95.二人だけの時間
「────ヴィンセントさま」
長い髪をタオルでぐるぐる巻きにして部屋に戻ると、ヴィンセントがソファに座っていた。
どうやらアンジェリカの起床から、誰かが呼びに行ったらしい。
「リジェ」
ヴィンセントが振り向き、アンジェリカに近寄ってくるのを見て、侍女達は退出する。
(…………思い出してしまってダメだわ)
まともに顔を合わせられない。
「執務は……?」
「妻が起きたのならそちらを優先するのが夫だろうに」
「それは……ありがとうございます」
〝妻〟という単語にはまだ慣れない。耳に入る度にドキドキしてしまって、声が小さくなってしまう。
「リジェは疲れているはずだから起こさないでおいて欲しいと頼んだのだが……。体はどうかな」
いたわるように背中にクッションを置いたソファに座るよう促される。
「なんとも言えないです…………それよりもっ!」
アンジェリカはあらわになっている己の首筋を指す。
「こんな、み、見えるところにっ……!!」
告げるだけで恥ずかしくなってしまってわなわな震えながら訴える。
「……しかもわざとでしょう?」
涙目になりながら睨めば、ヴィンセントは声を出して笑う。
「でなければそんなところに付けない」
「私を困らせたいのですか」
「いいや。それに困ることはないと思うよ。リジェ付きの侍女達が綺麗に隠してくれる」
「義姉上や母上の時もそうだったから」とヴィンセントは付け足した。
「そういう問題ではないのです。周りから生暖かい視線を受ける私の心情的に……」
「嫌だった?」
「……意地悪ですね」
アンジェリカの気持ちを知っていての発言だから余計にタチが悪い。目で訴えればヴィンセントは頭に巻いてあったタオルを解いて、妻の髪を丁寧に拭く。
「母上と義姉上が夕食を共にしたいと言っている。身体的に参加出来るかい?」
「多分大丈夫です」
寝起き直後より足腰はしっかりしたし、入浴したことで血行が良くなり、体がほぐれてだるさは減った。
(そうと決まれば……)
「お返事しなければなりませんね」
エディス辺りに言付ければいいだろうか。
「私が言っておくよ。楽しんでおいで」
「……ヴィンセントさまは行かないので?」
「残念なことに貴方は要らないと言われたよ。運がいいのか悪いのか王子に嫁いでしまった女性陣で話がしたいんだと」
「では、陛下やラインハルト殿下も仲間外れに?」
「そうだ。母上は父上に『邪魔したらあなたのことを嫌いになります』と言い、義姉上は『来ないでください』とバッサリ切っていた」
「まあ」
(結構ストレートね)
アンジェリカは婚約期間中、王妃と複数回顔を合わせていた。
義母になった王妃は年齢からは想像できないほど若々しい。義姉になったフィオナとの嫁姑関係は良好そうで、新しく家族になるアンジェリカのことも快く迎え入れてくれた。
王家のしきたりを丁寧に教えてくれて、緊張気味のアンジェリカとの仲を縮める為に何度も茶会に呼んでくれる。
フィオナはフィオナで年齢が近いこともあり、何かと気にかけてくれて、同年代にしか分からないような悩み事の相談も喜んで乗ってくれる。
だから二人が自分の姑と義姉で良かったとアンジェリカは心の底から思っていた。
「……あっ、ということはナターシャ様はいないのですか?」
妹姫の彼女もアンジェリカがヴィンセントに嫁ぐことを歓迎してくれた一人である。
『アンジェリカ様が私のお義姉様になってくれて嬉しいわ!』と本当の姉のように慕ってくれる。
昨日の晩餐会では隣の席だったので色々雑談をし、今度フィオナを入れて出掛ける約束もしたのだった。
「いるよ。義姉上やリジェがいるというのに参加しないわけが無い」
「ならとても楽しい夕食になりそうですね」
今からワクワクする。
「約束は夜だからそれまで部屋でゆっくりしているといい」
その言葉にアンジェリカはちょっと考え込む。
「……部屋の外に出てもいいですか」
「構わないけど。何処に行くの? 私的には動かないで身体を休めて欲しいのだけど」
「庭園に行きたくて。今日は天気が良いですし、花の香りの誘惑が……」
開け放たれた窓から風に乗って漂ってくるのだ。
「ヴィンセントさまもどうですか。執務に余裕があったらになりますが」
「行くよ」
即答だった。ヴィンセントの返答に、アンジェリカは顔をほころばせる。
(こればかりはテオも許してくれるはずだ)
今のヴィンセントにとってアンジェリカの誘いより優先順位が高いものはなかった。
そもそも式の翌日に仕事が入っているのがおかしいのだ。新婚なのだから妻を優先しても咎められることはないだろう。
「決まりですね」
外に出ていた侍女を呼び、アンジェリカは簡易的に服装を整えてからヴィンセントと一緒に庭園に足を運ぶ。
暖かい季節ということで、咲いている花々の種類や彩りも豊富だ。二人は手を繋ぎながら整備されたレンガ道を進む。
時折立ち止まって鑑賞しながら庭園をぐるりと一周した。
「戻ろうか」
「そうですね。旦那さま」
さりげなく呼び方を変えれば、ヴィンセントの歩みが止まる。アンジェリカが密かに企んでいた、夫を驚かせるという些細な仕返しは成功したようだ。
「これはもう一回聞けるのかな。不意打ちすぎて……まともに耳に入らなかった」
「ヴィンセントさまが望んでくれるのならば。実は結婚したら替えようとずっと考えていたので」
どのタイミングで切り替えるのか、機会を窺っていたのだ。
「リジェと呼ぶのがヴィンセントさまだけのように、旦那さまと呼べるのは私だけの特権です。呼ばないのはもったいないと思いまして」
「そっか」
「──前の方がいいですか?」
言葉の代わりにぎゅっと握る手の力が増す。
「ふふっではこれからは旦那さまと」
ヴィンセントはほんのり耳を赤くしている。いつもと逆の立場になって、アンジェリカはクスリと笑ったのだった。




