第1話 静寂の予兆
霧の中で、何かが目覚めようとしていた。
それはまだ形を持たず、ただ待っていた。
時間: 2025年6月20日、土曜日の朝8時17分
場所: ロンドン市内、タワーハムレット地区、マクレーン家の車庫
錆び付いた車庫のシャッターが軋み音を立てて持ち上がると、朝の光が埃っぽい暗がりを切り裂いた。光の筋が、宙に舞う塵を金色に染める。まるで時間そのものが可視化されたかのように。
ティム・マクレーンは手のひらに残る金属の冷たさを確かめるように指を擦り合わせた。その感触が、これから始まる一日の現実味を与えてくれる。ガレージの奥で鈍く光るシルバーのミニバンのドアには、数ヶ月前に次男のアールが自転車で突っ込んだ凹みがくっきりと残っていた。傷跡。それは家族の歴史を物語る、小さな証だった。
「よし、これで出発できる。今日は天気も良さそうだ」
ティムの声には、どこか努めて明るく振る舞うような響きがあった。白髪が混じり始めた短い黒髪の下で、彼の目は灰色の空を眇めた。空の色が、自分の瞳の色と同じだと気づく。鏡のような、不穏な相似。
助手席の窓から、メアリー・マクレーンが歩道を見つめていた。老人の連れたコーギーの首輪の鈴がチリンと鳴った。その音に弾かれたように、街路樹からカラスの群れが一斉に飛び立った。数は異常に多く、黒い羽が灰色の靄の中で渦を巻いた。まるで空そのものが、黒い花びらとなって舞い散るかのように。
メアリーは無意識に眉を寄せ、首筋のあたりが粟立つような感覚を覚えた。鳥たちの飛び立つ音が、何か大きなものの呼吸のように聞こえる。
「落ち着いて、メアリー」
彼女は小さく息を吸い込み、膝の上で手を握りしめた。指の関節が白くなるまで。
「何かおかしい」
栗色のポニーテールが肩で跳ね、首元の銀のペンダントが朝日に輝く。結婚10周年の記念日にティムが贈ってくれたものだ。メアリーの指が冷たい金属に触れた。その冷たさが、胸の奥の不安と共鳴する。
「ママ、まだ?」
後部座席から長男アール(12歳)の声がした。タブレットの画面に夢中で、指が目まぐるしく動いている。画面の光が、彼の顔に青白い影を落とす。その隣では、長女ヴァージニア(10歳)がスケッチブックに何かを描き込んでいた。鉛筆が紙を擦る音が、静寂の中で際立つ。一番下のジュディ(5歳)は、ピンクのウサギのぬいぐるみ「ウーちゃん」を抱きしめ、窓の外を見ていた。
「ママ、どうして昨日の霧が、まだ私たちの服についてるの?」
ジュディの無邪気な問いかけが、車内の空気を一瞬凍らせた。
「もうすぐよ。パパが荷物の最終チェックをしてるから」
メアリーは努めて普通に答えたが、娘の言葉が胸に刺さる。昨日の霧など、なかったはずなのに。
ティムが古びたクーラーボックスをトランクに押し込み、力強くドアを閉めた。その音が、何かの合図のように響く。
「さあ、出発だ!」
ティムは運転席に乗り込み、エンジンをかけた。ミニバンは唸り声を上げ、ゆっくりと車庫から路上へと滑り出した。まるで巨大な獣が、眠りから覚めて動き出すように。
エンジンが低く唸り、白い排気ガスが朝霧に溶け込んだ。ティムはバックミラーに映る家族の姿を一瞬見つめた。鏡の中の家族が、どこか遠い存在のように感じられる。
「良い時間を過ごそう」
再び遠くでカラスの鳴き声が聞こえ、ハンドルを握る手に力がこもった。鳴き声が、警告のように響く。
「何か変な感じしないか?」
後部座席のヴァージニアはスケッチブックを胸に抱いていた。金髪が朝日に輝く。十歳の彼女は、学校では「夢見がちな子」と呼ばれることが多かった。でも、夢見がちなのではない。ただ、他の人には見えないものが見えるだけ。
「森で絵をいっぱい描きたいな」
