妻からのお願い
シュテファン様の忙しさが更に増したようだ。
いつも疲れ切った顔をしている。けれど私の姿を認めると笑顔を向けてくる。疲れてへとへとなのは執事から聞いて分かっている。それなのに私には見せないようにする。
奥様には良いところを見せたいのでしょう。
執事はそう言うが、夫婦でい続けるのなら強いところも弱いところも見せていったほうが良いと思う。けれどシュテファン様の気持ちを無下にする気はないので、もうちょっと間を置いてから言うことにする。
それはそれとして、身体を壊さないかが心配なので、一つだけ提案したい。
「シュテファン様」
「コルネリア」
シュテファン様の前に立つ。私を見て優しい笑みを浮かべる。
「すまない、もう少しすればいくらか余裕が生まれると思う」
「そうなのですね。それは良いことですが」
言葉を区切る。
シュテファン様は行儀良く私の言葉を待つ。
「本邸に移りませんか」
内装が華美だのと言っている場合ではない。王城と別邸は距離がある。それなのに毎日帰って来るのだ。
あまりに遅い時間だと先に眠るが、基本的には待つようにしている。それを申し訳なく感じているようだけれど、王城に近い本邸に生活の場を移せばシュテファン様はもっと睡眠時間を確保出来るはずである。
特訓生活を経て実感した。大事なものは色々あるけれど、睡眠はなによりも大事だと。
「しかし……」
「王太子殿下にお仕えするのです。何かあれば駆けつけなければならないのにこの距離は問題です。それになにより、シュテファン様のお身体に障りがあってはいけません」
「コルネリア……」
なにやら感動しているようだけれど、普通のことだと思う。
お茶に誘われ、久しぶりに二人でお茶をする。
「すまない、コルネリア」
本邸に移ることについて謝っているのだろうと思う。
「いえ、私は大丈夫です」
「だが……」
「言いたいことは言えるようになりましたし、歌劇場からも近いですし、リヒツェンハイン家にも近くなります」
リヒツェンハイン家のあたりでシュテファン様の表情に怯えが混じる。
「それに、クリスタ様とシュテファン様のお陰で今では人気者なのです、私。嫌がらせをしてくる方はほとんどおりません」
「そうか」
シュテファン様も複雑な気持ちなのだろう、苦笑いを浮かべている。
心配していたような、敵対する勢力からも目立った嫌がらせはされていない。今後もそうかは不明だけれど、怯えてばかりいては何も出来ない。
「ありがとう、コルネリア。貴女は私には勿体ない人だ」
「それは褒め過ぎです」
いやいやと首を横に振る。
「何度も話しているが、私が貴女に言った言葉は酷いものだった。貴女の信用を失って当然のことを言った。こんな私の妻だったが故に令嬢や夫人たちに嫌がらせも受けた。
貴女はあの時、オーバーホイザー家の行いを利用して離縁することだって可能だった」
婚姻が破綻した場合、どちらに非があるのかと噂されるのは世の常だ。アンドレア様を筆頭にした他の令嬢の行いを盾に離縁に持っていけば、瑕疵は小さく出来ただろう。
ただの嫌味や噂ならば、その程度御せないのは貴族として能力不足と謗られる。けれど第三者の行いによって破綻したならば、その第三者を悪者に出来る。
小手先だろうとなんだろうと、何でも良いのだ。もっともらしい言い訳を口に出来た者の勝ちなのだ。
「腹が立ったのです」
「腹?」
「確かにあのまま離縁すれば浅い傷で済んだことでしょう」
私の言葉に頷くシュテファン様の表情は真剣である。
「そうして喜ぶのは、私に嫌がらせをした令嬢たちです。良いように利用されたアンドレア様ではなく」
「そうだな」
「離縁して、シュテファン様は新しい妻を迎えて、私は姉を支える為に家に入る。よくある話です」
