第4話 残響する小川
時間: 2025年6月20日、午前10時30分
場所: ドーセットの森の中、バンガローおよび近くの小川
シルバーのミニバンが霧の帳を抜け、ドーセットの森の奥深くにたどり着いた。タイヤが砂利道を噛み、車が止まると空気中に細かな塵が舞い上がった。塵が、記憶の粒子のように光の中で踊る。
目の前に現れたバンガローは古びていた。屋根のトタンは錆びて赤茶色に変色し、玄関前のポーチには木製の椅子が傾いて置かれていた。椅子が、誰かを待ち続けて疲れ果てたかのように。
メアリーが助手席から降り、深呼吸した。
「いい場所だね」
荷物を降ろしながら、周囲を見渡し、眉をひそめた。森が息を潜めている。鳥の声も、虫の音も、何もない。
「そういえば、ここは昔、ウェイド・インダストリーズの公害で問題になった場所だったわね。10年くらい前、環境汚染について授業で取り上げたときの事例だわ」
「湿気はあるけど、休暇にはぴったり。浄化処理も終わったみたいだし…」
ティムも車から出て、伸びをした。背骨が鳴る音が、静寂の中で異様に大きく響く。
「そうだな、リラックスするにはいい場所かもしれない」
周囲を見回したが、霧が木々の間を漂う様子に視線が留まった。霧が、まるで生き物のように木の幹を這い上がっている。
「この霧、さっきより薄くなったかしら」
メアリーが呟いた。
「今はこれが日常ね」
自分に言い聞かせるように。
アールが車から飛び出し、バンガローに向かって走った。
「やっと着いた!」
声は森の静寂を破り、木々の間に反響した。反響が、違う声のように戻ってくる。タブレットを片手に持ち、画面には地図アプリが表示されていた。
「水質調べたいな、タブレットでデータ取れるかな?」
ヴァージニアがドアを開け、紫色のバックパックを肩にかけて車から降りた。
「森、描けそう」
小さく呟いた。周囲の空気を吸い込み、目を細めた。空気が、絵の具のように濃い。
「木がいっぱいで嬉しい」
笑顔を見せたが、霧の奥に目をやると一瞬表情が曇った。木々の間に、赤い何かがちらつく。
彼女はバックパックからスケッチブックを取り出し、手早く線を引き始めた。松の木の形、バンガローの佇まい。鉛筆を止め、不思議そうな表情を浮かべた。視界の端で見える赤い光。また描き始めたが、今度は赤い影が紙の上に現れた。影が、花の形を取り始める。
ジュディは最後に車から降り、ウーちゃんを高く掲げた。
「ウーちゃん、バンガロー好き?」
ぬいぐるみの耳が、見えない風に揺れる。
家族がバンガローに入ると、室内は薄暗いが穏やかな雰囲気に包まれていた。天井の梁には埃が積もり、床板が足音に合わせて軋んだ。暖炉の石枠が静かに佇み、部屋の中央にはオーク材のテーブルがあった。テーブルの上に、誰かが置き忘れたかのように、枯れた花が一輪。
メアリーがクーラーボックスを開け、中から食べ物を取り出した。
「チキンナゲットもあるよ」
笑った。サンドイッチをアルミホイルから取り出し、水筒の蓋を開けるとレモンの爽やかな香りが広がった。でも、どこか金属の後味が残る。
「ティム、暖炉お願い」
ティムが暖炉に近づき、腰をかがめた。
「火を起こそう」
薪を手に取った。薪は湿っていて、表面に苔が薄く付いていた。マッチを擦るとオレンジの炎が揺れ、木の焦げる匂いが室内に漂った。炎が、何かを思い出そうとしているかのように揺らめく。
暖炉の火起こしを、メアリーが黙って手伝う。二人の手が、薪を渡す瞬間に触れ合う。言葉はなくても、不安を共有している。
アールが地図アプリを開き、タブレットの画面を家族に見せた。
「地図に小川あったよ!ここから歩いて5分くらいだって」
声には興奮が混じった。
メアリーはアールの頷いた。
「腹ごしらえしたら行ってみようか」
家族が暖炉のそばで軽く食べる。チキンナゲットの油っぽい香りが漂い、ジュディが両手を叩いた。
「美味しい!」
でも、噛むたびに、かすかに金属の味がする。
バンガローから数分歩くと、森の奥に小川が現れた。幅2メートルほどの流れで、水は意外なほど澄んでいた。岸辺の葦が風に揺れ、松の木が水面に長い影を落としていた。影が、黒い腕のように水を掴もうとしている。
木製の看板が立っており、「2025年6月10日浄化済み - ウェイド・インダストリーズ」と刻まれていた。文字は新しく、塗料の匂いがかすかに残っていた。でも、看板の裏側は、何かに焼かれたように黒く変色している。
メアリーはその看板を見て眉をひそめた。
「最近浄化したのね」
「ニュースで不完全だって言ってたけど」
ティムが看板の文字を読み、眉をひそめた。
「そうだな、でも妙だ」
Tシャツの袖をまくって水に手を浸した。水面に赤い結晶が浮かび、指に触れると微かな熱を感じた。機械油のような匂いが微かに鼻をつく。水が、生きているような温度を持っている。
「浄化済みなのに…金属の気配がする」
メアリーはティムの表情の変化に気づき、声を低くして言った。
「ナノマシンの残りかしら。ティム、子供たちを離して」
でも、もう遅い。
アールは好奇心に負け、小川に駆け寄った。
「冷たい!」
手を水に浸した。水が、手を掴むような感触。
「水質調べたいな」
タブレットのカメラで水面を撮影し始めた。水面に赤い影が浮かび、かすかに振動するのに気づく。振動が、モールス信号のようなパターンを持っている。