彼女の声は柔らかく、指が窓に触れ、曇ったガラスにハートを描いた。そのハートが、すぐに霧で滲んでいく。
窓の外では、カラスたちが上空で奇妙な円を描いていた。黒い渦巻き。まるで見えない何かに引き寄せられているかのように。
「あのカラス、何か見たのかな?」
スケッチブックの上で指が震え、彼女は鉛筆を握りしめた。描きたい衝動に駆られたが、何を描けばいいのか分からなかった。ただ、赤い何かが、頭の中でちらつく。
「ただの風よ」
メアリーは答えたが、声に確信はなかった。彼女は後ろを振り返り、娘の不安げな表情を見た。母親の本能が、何かを察知している。
「森に着いたら、あなたの好きな場所を見つけようね」
「何があっても一緒よ」
その言葉が、初めて口から出た。なぜそう言ったのか、自分でも分からない。まるで、これから起こることを予感しているかのように。
アールは隣でタブレットPCの科学雑誌に没頭していた。画面には「特集:ナノマシン革命—微小ロボットが世界を変える」という見出しが表示されていた。
「ナノマシンって何だろ?すごい小さなロボットなんだね」
窓の外を見上げながら呟いた。空に浮かぶカラスの群れが、一瞬、小さな黒い粒子の集合体のように見えた。
一番後ろのシートでは、ジュディがぬいぐるみのウサギと話していた。金髪のツインテールが揺れ、ピンクのリボンが朝日に光る。
「ピクニック楽しい!ドーセット行くんだよ、ウーちゃん!」
市内を移動中、ティムがラジオのダイヤルを回すと、掠れた声が断片的に聞こえた。
「ウェイド・インダストリーズのナノマシン実験が…」
雑音に混じって「異常…隔離…」という言葉が響いた。言葉の断片が、不吉な詩のように耳に残る。
アールは顔を上げた。タブレットの画面をタップして、ニュースアプリを立ち上げる。
「ほら、さっきの特集と同じだ!」
彼の指が画面上を踊るように動き、キーワードを入力したが、電波状況が悪く、読み込みが進まない。画面がフリーズし、赤い警告マークが点滅する。
「電波が悪いな」
ティムは眉を寄せてダイヤルを軽く叩いた。機械への苛立ちが、別の不安を覆い隠す。
メアリーは身を乗り出した。
「もう少し聞こえるように」
雑音に飲み込まれるだけだった。胸が締め付けられる思いがした。ラジオの雑音が、まるで苦しむ人の声のように聞こえる。
ミニバンがA31号線へと進み、ロンドンの喧騒が遠ざかっていく。風に混じる異質な匂い—どこか金属のような微かな臭気がティムの鼻孔をついた。焦げた配線のような、血のような。
「なんか妙な匂いだ」
彼の指がハンドルを強く握りしめた。
ヴァージニアも同じ匂いを感じていた。彼女はバックパックからスケッチブックを取り出し、色鉛筆を広げた。赤と灰色を重ねてみたが、空気に漂う不穏な色合いをうまく描けない。紙の上で、赤い線が生き物のように蠢いているように見えた。
「描けないよ…」
鉛筆を握る手が止まった。何か大切なものを捉えようとしているのに、形にできない苛立ちが募った。でも、なぜか赤い花—チューリップのような形が、無意識に紙の上に現れ始める。
ティムはバックミラーに映る家族の表情を一人ずつ確認した。鏡の中の家族が、既に別の時間を生きているような錯覚。
「気をつけて運転して」
メアリーの囁きには、言葉にならない不安が滲んでいた。
外を見やると、水平線上に血のような赤い光が断続的に点滅していた。光が、何かの鼓動のように。
ティムとメアリーは一瞬視線を交わしたが、言葉にはしなかった。メアリーは深く息を吸い込んだ。
「やっぱり、光が……しゃべってるみたい」
ヴァージニアの小さな呟きが、車内に響いた。誰も、その言葉の重さをまだ理解していなかった。