あなたに紡ぐ言葉
かくして私は本懐を遂げた。
そうは言っても何かが大きく変わることはなく。
シュテファン様に対してときめく時はときめくし、残念だと思うことも変わらない。ただ、残念な人だと思った後に、そこもまた可愛いと思うことはある。
人はそう簡単に変わらない。
変わるとするなら、変わらざるを得ない状況に置かれたか、本人が変わろうと行動に移した時。
だから恋に落ちたからといって私は別人になり得ない。私は私であり、シュテファン様はシュテファン様のままである。
私はそもそも愛情表現が得意ではない。甘えるというのもしてみたいと思わない。……厳密に言えばたまに、甘えたくなるけれども。
シュテファン様は甘えてくれたら嬉しいが、望まぬことを無理にする必要はないと言ってくれたので安心した。
あまりに変化のない私たちにユリアが不満を口にしたけれど、夫婦の在り方は夫婦で決めることだと姉に窘められていた。
正直に言えば、相思相愛になったら何かが変わるのではないかと思った。婚姻の時もそうだった。
何かを期待した。
けれど変わらない。
私は何処までいっても私のままで、平凡だ。
変わろうと思い、努力した分だけ変わった。私も、シュテファン様も。
あれからまた夜を一緒に過ごすようになった。話をしたり、ただ触れ合ったり。
確実に変わったと言えるのは、シュテファン様を理解したいという気持ちが芽生えたこと。私のことを知ってもらいたいという気持ちを抱いたこと。
恋をすると欲張りになるのだと、自分の身に起きて初めて知った。
もう良い大人なのに、私もシュテファン様も、この恋がお互いにとって初めてなのだ。
喧嘩もするようになった。大概先にシュテファン様が謝ってしまうから居心地が悪い。次の喧嘩の際には絶対に私から謝りたい。
「シャツィー」
庭のガゼボで本を読んでいたら呼ばれた気がした。声のした方に顔を向けると、私に向かって手を振るシュテファン様がいた。
胸の鼓動が早くなることはない。けれど嬉しいと訴えてくる。
本を閉じて横に置き、立ち上がる。
「もうお帰りになったの?」
早足で私のいるガゼボにやって来ると、手袋を取って私の頰に触れる。
向けられる笑顔が柔らかい。頰への触れ方も優しく、触れたところからしあわせを感じる。
「いや、殿下のお使いで外に出ることがあったから、寄り道をした」
「まぁ、いけない方」
一応咎めはするものの、建前だけ。
「リアンの顔を見たかったんだ、許して欲しい」
額にキスが落ちてくる。
私をネリーと呼ぶかリアンと呼ぶか悩み、シュテファン様はリアンに決めた。ネリーはリヒツェンハイン家の家族が呼ぶ愛称だから、自分だけの呼び方が欲しいからと。
「今夜はお帰りは遅くなりますか?」
「早く帰るよ」
いってくる、そう言って去って行くシュテファン様の背中を見送る。
振り向いたらいいのに、そんな私の心の声が届いたのか、シュテファン様が振り向いて私に手を振った。私も振り返す。
たまらない気持ちになる。胸の中が一瞬でいっぱいになる。
好きだという強い気持ち。それから、あの人を好きになって良かったという気持ち。
人の気持ちに絶対などないから、私の想いもシュテファン様の想いも変わるかも知れない。
そのことを考えると怖くなる。
何かを得るということは、失うかも知れないものを手にしたということだ。好きにならなければ良かったかと言われたなら、否と答える。
以前シュテファン様が言っていたのはこういうことだったのかと思う。
恋を知るのが怖かった。邪法にかかりたくなかったから恋をしないと思う相手を選んだ。それなのにその相手に恋をした。けれど、恋を知らない時に戻りたいかといわれたら戻りたいとは思わない。
そう、シュテファン様は言った。
人を好きになるということは、綺麗なだけでも楽しいだけでもない。己の中の欲望の生々しさに何度も驚かされる。知らなかった自分を思い知らされる。
それなのにこのままでいたいと思うのは、シュテファン様を想う自分が嫌いじゃないからだと思う。
あの人の隣に立ち続ける為に努力する自分を気に入っている。
寝室にも置いた寝椅子。そこに座って話をするのが日課だ。
部屋に入って来たシュテファン様はタオルを首にかけたままだ。急いで来たのだろう。
「まだ髪が濡れているではありませんか」
隣に腰掛けた夫の髪をタオルで拭く。
まだ寒さと無縁の季節でも、身体を冷やすのは良くない。
「すまない。リアンに早く会いたくて」
「私は逃げも隠れもしません」
言ってから、逃げたこともあった、と思い出す。
