を立てた。
「もう守る必要はない。セクター7ごと終わらせる」
モニター越しにシェルターの様子を眺める。怪物との戦いに勝利したティム一家の姿が映し出されていた。家族が互いを抱きしめ、生き延びたことを喜び合う姿。
「レイナの意志だと?笑わせるな」
しかし、その嘲笑は震えていた。なぜなら、彼女もかつては家族の温もりを知っていたから。
コンソールを操作し、新たなデータを呼び出す。画面に「2025年7月19日、ドーセットの森」と表示され、映像が再生される。小川の水面に漂う赤い粒子と、それに触れるティム一家の姿。無邪気に水遊びをする子供たち、それを見守る両親。
「あの小川…母さんの実験が全てを狂わせた場所だ」
エリザの声が、一瞬だけ少女のような響きを帯びた。母への愛と恨みが複雑に絡み合い、心の奥底で渦巻いていた。
【エリザの記憶:1998年夏】 8歳のエリザが母と小川で遊んでいた。澄んだ水、青い蝶、チューリップの花びら。 「母さん!小川に行こう!」 母の温かい手、優しい笑顔。 「エリザ、自然を大切にね」 その記憶が、赤い光に染まっていく。
【現在の制御室】 データを次々と呼び出す。彼女の指は、まるで過去を手繰り寄せるかのように動いた。
「2025年7月20日、浄化実験失敗:ナノマシン残留、時空異常発生」
この一行が、すべての始まりだった。
「2027年5月、ウェイド・インダストリーズ研究施設:ナノマシン暴走、死者多数」
そして、これが彼女の人生を永遠に変えた瞬間。
手が一瞬止まり、指先がかすかに震えた。モニターの光が、頬を伝う一筋の涙を照らし出す。涙は、錆びた鉄の音を立てて落ちた。
「母さんの浄化実験が失敗したあの日、残されたナノマシンが2027年に私の全てを奪った」
【エリザの記憶:2027年7月26日】 研究施設の制御室。最終実験の日。 「パパ!」 サラの叫び声。 アランとサラの体が、少しずつ金属に変わり始める。 「ママ、大好き…」 そして、二人は灰となって消えた。
エリザは目を開けた。現在に引き戻された彼女の瞳には、涙の跡が残っていた。モニターに映るティム一家を見つめる。彼らもまた、家族の絆で結ばれている。かつての自分たちのように。
「そして今、お前らがそのナノマシンに触れてここに現れた。お前らは母さんの実験の残骸が引き起こした罪の証だ」
アランから贈られた銀の指輪を強く握り締めた。金属の冷たさが、失われた温もりを思い出させる。
「ティム一家、お前らが私の家族を奪った過去を呼び戻した」
しかし、その言葉には論理の破綻があった。彼女も心の奥底では分かっている——ティム一家に罪はないことを。だが、行き場のない怒りと悲しみは、誰かを責めずにはいられなかった。
ここで、沈黙の対話が始まる。
エリザは、モニターに映るヴァージニアを見つめた。スケッチブックを抱える少女の姿に、サラの面影が重なる。
ヴァージニアもまた、画面の向こうでエリザを見つめているかのようだった。二人の視線が、時空を超えて交錯する。
言葉はない。しかし、そこには深い理解が生まれていた。失った者と、失うかもしれない者。過去と未来が、この瞬間に出会っている。
エリザの手が、震えながらサラのスケッチブックに触れた。最後のページには、家族三人の幸せな姿。
ヴァージニアの手も、同じようにスケッチブックのページをめくっていた。そこに描かれたチューリップ。
二人の少女——一人は過去に、一人は現在に——が、芸術を通じて繋がっていた。
「私が…殺した」
エリザの呟きは、もはや他者への呪いではなく、自分自身への宣告だった。
「人間が悪い。ウェイドが悪い。世界が悪い」
立ち上がるエリザの目に、もう涙はなかった。代わりに、底知れぬ闇が宿っていた。
「みんな、灰になればいい」
しかし、その言葉を口にした瞬間、制御室の片隅に置かれたサラの写真が目に入った。笑顔のサラが、母親を見上げている。
一瞬、手が止まった。
「サラ…」
小さく呟く。その声は、8歳の少女のように震えていた。