『紅の蝶』
何度も小説を読んでいたけれど、歌劇になった『紅の蝶』はやはり面白かった。配役も思っていた通りの見た目だったし。
その美しさと髪の色から紅の蝶と称されていた主人公は、誰にでも羽根を開くと軽蔑されていた。そのような事実はなく、相手にされなかった下卑た男たちが流した噂が定着してしまい、要らぬ苦労をさせられている。
男性主人公も初めは色眼鏡で主人公を見ていたが、主人公と接点を持つうちに、噂は噂に過ぎないことを知り、償いとして彼女を支えようとする。
あくまで自分は相手として相応しくないとする男性主人公と、そんな彼に恋をする主人公の恋愛はなかなか進まなくてじれったい。
けれどそれが良い。
「じれったかったわ」
姉の言葉にユリアも頷く。
「それが良いのに」
私がそう返すと、「あれはやはり物語ね。貴族社会であのような噂が立った令嬢は早々に後妻などにされてしまうもの」
姉が呆れ顔で言う。
身も蓋もないが、その通りである。
「噂如きに惑わされる男性も不愉快だし、それぐらいで揺らぐ家なら潰れれば良いのよ。そもそも、娘が言いたい放題言われているのに対応しない女主人なんて無能だわ」
姉は怒っている。物語だからと流せないのだ。
確かにあの話は主人公が一方的に被害にあっている。
姉はやられたらやり返したい質だ。イライラしたに違いない。付き合わせた身としては申し訳ない気持ちになる。
「男性主人公は守り続けることになる訳だけれど、あれでは死ぬまであのままよ?」
まぁまぁ、とユリアが笑う。
「か弱い女性を守る騎士になりたい男性は、意外と多いものなのよ?」
ユリアの言葉を姉は鼻で笑った。
「己を鍛えるでもなく、己より弱い存在を見つけて守った気になるなんて、くだらないわね」
容赦のない言葉に笑ってしまう。
クラウス様との馴れ初めを聞いた後だと、妙に納得してしまう。
「わずかな変化が訪れたら亀裂が入りそうな関係なんて、真実ではないわ」
その言葉は、私の中に深く入ってきた。
私とシュテファン様のことではないと思うのに。
歌劇を観終えて、ボックス席を出た私たちを待っていたのは、令嬢や夫人たちだった。
「ごきげんよう。リヒツェンハイン家の皆さまもいらしていたのね」
ミューエ家からはっきりとした決別を受けた家と、そうではない家があるのは知っている。
「どなたかと思えば、シュテファン様の奥方のコルネリア様でしたのね。以前とは雰囲気が違ってらっしゃるから、分かりませんでしたわ」
私を上から下まで値踏みするように眺めている夫人は、家同士の関係でそうならなかった家だ。
「けれど」
手に持っていた扇子を開いて口元を隠し、嘲るような目を向けてくる。
「ミューエ家の財力を以てしても叶わぬものはあるのねぇ。元が知れているのだもの、限界はあると言ったところかしら」
周囲の令嬢たちも扇子で口元を隠して笑っている。
隣に立つ姉と妹の苛立ちが、空気を通して伝わってくる。二人が怒ってくれているので私は冷静になれる。
「夫人は素晴らしき家にお生まれになって、良縁にも恵まれたのですよね」
私がそう言うと、この後に何を言われるのか分からないようで、夫人は怪訝な顔をする。
「……えぇ……それがどうしたと言うのかしら?」
「品性は、買えぬものなのだと思いましたの」
「なんですって!」
顔を怒りで赤くして、私を睨みつけてくる。
「夫人、私は侯爵家を継ぐ夫を支える存在となりたいのです。私に必要なのは美しさだけではありません。品性、知性もなのです」
この時の為に、私は特訓を始めたのだ。負けてはならぬと気合を入れる。
「美貌は衰えたとしても、知性や品性は年齢で失われるものではないと言います。皆さまも私の容姿を気になさる前に、私と同じように磨かれたら如何かしら?」
これまでは色々言われても気にしないようにしていた。相手にしても良いことがないからと。言い返したのはあの茶会ぐらいだ。
