第35話 鉄壁を裂く赤い爪
終わりは始まりを内包し、 始まりは終わりを約束する。
時間: 2038年7月26日、午前9時
場所: セクター7東壁~地下シェルター
祝祭の余韻がまだ残る朝。雲間から射す朝陽が、セクター7の上に淡い光を投げかけていた。昨夜のわずかな青空の記憶は、急速に激しさを増す灰の嵐の中で薄れつつあった。霧が呼吸するように脈打ち、壁を飲み込もうと舌なめずりしているかのようだった。
ティム一家のテントを、鋭い灰粒子が容赦なく打ちつける。ティムは錆びたドラム缶を片付け、ヴァージニアがスケッチブックに花火の残像を描いていた。アールがカイと笑い合う。
「また叩きたいな!」
その笑い声に、不思議な残響があった——まるで、これが最後の無邪気な瞬間であることを予感させるような。
突然、広場の隅からハーヴェイが現れる。灰色のローブが風に揺れ、単眼鏡が光を反射。杖を突く手が震えていた。
「ティム・マクレーン、話がある」
低い声に緊迫感が滲む。ティムが警戒する。
「爺さん、エリザの差し金か?」
ハーヴェイは首を振る。
「レイナが最後に私にメモの解析を頼んだ。エリザの警備がフェスティバルで緩む今が唯一の機会だ」
メアリーがメモを差し出す。
「Dahlia、Tulip、River…何?」
ハーヴェイはデータパッドを起動し、2025年の映像を映す——エリザの娘サラが小川でスケッチを描く。
「サラが愛した花と小川だ。レイナが小川のナノマシン残渣を解析し、停止コードを開発した。それがメモに隠されている」
ヴァージニアがスケッチブックを握る。
「サラの絵…私のチューリップと同じ?」
ハーヴェイは頷く。
「お前の絵がエリザの心を開くかもしれない。レイナは私の失敗を信じ、希望を託した。彼女の意志を無駄にできん」
遠くで警備員の足音が響き、彼は灰嵐に消える。
「エリザは全てを灰にしようとしてる。急げ」
午前中、ティムは東壁の補修作業を終え、鉄壁の基部に立っていた。汗で濡れたジャケットを脱ぎ、肩を叩いて付着した微粒子を払う。
「今日の壁は持ちそうだ」
低い呻き声と共に傷痕が薄れた腕を無意識に撫でる。しかし、なぜか壁が息をしているような錯覚を覚えた——呼吸してる…と。
温室ではメアリーが若い苗を育てていた。タワー地下のガラス空間に立ち、曇った眼鏡越しに小さな芽を見つめる。
「育つかしら…こんな環境でも」
灰層を通して差し込むわずかな日光が苗に淡い影を落としていた。土が指に付き、その感触が妙に生々しい。まるで土自身が何かを訴えているような。
物資倉庫ではアールとカイがカートを押して笑い合っていた。
「カイ、僕の方が速いよ!」
「負けないよ!」
角を曲がった瞬間、東壁方向から不穏な振動が伝わってきた。アールは足を止め、耳を澄ませた。
水濾過作業場ではヴァージニアとジュディが小さなバケツを持ち、競い合っていた。
「次はもっと早くできるよ!」
ヴァージニアは鉄壁の裏側でフィルターを覗き込み、きらめく赤い結晶を見つけた。胸のスケッチブックを強く握りしめた。
「やっぱり、光が……しゃべってるみたい」
小さく呟いた。あの時の光の記憶が蘇る。
リサが隣のテントから顔を出す。
「今日は静かだね。昨日のフェスティバルが嘘みたい」
「こんな日は長くねえ」
乾いた声で呟き、ティムが頷く。
「そうだな。少しは楽できるか」
だがその平穏は、不穏な兆候によって破られた。