第27話 朝の配給と不穏な影
時間: 2038年6月27日、午前8時
場所: セクター7居住区、作業エリア
朝の冷気が尖った刃のように肌を刺し、テントの隙間から忍び込む風に家族は身を寄せ合っていた。昨夜の唸り声は夜明けと共に消えたが、その記憶が重く残っている。外では日々の活動が始まり、住民たちが次々と動き出していた。時折、子供の笑い声が風に紛れて聞こえては消えていった。笑い声が、どこか狂気じみて聞こえる。
テントの狭い空間では、五つの寝袋が不均等に並ぶ床に薄く灰が堆積し、隅の錆びた金属箱には昨日の配給の残り—固いパン2つと水ボトル3本—が静かに横たわっていた。一ヶ月で、配給量は確実に減っている。
「豆、美味しかったね。カイと食べたの楽しかったよ」
アールは膝の上でトレーナーの襟を正しながら、昨日の出来事を振り返った。
「温室ってどんな場所だろう」
呟いた。
「緑があるって、本当かな」
希望と疑念が混じる。
「でも寒い…風が冷たいよ」
ヴァージニアは白いセーターの袖を引っ張り、乱れた金髪が顔を覆った。
「この灰色ではなく、色彩の世界をスケッチしたい」
「でも、灰色も美しいよ」
矛盾した感情を抱えている。
「パパ、ママ、またパン食べる?」
ジュディは水色のドレスの裾をつまみながら小さく尋ねた。
「ウーちゃんも、お腹すいたって」
ウーちゃんの銀の模様が、空腹に反応するかのように点滅する。
「これじゃ足りねえ。腹が減る」
ティムは空の缶を手に取り、声に苛立ちを滲ませた。ジャケットの袖をまくり上げると、汗と灰で重くなった布地が肩に貼りついた。
「ここでも稼がなきゃ」
労働への諦観。
「少し休みたいけど、物資少ないし仕方ないね」
メアリーは眼鏡の曇りを指先で拭いながら静かに息をついた。
「今も同じことを信じなくては」
「何があっても一緒よ」
朝の儀式のように呟く。
「何かやらねえと生きていけねえ」
ティムは重々しく立ち上がった。一ヶ月で、彼の動きには労働者の重さが宿っている。
「パパ、何かするの?」
アールが心配そうに尋ねると、ティムは息子の頭を軽く撫でた。手が、以前より骨ばっている。
「じっとしてても腹は膨れねえよ」
現実的な教え。
「無理しないでね」
メアリーの心配の言葉が空気に溶けた瞬間、隣のテントからリサが顔を出した。一ヶ月の付き合いで、彼女の顔にも疲労が増している。
「おはよう、新入りさん。仕事が割り当てられるわよ」
もう新入りではないが、その呼び方は変わらない。
カイが緑のジャケットに身を包み飛び出してきた。
「僕も手伝ってるんだ! アール、行くぞ!」
友情が、この世界での救い。
「セクター7では誰もが働くの。物資はタダじゃないわ。配給だけじゃ生きていけないのよ」
リサの声は事実を淡々と伝えながらも、その奥に生き残るための強さが感じられた。
「子供でもできる仕事はあるわ。新入りなら尚更ね」
「働かないと物資が減らされるし、感染者が出ても誰も助けてくれないから」
最後の一言が、重く響く。
ここにも、セクター7の冷酷な現実が見えた。弱者を切り捨てる社会構造。働けない者は、死を待つだけ。
一行はリサとカイに導かれ、居住区の端へと向かった。道は無数の足跡が交錯し、風に揺れる空のボトルや布切れが光景に寂しさを添えていた。布切れの中に、血の跡が見える。
「目に入るよ!」
アールは舞い上がる灰に顔をしかめた。灰が、生きているように目を狙ってくる。
「寒いね」
ジュディの小さな震えにメアリーは優しく応えた。
「すぐ慣れるよ」
子供たちの手を握り、指先でネックレスの形を確かめた。金属が、体温で少し温まっている。
メアリーは黙ってティムの手伝いをした記憶を思い出した。薪を渡す時の、あの静かな理解。今は言葉が増えたが、あの無言の方が深かった。
「俺が先頭だ。付いてこい」
ティムの低く力強い声が家族に安心感を与えた。でも、その声には疲労も滲む。
作業エリアは居住区の端に広がり、鉄壁の内側に粗末な鉄骨構造物が散在していた。灰まみれの作業台には錆びた工具—ハンマー、レンチ、溶接機、のこぎり、ペンチ—が雑然と置かれ、住民たちが黙々と作業する音が響いていた。音が、奴隷の鎖の音のように聞こえる。
鉄壁自体は数え切れない傷と錆で覆われ、隙間から絶え間なく灰が流れ込んでいた。高さ15メートルの壁が威圧的に立ちはだかり、頂上の監視塔から赤いセンサーが不規則に瞬いていた。センサーが、外を見ているのか、内を見ているのか。
「でけえな」
ティムの呟きに、メアリーは不安げに周囲を見回した。
「物々しいね。こんなとこで働くの?」
でも、選択肢はない。
「カイ、何するの?」
アールは好奇心に満ちた声で尋ねた。
「見てれば分かるよ! 僕、物資運んでるんだ」
カイの誇らしげな返答に、二人の間に子供らしい活力が生まれた。でも、カイの手には古い傷跡がある。
「怖い…人がいっぱい」
ヴァージニアは身を縮め、セーターの袖で顔を半分隠した。
「みんな、死んでるみたい」
小さく呟く。働く人々の表情が、生気を失っている。
「ママ」
ジュディの小さな呼びかけにメアリーは安心させるように手を握った。
「大丈夫だよ、みんなで頑張るだけ」
「何があっても一緒よ」