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第39話 迫る咆哮

時間: 2038年7月26日、午後2時

場所: セクター7地下シェルター~東壁付近


地下シェルターに重苦しい空気が沈殿していた。血と埃の臭気が鼻腔を刺激し、コンクリート壁から染み出す冷気と湿気が肌にまとわりつく。どこかで水滴が一定間隔で落ちる音が、時を刻むメトロノームのように響いていた——レイナの鼓動が止まった今も、時間だけは無慈悲に流れ続ける。


レイナの遺体がシェルターの片隅に横たわっていた。血と灰にまみれた白いコートは、もはやかつての威厳を失い、ただの布切れと化している。しかし、左腕のブレスレットだけが、不思議な光を放ち続けていた——まるで彼女の意志がまだそこに宿っているかのように。


鉄扉の外からは断続的に怪物の咆哮が響き、そのたびに壁が震える。天井から細かな塵が舞い降り、住民たちの髪や肩に積もっていく。霧の匂いが、紫色をしていた——死の色。


ティムはレイナの遺体から離れ、ゆっくりと立ち上がった。その動作には、一人の戦士への敬意と、家族を守る父親としての決意が込められていた。


「レイナの意志を無駄にしない。俺たちがここを守る」


声は掠れていたが、その響きには揺るぎない強さがあった。


メアリーは子供たちを腕に抱き寄せながら、夫の言葉に静かに頷いた。汗で曇った眼鏡を外して拭く仕草の中に、教師として培った冷静さと、母親としての覚悟が同居していた。


「みんな、力を合わせて」


その言葉は、レイナが最後に言った「希望を捨てるな」と響き合っていた。


アールは小さな拳を握りしめ、茶色の瞳に涙を浮かべながらも、勇気を振り絞った。


「レイナさんのために頑張るよ」


その声には、少年らしい純粋さと、この過酷な世界で芽生えた戦士の萌芽が感じられた。


ヴァージニアはスケッチブックを胸に抱きしめ、震える声で呟いた。


「私も諦めないよ」


金髪が顔にかかり、緑の瞳には恐怖と決意が複雑に絡み合っていた。手が無意識にページをめくり、チューリップの絵に触れた。


ジュディはぬいぐるみを高く掲げ、幼い声に不思議な力を込めた。


「ウーちゃん、みんなを守るよ!」


わたし、ジュディ。それとも、べつの誰か? 光が、名前を呼んでる気がする。 でも、その名前、わたしのじゃない。 レイナさんの名前かな?


住民たちが息を呑む中、絶望に満ちていた表情に、わずかな希望の光が差し始めた。レイナの犠牲は無駄ではなかった——彼女の遺した希望の種が、人々の心に根を下ろし始めていた。


突然、鉄扉が激しく揺れた。金属が軋む音と共に、赤い結晶質の触手が隙間から侵入してきた。それは生き物のように蠢き、床に滴る粘液がコンクリートを溶かしていく。焦げた金属と腐敗した有機物が混ざったような悪臭が、シェルター内に充満し始めた。怪物の息が、紫色をしていた。


狼型怪物が残りの扉をこじ開け、鋭い金属の牙を剥き出しにして低く唸った。その赤い眼は知性を感じさせ、単なる獣ではなく、計算された悪意を宿しているように見えた。


続いて、小型怪物群が数十匹、まるで黒い津波のように押し寄せてきた。それぞれが昆虫と機械を融合させたような異形で、カチカチという金属音を立てながら床を這い回る。その音が、ガラスのように砕けて降ってきた。