シュテファン様を見ると目に不安が混じっていて情けないと思ってしまうけれど、私を失いたくないと思ってもらえているということでもある。それにこの情けなさも可愛いと思ってしまっているのだから、私も大概だ。
「あの時と今は違います。そうでしょう?」
「そうだとは思うが、こればかりは絶対などないと思っている」
「では諦めるのですか?」
いつもいつも、シュテファン様にばかり言わせている。恋に駆け引きは必要なのだろう。けれど私はそのようなことに労力をかけたくないし、そのような器用さは持ち合わせていない。
「私は諦めません」
目を丸くして、驚いた顔で私を見るシュテファン様の頰に触れる。
「私は私の価値を知っております。何もせずとも男性に好かれるような人間ではないのです」
私の言葉を否定しようと口を開こうとしたのを、首を振って止める。
「それで良いのです。私はシュテファン様がいてくだされば良いのですから」
「リアン……」
「シュテファン様のお気持ちがもし、禁術で操られたとしても、私は諦めません。何年かかっても取り戻します」
シュテファン様の目から涙がボロボロと溢れる。
泣き虫だな、この人は本当に。
けれど、それも愛しい。
「私もリアンの心を取り戻すのを諦めない」
抱き締められて、その強さに息苦しくなったけれど、止めずにおく。背中に手を回してそっと撫でる。
「約束ですよ?」
「約束する」
──春。
クリスタ様は名実ともに王太子妃となった。
シュテファン様にエスコートしてもらい、王城に来ている。
「リアン、苦しくないか?」
「コルセットはしておりませんし、締め付けるドレスではありませんから大丈夫です」
「それでもいつもよりは細身のドレスだろう?」
エンパイアラインのドレスなのでおなかは締め付けられていない。
「気分が悪くなったらすぐに言って欲しい」
「分かっております」
私のおなかには子が宿っている。勿論シュテファン様との子である。
懐妊を知ったシュテファン様は泣いた。
おなかの子は父親に似て泣き虫になるだろうか? それとも私に似て無愛想だろうか。
「ミューエ子爵、私がいることをお忘れではありませんか?」
呆れた顔でクリスタ様が言うと、「覚えております」とシュテファン様は答えた。
王太子妃となった妹に、これまで通りの態度は許されない。逆も然り。
「身重の妻が心配なだけです」
シュテファン様は今朝まで私が王城に行くことを反対していた。もう落ち着いてきているから大丈夫だと言っても駄目で、心配で堪らないらしい。
「兄夫妻が仲睦まじいのは嬉しいことですが、こうまで見せつけられると複雑な心持ちです」
クリスタ様が王太子妃になられたことのお祝いに王城に来たかったのだけれど、私の懐妊が判明し、落ち着くまでは外出が禁止されていた。
ようやく医師から無理をしなければ大丈夫と許可がおりたのだが、夫がこの通り。
「実の所、このような日が来るとは思っておりませんでした」
お茶で咽喉を潤した後、クリスタ様が言った。
間を置いてシュテファン様は頷き、
「……そうですね。過去に対して思うことは今もありますが、いつか思い出として話せるぐらいにしあわせを掴みたいと思っております」
そう言って目を細め、少しだけ微笑むシュテファン様に、私もクリスタ様も頷いた。
なかったことにしたい過去はある。どれほど祈っても時は戻らず、私たちは明日にしか進めない。
とても残酷なことだと思う。
過去があったから今があるのだと言うにはまだ傷が生々しい。人によっては生涯引き摺るかも知れない。時折思い出して苦しむ人もいるだろう。
心の傷の深さは人それぞれ。他者がそれを勝手に推し量るのは無礼だろう。
シュテファン様が言うように、いつか思い出として話せるようになれたなら、いくらか消化されたと言えるのかも知れない。
その思い出を語る時、こうしてこの方の隣にいたいと思う。
手を伸ばし、シュテファン様の手を握る。私に向けられた笑顔が嬉しくて、自然と私も笑顔になる。
「私も殿下にお会いしたくなりました。お二人の所為です」
クリスタ様の言葉に私達が「申し訳ありません」と答えると、嬉しそうにクリスタ様は微笑んだ。
「今日は良き日です」
明日も明後日も、そのまた次の日も。
良い事も悪い事も。判断に困る事も色々とあるだろう。
その度に泣いて笑って怒って、喜ぶのだろう。
あなたを安心させたいし、しあわせにしたいから、言葉を弄ることなく伝えようと思う。
私の大切なあなた。
泣き虫で、不器用で、決して努力を惜しまない、私がこの世で一番大好きな人。
「シュテファン様、愛しています」
「愛しているよ、リアン。私のシャツィー」