けれど、姉が言うように言われっぱなしも良くはない。言っても平気な相手と侮られていたのだ、私は。
「後に続く者たちに教え諭す立場でありながら、寄って集って一人の女性を虐めるような方にいくら言っても無駄よ、ネリー」
言い返したいのだろうが、言い返せないのだろう。
怒りの感情を剥き出しにして私を睨む彼女たちに笑顔を向ける。
「私は皆さまと喧嘩をしたいとは思っておりませんが、皆さまはそうではないようね?」
ミューエ家、リヒツェンハイン家と敵対する意思があるのかと問えば、令嬢たちの表情に戸惑いが現れ始める。
「……嫌だわ、この程度のことでいちいち家を持ち出すなんて」
そうよ、とあちこちから声が上がる。
彼女たちの言い分ももっともではある。
社交とはこういうものだが、それは敵対関係にあればこその衝突であって。何もないのにぶつかってくるのであれば、それは宣戦布告だと私は考える。
「逆にお尋ねしたいのだけれど、皆さま、親交のあるお家の夫人や令嬢に、貴女の容姿はあまり良くない、などと常々おっしゃるの?」
ぐっと言葉を飲み込む夫人。
ここまでにしようと思う。
私も喧嘩などはしたくない。しても良いことなどない。
「私が未熟なあまりに気に障るのは理解しております。忠告も有り難く頂戴する心積りですが、度が過ぎるようなものや、ただの暴言はご遠慮致します」
夫人や令嬢たちとて努力していることを今更ながらに理解した。美を磨くということは並々ならぬ努力を要する。一日二日ではない。日々の積み重ねだ。
そうして努力を重ね、良き家との繋がりを、良き相手をと切磋琢磨してきたのだ。それなのに頓着しない私のような人間が良家のシュテファン様と婚姻したのだ。苛立つなと言うのは無理な話である。
それと暴言を受け入れるかは別の話だとしても。
「次にお会いした際は、有意義なお話をいたしましょう」
ごきげんようと笑顔で言って、その場を去る。
リヒツェンハイン家の馬車に乗り込む。
「あぁ、やっと言い返せたわ」
とりあえず乗り切ったことに安堵して、背もたれに身体を預ける。
「もっとやり返してやれば良いのに」
ユリアが意地悪な笑みを浮かべて言った。
「そうよ。もっと言っても良いのよ?」
我が姉妹はなかなかに過激だ。二人も私とは違う内容で色々言われているのだから、鬱憤も溜まっていることだろう。
「もっと沢山のことを言おうと思っていたのよ、本当はね」
姉と妹は努力をしている。その努力がそのまま結実する人たちだ。
特訓をして少しはマシになった私と、日々努力する令嬢たちは同じだ。努力を重ねても越えられないものが目の前に常にある。
そんな彼女たちの苛立ちや悔しさは理解出来る。
姉や妹にも苦労はあるし、二人にも越えられないものというのはあるのだろうと思う。
「でもね、彼女たちの気持ちが分かってしまったの。上手くいかない苛立ちを持て余してるのよ」
「だからってそれをネリーにぶつけるのは間違っているわ」
「そうよ」
「彼女たちも分かっているのよ。だから言い返せなくなっていたでしょう? 追い詰めても良いことはないわ。言い返したいとは思っていたけれど、敵を作りたい訳ではないもの」
姉も妹も愚かではない。私の言わんとすることを理解してくれている。それでも自分の姉妹が酷いことをされれば許せない。そういうことだ。
二人が私の為に怒ってくれることが嬉しい。
ずっと、私の気持ちに寄り添ってくれて、私の気持ちを笑うことなく、一緒に悩んでくれたし、特訓についても協力してくれた。
「私はしあわせ者だと気付いたの」
アティカとユリアが私を見る。
「仲の悪い姉妹や家なんて沢山あるわ。伴侶に恵まれない人たちも。
シュテファン様の言葉には傷ついたわ。けれど、それをいつまでも引き摺って、本来得られたしあわせを失うのは愚かだと思ったのよ」
しあわせを己の手で作れるのなら、努力すれば手が届くなら、それは手を伸ばすべきだ。
そう思った。