弱い者は弾き出される。それが貴族社会だ。
お茶を口にし、咽喉の渇きを潤す。
「私には受け入れ難いことでした。他者のしあわせの為に陥れられるのが堪らなく嫌だったのです」
そう言うと、シュテファン様は俯いた。
真剣な顔で考えごとを始めたシュテファン様を眺める。私が離縁しなかった理由を聞いて、私への気持ちがなくなっても仕方がない、そう思いながら。
けれど約束は約束なので、離縁したいと言われてもすんなりとは受け入れるつもりはない。
思案した後、シュテファン様は顔を上げて私を見た。
「コルネリアが五年と言ったのは、令嬢たちの為か?」
そこに気が付くとは思わなかった。
「えぇ、そうです」
シュテファン様を待って結婚適齢期を逃す程に真剣に慕っているのか、諦めてどなたかに嫁ぐか。
「やはり貴女は強い」
「意地が悪いとおっしゃるかと」
「意地の悪いことを先にしたのはあちらだろう。己はやっておきながら、相手にはされたくないは道理が通らない」
そう言って笑う。
「何故五年なのかとずっと不思議だったんだ。謎が解けた」
笑顔のままお茶を口にする。
私の考えを知られた場合は、呆れたり軽蔑されるのではないかと思っていたから少し拍子抜けする。
「コルネリア?」
「いえ……先程も言いましたように、シュテファン様が嫌悪感を抱くかと……」
そう。言わなかった。言う必要なんてなかった。
何故言いたくなったのだろう。
言えば、不快にさせる、嫌われる可能性もあった。
自分が傷付けられたから相手にもやり返してやるつもりだなんて言ったら、大概の人は呆れるとか、軽蔑してもおかしくない。
「やられたらやり返すぐらいじゃなければ、侯爵夫人は務まらない。それに、取り返しがつかないような傷を付けるつもりなどないんだろう?」
「それは勿論。ですが、シュテファン様を心から慕う人からすれば悪人です、私は」
シュテファン様は首を横に振る。
「私を本当に想ってくれる令嬢がいたとしても、今更だろう?」
今更? と聞き返すと、シュテファン様は頷いた。
「私の名誉が回復した途端に、本当は慕っていたなどと言われても信じられない」
それはそうかも知れない。
たとえそういった関係が望めなくても、本当に大切に想うなら慰めたいと考えるかも知れない。それによって貴族の令嬢としての己の価値が損なわれるとしても。
シュテファン様の顔を見ると、悲しそうに微笑んだ。
「私の価値は、家柄とそれなりに見られる容姿。今は王太子の側近。未来の王妃の兄。
それはそれで大事なことだと分かっているが、それでは足りないんだ」
足りない? この上なく色々お持ちなのに、まだ足りないのかしら?
「私が一番欲しいものを手にする為に、私に必要なものを模索中だ」
真っ直ぐに私を見つめられて、察した。
シュテファン様は私に愛されたいと言ってるのだ。
「猶予をもらえている間に、見つけ出したいと思っている」
そう言って微笑むシュテファン様に、心臓の鼓動が少し早まった。
五年の間に私を愛してくれれば離縁しないと約束したのに。それはもう果たされているのに。
「私の心に住む人はもういる。だから慕ってくれる令嬢がいたとしても、その気持ちには応えられない。
私が許しを請いたい人も、しあわせにしたい人も、もうここにいる」
貴女に愛されたい。
シュテファン様はそう望むのだ。
「私も無茶を言いましたけれど、シュテファン様も大概です」
「勝手で愚かな男で申し訳ない」
眉尻を下げ、小さくもない身体を縮こませる夫に、笑みがこぼれてしまった。
上手く言えないけれど。
何度も許そうとか、やっていけると思っていたけれど、それは何処か、そうすべきだからという考えがあったように思う。
でも今は、心の底からもう良いって思えた。
「本当に残念な方です、シュテファン様は」




