第25話 セクター7居住区
壁は守るためにある。
だが、何から、誰を守るのか。
時間: 2038年6月26日、午後3時
場所: セクター7居住区、仮設テントエリア
セクター7の居住区に足を踏み入れた瞬間、息を飲むほどの光景が広がった。灰の風が無数のテント間を縫うように流れ、足元を這う冷気が肌を刺した。泥のように混ざり合った足跡の道には、小石や錆びた釘が散在していた。足跡が、迷路のように絡み合い、誰がどこへ向かったのか分からない。
無秩序に密集したテント群は風雨と灰によって黄ばみ、薄汚れた姿で立ち並んでいた。遠方には中央タワーの輪郭が灰嵐越しに浮かび上がり、錆と剥落した白塗装が斑点模様を描き、頂部の信号灯が不吉な赤い光を不規則に投げかけていた。光が、心臓の鼓動のように明滅する。
「ここがお前らの場所だ。物資は1日1回、中央タワーで配給。並べ」
検疫官の機械的な声はマスク越しに無感情に響き、言い終わるやいなや踵を返して立ち去った。人間らしさの欠片もない、事務的な動作。
「新しい家ってわけか」
ティムは肩を押さえ、血で黒く染まったオリーブ色のジャケットを調整した。
「ここでも守るしかない」
父親としての決意が、疲労を押し殺す。
「とりあえず落ち着けるだけマシね」
メアリーは子供たちを腕に抱き寄せた。グレーのカーディガンの破れた部分が肩に擦れ、ひびの入った眼鏡フレームが光を歪めていた。
「こんな場所でも生きていくしかない」
「何があっても一緒よ」
また、呪文のように繰り返す。
「テントだらけだね」
アールはカーキ色のトレーナーの袖を引っ張りながら、好奇心に満ちた茶色の瞳で周囲を見回した。膝の上に置いた壊れたタブレットの画面を指先で軽くたたいた。
「これ、どうやって調べよう」
データへの渇望が、まだ消えていない。
「寒い…」
ヴァージニアは身を寄せながら白いセーターを体に巻きつけた。風に乱れる金髪が顔にかかり、小さな手が震えていた。
「スケッチブックがあれば、この灰は描かないよ」
でも、灰の中にも美を見出そうとする芸術家の目。
「ウーちゃん、見つかるかな?」
ジュディは水色のドレスの裾をつまみ、小さな声で尋ねた。ウーちゃんの銀の模様が、新しい環境に反応して微かに脈打つ。
家族はテントの入り口に立ち尽くし、灰嵐が布を叩く音と疲れた息遣いが混ざり合った。音が、この世界の日常を物語る。
テント内に踏み入れると、幅3メートル、奥行き4メートルほどの狭い空間に5つの寝袋が並んでいた。薄く灰が染み込んだ布地は端に小さな穴が開き、冷たい風が忍び込んでいた。風が、見えない指のように肌を撫でる。中央の錆びた折りたたみテーブルは脚が歪み、触れると指先に冷たい金属感が残った。
隅の金属箱には生活必需品—固いパン4つ、水ボトル5本、薄い毛布2枚—が収まっていた。パンはひび割れて触るとカチカチに硬く、水ボトルの底には不気味な沈殿物が揺れていた。沈殿物が、何かの卵のように見える。
「これが初日の分か」
ティムは箱を覗き込み、重たげに肩を下げた。
「少ないけど…何とかなるわよね」
メアリーは寝袋に腰を下ろし、汗と灰で重くなったカーディガンをなでた。
「硬い! 歯が折れそう」
アールは明るさを装ってパンを手に取り、かじろうとして顔をしかめた。でも、噛むと妙な甘みがある。
「水、冷たいね」
ヴァージニアはボトルを両手で握りしめた。水が、ガラスの向こうで生きているように揺れる。
「お腹すいた」
ジュディの無邪気な訴えが家族の胸を締め付けた。メアリーの膝に顔を埋め、カーディガンを小さな手でつかんだ。
テント内に疲労感が漂う中、外から低い話し声が聞こえた。隣のテントから灰色のコートを着た女性、リサが現れた。痩せた体に宿る鋭い眼差しが風に揺れる灰まみれの髪の間から家族を見つめていた。彼女の隣には10歳ほどの少年、カイが立っていた。緑のジャケットは灰で汚れ、袖が手を覆うほど長かった。
「新入りさん? 初日は大変でしょ」
リサはコートの裾で手を払い、灰が舞い上がった。疲労の陰に小さな笑みが浮かんだ。でも、その笑みには警戒も混じる。
「ティム・マクレーン一家だ。ここが割り当てだって」
ティムは疲れた声で答えた。
「リサよ。この子はカイ。隣に住んでるの」
愛情をこめて息子の頭を軽く撫でた。その手つきに、母親の温もりがある。
「やめてよ、ママ!」
カイは抗議しながらも、アールに興味津々で近寄った。
「お前、名前何?」
「アール! テント初めてなんだ」
アールは笑顔を見せた。同年代の子供への、純粋な喜び。
「慣れるよ。僕も最初寒くて寝れなかった」
カイは肩をすくめた。でも、その言葉には経験者の重みがある。
「物資ってどうやって取るんだ?」
ティムは実用的な質問をした。生き延びるための情報収集。
「中央タワーよ。1日1回、1人1セット。子供たちも並べるから、できれば全員で行った方がいいわ」
リサはボロい布袋からパンと缶詰を見せながら説明した。
「初日はお腹空いてるでしょ? 少しずつ我慢する力をつけていくのよ」
その言葉には、長い間この環境で生き延びてきた者の知恵が込められていた。でも同時に、諦めも。