「危ない!」


誰かが叫び、住民たちが一斉に後退した。パニックの中、足音と叫び声が混ざり合い、恐怖が伝染病のように広がっていく。


「トミー、目を閉じて!」


若い母親が5歳の息子を抱きしめ、震える手で毛布に包み込んだ。その必死な姿に、メアリーは自分の子供たちを守る決意を新たにした——無言の連帯。


「負けるものか!」


作業着を着た中年女性が錆びたレンチを握りしめ、前に出た。恐怖に震えながらも、その目には諦めない光が宿っていた。


しかし、小型怪物の一匹が彼女の足に絡みつき、鋭い爪で作業着を引き裂いた。


「下がれ!」


ティムが鉄パイプを振りかざして狼型に突進した。父親としての本能が、恐怖を押しのけて体を動かす。パイプが怪物の頭部に命中し、鈍い金属音が響いた。しかし、怪物はわずかに動きを止めただけで、すぐに体勢を立て直した。


メアリーは落ちていた鉄棒を手に取り、教師としての観察力で怪物の動きを分析した。


「子供たちを守る!」


母親の本能と冷静な判断力を併せ持ち、狼型の側面に回り込んだ。全力で鉄棒を振り下ろすと、脇腹の赤い結晶部分に亀裂が走った。


「ナノマシンの結晶部分が弱点よ!」


その発見に、住民たちの間に戦術的な希望が芽生えた。


「僕もやるよ!」


アールが缶詰を投げつけた。科学への好奇心が、恐怖の中でも冷静な観察を可能にしていた。缶が狼型の眼窩に命中し、一瞬の硬直を誘発した。


ヴァージニアも震えながら別の缶を投げた。その動作は画家の繊細さと、生き残るための必死さが混ざり合っていた。


「レイナさんのために!」


投げた瞬間、彼女の目にはレイナの最期の笑顔が浮かんでいた——光の中での微笑み。


「ウーちゃん、頑張れ!」


ジュディがぬいぐるみを小型怪物に向けて投げつけた。その無邪気な行動が、不思議と住民たちの勇気を奮い立たせた。


「いいぞ、みんな!」


ティムがパイプを再び振り上げ、家族の連携に力を得て、狼型の頭部に渾身の一撃を加えた。金属が金属を打つ音が響き、怪物の装甲に深い亀裂が広がった。


狼型の動きがぎこちなくなり、赤い眼の光が不規則に点滅し始めた。内部のナノマシンが制御を失いつつある証だった。


住民たちの間にも、恐怖を超えた連帯感が生まれ始めた。


「私もやる!」


トミーの母親が椅子を手に取り、息子を守る母の強さで狼型に立ち向かった。


作業着の女性もレンチを投げつけ、諦めない意志を行動で示した。


「負けるか!」


次第に連携が取れ始め、狼型は住民たちの猛攻に押されて後退し始めた。しかし、その勝利の予感は、外から響く新たな咆哮によって打ち砕かれた。


地面が激しく揺れ、まるで地震のような振動がシェルター全体を襲った。コンクリートの破片が天井から落下し、埃が舞い上がる。


巨大な熊型ボスが、鉄扉の残骸を文字通り押しつぶして侵入してきた。全長12メートルを超える巨体は、シェルターの天井すれすれまで届き、全身に鎧のような金属質の鱗を纏っていた。背中の巨大な赤い結晶は不規則に脈動し、まるで第二の心臓のように見えた。


怪物の体重でコンクリート床が砕け、破片が四方に飛散した。その衝撃で何人かが転倒し、悲鳴が上がる。


さらに恐ろしいのは、怪物の身体全体から発せられる熱気だった。まるで溶鉱炉のような熱が放射され、室温が一気に上昇する。住民たちの額に汗が噴き出し、呼吸が苦しくなった。赤い光が、鉄の味がした。


「何だあれ!」


誰かが絶望的な叫びを上げた。


「ママ!」


トミーが母親に縋りつき、小さな体を震わせた。


その時、沈黙の会話が始まった。


ティムとメアリーは言葉を交わさずに見つめ合った。メアリーの目が子供たちに向けられ、ティムは小さく頷く。レイナの遺体に目を向け、そして再び妻を見つめる。


全ては無言のうちに決まった。

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