第36話 終わりのはじまり
東壁の監視塔では、夜勤明けの監視員がモニターをのぞき込んでいた。画面には赤外線センサーが捉えた無数の熱源が点滅していた。
「何だこれ」
数値が急上昇し、ナノマシン活動指数が警戒レベルを突破。赤い警告灯が制御パネルで乱舞し始めた。
「異常だ。こんな数値、見たことねえ」
無線機を取り上げる。
「こちら東塔、ナノマシン反応が異常値だ!確認を急げ!」
窓に灰が叩きつけられ、床に微かな振動が走る。その振動には、生き物のような脈動があった。
「来るぞ…」
鉄壁の表面を何かが引っ掻く音が響き渡る。金属が金属を擦る音——いや、それは爪だった。
サーチライトが灰の渦を切り裂き、その光の中に姿を現したのは——
体長2メートルの狼型ナノマシン怪物。青白く光る金属の爪と牙、背中に脈打つ赤い結晶。その赤い光が、鉄の味がした。
別の光源が照らし出したのは、3メートル級の熊型怪物。装甲のような外皮、眼窩から漏れる赤い光。怪物の咆哮が、肌に冷たく突き刺さる。
地表には異形の小型怪物が無数に這い、鉄壁の基部を執拗に削っていた。
「ナノマシンの大群だ!鉄壁に接近してる!」
監視員が警報スイッチを叩くと、耳を突き刺すような警報音がセクター7全体に響き渡った。
居住区では窓から漏れる光が揺れ、叫び声が上がる。
「何だ!?」「怪物か!?」
配給の列で見せた住民たちの冷たさは消え、恐怖に支配される姿に変わった。人間の弱さと醜さが露呈する。
技術区では自動砲台が起動し、砲弾が灰の嵐の中で炸裂した。発進したドローン群は、赤い結晶に覆われた鳥型怪物に絡め取られ、火花を散らして墜落していく。
狼型が鉄壁に爪を突き立てて鋼板に深い傷を刻む。熊型は体当たりを繰り返し、基部のコンクリートに亀裂が広がった。
「東壁が危ねえ!ナノマシンが鉄壁を侵食してる!」
「砲台フル稼働中だ!でも数が多すぎる!」
サーチライトが灰の嵐を照らすたび、怪物の群れが増殖していくのが見えた。
ティムは居住区の窓から外を覗く。
「ナノマシンの大群だ。昨夜のシャワーで綺麗になったばかりなのに」
昨夜の一時的な浄化と、今の汚染の対比。希望の後に来る絶望。
メアリーが寝袋から跳ね起き、震える声を上げた。
「ティム、何!?」
「パパ、怖いよ…何!?」
アールが泣き叫び、タブレットが床に落ちて画面が割れる音がテント内に響いた。
「嫌だ…怪物がいっぱい」
ヴァージニアが震えながらスケッチブックを取り落とす。ページが開き、チューリップの絵が一瞬見えた。
「ウーちゃん、助けて!」
ジュディがぬいぐるみを握りしめる。
わたしはここにいる。でも、ここってどこ? ウーちゃんは知ってる。でもウーちゃんは教えてくれない。 赤い光が踊ってる。きれい。こわい。きれい。 ママの声が遠い。泡みたいに、ぷくぷく消えていく。 わたし、ジュディ。それとも、べつの誰か? 光が、名前を呼んでる気がする。 でも、その名前、わたしのじゃない。
住民たちは通路を走り回り、パニックに陥っていた。
「ナノマシンが来たぞ!」「鉄壁が持たねえ!」
「東壁の侵食率、30%超えた!」
ティムがテント入口を開き、外の状況を確認しようとする。
「何が起きてんだ!」
武装した護衛が現れる。
「ナノマシンの大群だ!地下シェルターへ急げ!」
護衛に導かれ、ティムとメアリーは子供たちを抱えて階段を下りていく。錆びた手すりの冷たさが手に伝わり、足音がコンクリートに反響した。
「パパ、怖い!」
「ママ、どこ行くの?」
「ウーちゃん!」
ジュディがぬいぐるみを落とし、絶望的な叫びを上げた。メアリーが素早く拾い上げる。
「ほら、ウーちゃんだよ」
地下シェルターにたどり着くと、重い鉄扉が閉まる音が響いた。
砲撃と怪物の咆哮が遠くに聞こえ、住民たちが恐怖に震えながら身を寄せ合っていた。裸電球が揺れ、オレンジ色の光が深い影を落とす。
シェルターに逃げ込んだ住民たち。我先に良い場所を取ろうとする者、他人を押しのける者。極限状況での人間のエゴが剥き出しになる。
ティムが覗き窓から外を見ようとするが、灰と赤い光しか見えない。
「何も分からねえ」
メアリーは子供たちを抱きしめながら囁いた。
「大丈夫、私たちが一緒よ」
「怪物まだいるの?」
アールの涙ぐんだ声。
「聞こえるよ」
ヴァージニアの繊細な感覚は、外の危険をより鋭く捉えていた。描きたい衝動に駆られたが、何を描けばいいのか分からなかった。
「ウーちゃん、怖いって」
ジュディの小さな体が震える。
シェルター内では住民たちの恐怖が溢れ出し、汗と埃の混じった空気が重く、息苦しかった。
「鉄壁が破られたら終わりだ!」「管理官は何やってんだ!」
外の咆哮が強まる中、ティム一家は互いの温もりだけを頼りに、闇に立ち向かっていた。そして、誰も気づかなかったが、ヴァージニアのスケッチブックの間から、レイナが残した暗号めいたメモが床に落ちていた。