第15話 赤い目の追跡者
時間: 2038年6月26日、朝7時05分
場所: ランドマスターが走る灰の道、荒野の果て
ランドマスターが荒野の起伏を乗り越え、タイヤが崩れた文明の残骸を踏み砕く度に、鈍い衝撃が車内を揺らした。窓ガラスに浴びせられる灰は刹那の閃光を放ち、数百の怨霊が車に取り憑こうとしているかのような幻を作り出していた。灰が、死者の指のように窓を叩く。
メアリー・マクレーンは後部座席で眉を寄せ、窓の外の不吉な景色を観察した。
「セクター7まで、どれだけ持つかしら」
ネックレスに指を滑らせると、金属の冷たさが神経を研ぎ澄ませた。冷たさが、現実の証として心に刺さる。
助手席のティムはレイナに眉をひそめた。
「あとどのくらいかかる?」
肩の傷が脈打つ度に顔を歪め、血がかさぶたを作り始めたジャケットが腕の動きで軋んだ。血の匂いが、獣を呼ぶのではないかと不安になる。
レイナは無表情に前方を見据えたまま答えた。
「あと2時間くらい。道が酷すぎて飛ばせない」
瞳孔が一瞬拡がり、バックミラーに映る家族の疲弊した姿を確認した。家族という存在が、彼女にとって眩しすぎる。
「俺も運転できるぞ」
ティムが申し出たが、レイナは「必要ない」と短く切り、アクセルを踏み込んだ。
「君たちを守る」
小さく付け加えた。その言葉に、自分でも驚く。
アールは窓ガラスに鼻を押し付け、手で覆いをして外の景色をより鮮明に見ようとした。
「あっちに何かあるよ!」
カーキ色のトレーナーの裾をぎゅっと握った。
「奥にある影、建物みたいだけど…タブレットがあれば倍率上げられるのに」
悔しそうに割れた画面を見つめた。データを記録できない苛立ちが募る。
ヴァージニアは腕を抱き、身を縮めていた。
「空が…変」
緑の瞳が捉えたのは、鉛色の空を横切る異様な赤い筋だった。
「まるで血管みたい…空が呼吸してる」
震えが増した。スケッチブックのページが、微かに脈打つように光る。
「この森、入った時より狭くなってない?」
誰に向けてでもなく呟いた。13年前の記憶が、混線している。
ジュディが突然、小さな声で言った。
「あの人たち、助けてあげないの?」
全員の視線が彼女の指差す方向へ向いた。荒野の片隅、半壊した建物の陰に人影らしきものが見えた。でも、その動きは人間のものではない。
ティムが身を乗り出した。
「人間だ!」
瞬間、レイナの手が彼の胸を押し戻した。その手に、予想外の力がある。
「違う。もう人間じゃない」
声は静かだが、耳に届く重みを持っていた。経験に裏打ちされた確信。
「ナノマシンに侵食された人間は、もはや人間じゃない。近づくな」
「魂が、もうない」
レイナが鋭く指示を出した。
「気を抜くな。まだ安全じゃない」
目は遠くの地平線を捉え、崩れた鉄塔のシルエットを見つめていた。鉄塔が、巨大な十字架のように見える。
静寂が車内を満たす中、メアリーはティムを見つめ、囁くように言った。
「ティム、レイナがいてくれて良かったわ」
でも、レイナという存在への不安も隠せない。
ティムはただ頷いた。
「ああ、メアリー。お前が子供たちを支えているから俺も踏ん張れる」
夫婦の間で、無言の会話が交わされる。
その瞬間、バックミラーに異変が映った。
灰の中で黒い影が蠢いていた。影が、意思を持って形を変えていく。
アールの叫び声、レイナの警告、そしてハンドルが鋭く切られる感覚。
「あれ!?」
「追跡者だ!」
ランドマスターが急カーブを描き、遠心力で家族全員がシートに押しつけられた。子供たちの悲鳴が車内に響き渡る。悲鳴が、ガラスを震わせる。
「パパ!」「ママ!」
「何があっても一緒よ!」
メアリーが叫んだ。その言葉が、恐怖を押し返す盾となる。
車体が大きく傾き、砂煙が車を包み込んだ。影が車に並び、その姿を現した—ナノマシンに侵された巨大な鳥だった。
翼幅は3メートルを超え、かつての羽毛は金属質の板へと変貌していた。翼の端から赤いナノマシンが霧のように漏れ出していた。その目に宿る意思—単なる捕食衝動ではなく、知性を感じさせる冷たい光。計算された悪意。
鳥が車体の側面に突進し、金属が軋む音が耳を劈いた。窓ガラスに無数の細かなひびが走り、車内は一瞬静まり返った。ひびが、時間の亀裂のように広がる。
メアリーは反射的に子供たちの頭を押さえつけた。
「伏せて!窓から離れなさい!」
母親の本能が、瞬時に働く。
アールは震えながらも、目を見開いて観察していた。
「翼が…金属化してる!筋肉じゃなくて機械みたい!」
恐怖の中でも、科学的観察を止められない。
レイナは歯を食いしばって唸った。
「鳥型ナノイド!厄介な奴らだ!」