第23話 セクター7
時間: 2038年6月26日、午後1時
場所: セクター7ゲート、鉄壁に囲まれた要塞
ランドマスターが荒野の起伏を乗り越え、遂にセクター7のゲート前に辿り着いた。エンジンの鼓動が弱まり、タイヤが砂混じりの灰の上を最後に回転して停止した。静寂が、運命の瞬間を告げる。
フロントガラス越しに見えたのは、人類最後の砦と呼ぶにふさわしい光景だった。
セクター7—高さ15メートルを超える巨大な鉄壁は、地平線の彼方まで延々と続いていた。軍事用強化鋼板には無数の爪痕と焦げ跡が刻まれていた。壁頂には自動監視塔が配置され、赤いセンサーが定期的に光線を放っていた。鋼鉄のプレートには「セクター7・人類保護区域」と刻まれていた。壁が、巨大な墓標のように立ちはだかる。
メアリー・マクレーンは車内の後部座席で子供たちを見つめ、疲れ切った声で言った。
「ここが...人類の最後の砦なの」
肩から力が抜けた。もつれた栗色の髪が汗で額に貼りつき、眼鏡のレンズには灰と埃が付着していた。指が首元のペンダントを無意識に探った。
「あの壁の向こうに答えがあるのね...」
希望と不安が、声に混じる。
助手席のティム・マクレーンも肩の激痛を押し殺しながら、鉄壁を見上げた。
「なんて代物だ...まるで要塞だな」
声には消耗の色が混じっていた。肩の傷は化膿の兆候を見せ始め、熱を持った肌は不健康な赤みを帯びていた。
「医務室があるといいんだが...」
命の危険を、肌で感じている。
レイナは車を完全に停止させ、ショットガンの安全装置を確認した後、ゲートを注視した。
「ここからが本当の試練だ」
表情には安堵と緊張が入り混じり、革ジャンの下で筋肉が警戒に備えて硬くなっていた。
「警備は厳重だ。グリーンカードがない我々は検査を受ける」
「私のナノマシン反応が、問題になるかもしれない」
不安を隠さない。
アールは窓に両手を押し当て、少年らしい率直な感嘆の声を上げた。
「すごい壁!どうやって建てたんだろう?」
塔に配置された監視カメラ、センサーアレイ、防衛用砲台を即座に分析し始めた。割れたタブレットを腕に抱えたまま、指差した。
「見て、あの上にはドローンまである!」
技術への興味が、恐怖を忘れさせる。
ヴァージニアは引き寄せたセーターの中から小さな声で言った。
「冷たそう...あんな灰色の壁」
緑の瞳は鉄壁の影と光の陰影を捉えていた。
「中はどうなってるんだろう...」
「生きてる人、いるのかな」
小さく付け加える。
ジュディはウーちゃんを胸に抱いたまま、無邪気な問いを発した。
「ママ、あそこが新しいお家?」
「パパとママがいれば大丈夫だよね」
ウーちゃんの銀の模様が、希望の光のように輝く。
車がゲート前で完全に静止すると、鉄壁に埋め込まれたセンサーが反応し、低い警告音が鳴り始めた。巨大な油圧シリンダーが始動し、鉄のゲートがゆっくりと開き始めた。金属が金属を擦る音は、大地が呻くかのような圧迫感を伴った。音が、新しい世界への扉が開く音。
開きかけたゲートの隙間から冷たい風が車内に流れ込み、全員が無意識に身を寄せ合った。灰と消毒薬の混ざった匂いが漂った。生と死が、同時に存在する匂い。
ゲートが完全に開くと、セクター7の内部が姿を現した。巨大な円形の敷地の中央には管理タワーがそびえ立ち、その周囲には機能的な建物が同心円状に配置されていた。壁際には赤く脈動するナノマシン隔離パネルが規則的に並んでいた。
人影も見え、かろうじて残された人類の日常が灰色の空の下で営まれていた。でも、その動きはどこか機械的。
アールは驚きと興奮を抑えきれない様子で目を見開いた。
「人がいる!本当に生きてる!」
データではない、生身の人間への感動。
ティムも思わず呟いた。
「ここに住んでいる人間が...まだいたのか」
希望と疑念が入り混じる。
車がゲートを通過する瞬間、全員が息を呑んだ。背後でゲートが閉まり、重い金属音と共に外界が完全に遮断された。音が、運命を封印する。
レイナは小さく息を吐き、肩の力を少し抜いた。
「これでひとまず...安全だ」
「監視が増えている...そして、あれは...」
視線が捉えたのは、ゲート近くに設置された検疫ステーションだった。
車が完全に止まると、灰緑色の制服を着た検疫官が近づいてきた。顔はマスクとゴーグルで覆われ、機械的な動きで車を一周し、センサーを車体に向けた。人間なのか、機械なのか、判別がつかない。
家族全員が車から降り、初めて灰の大地に直接足を踏み出した。空気は想像以上に冷たく、肌を刺すような乾燥感があった。生命を拒む空気。
検疫官は感情を排した機械的な声で尋ねた。
「グリーンカードは?」
声が、人間のものとは思えない。
ティムが戸惑いながらも、毅然とした態度で応えた。
「グリーンカードって何だ?我々にはない」
レイナが一歩前に出て、家族と検疫官の間に立った。
「この人たちは安全だ。時間跳躍者だ」
「2025年から来た」
付け加えた。その言葉に、検疫官の動きが一瞬止まる。
検疫官は規則に従った対応で答えた。
「規則は規則だ。検査する」
機械的な冷たさでセンサーをティムに向け、緑色のライトが点灯すると「ナノマシン反応なし」というデジタル音声が発せられた。
「ティム・マクレーン。俺は単なる農夫だ。家族と共に安全を求めてきた」
素直に答える。
子供たちも順番に検査された。アールは好奇心をむき出しにした。
「ぼく、アール・マクレーン!それはナノマシン検出器?どう作動するの?」
質問が、検疫官を困惑させる。
ヴァージニアは恥ずかしそうに小さく答えた。
「ヴァージニアです…」
でも、スケッチブックは離さない。
ジュディは予想外にも明るく笑顔を見せた。
「ジュディだよ!こっちはウーちゃん!」
ウーちゃんの銀の模様が、検疫官のセンサーに反応して輝く。
しかし、検疫官がレイナに検出器を向けると、突然赤い警告音が鳴り響いた。全員の表情が凍りつき、ティムが驚いて叫んだ。
「何!?」
裏切られたような声。
検疫官は冷淡な声で告げた。
「ナノマシン反応検出。微量だが確かに存在する」
銃口が、レイナに向けられる。
レイナは驚きの色を隠しきれなかったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「感染ではない。過去の研究による痕跡だ」
ポケットからIDカードを取り出し、検疫官に差し出した。
「レイナ・ハート、ウェイド・インダストリーズ、ナノマシン研究部。13年前の社員だ」
「私は、罪人だ」
自嘲的に付け加える。
検疫官はカードをスキャンし、数秒の沈黙の後、短く言った。
「確認完了。反応値は許容範囲内。通過許可」
でも、監視の目は外さない。
家族全員が安堵のため息をついた。
「良かった...」
メアリーは小さく呟いた。
「何があっても一緒よ」
レイナにも向けて言う。