89.貴女の幸せは私の幸福
「アンジェ着替えは終わった?」
「バッチリですお母様」
衝立の後ろからシンシアが現れる。愛娘の着飾った花嫁姿を見て、シンシアは嬉しさと同時に寂しさを感じた。
「ちょっと前まで床をハイハイしていたのに……あっという間ね」
涙が滲んでそっと取り出したハンカチで拭う。感傷に浸りながら、アンジェリカの後ろに流れるヴェールを手に取る。
「私達のアンジェだったのに。これからはヴィンセント殿下のアンジェになるのね」
慈しみ、愛し、成長を見守った我が子が自分の手を離れるのはとても悲しい。このヴェールを降ろすのが終われば、母として見守ってきた役割はアンジェリカの夫になるヴィンセントに引き継がれる。
邸宅に娘の笑い声が響くこともなくなり、毎日顔を合わせることもない。十数年間の当たり前が変わり、しばらくは慣れないことだろう。
それでも、親として切に願うのは子供の幸せだ。
(恐怖を克服して、アンジェは愛する人と結ばれるのだから笑って送り出さなくては)
結婚したい相手がいると、しかもその相手がヴィンセントだと娘から聞いた時、真っ先にアンジェリカの味方になったのはシンシアだった。
(だってあんなに嬉しそうに話していたんだもの)
娘はいつの間にか慕う人がいて、でも貴族ではないから諦めなければと思ったらしい。しかしそれは間違いで、相手はヴィンセント殿下だったと。
それがシンシアの片想いで、愛のない結婚だと勘違いしていた過去と重なった。
実はシンシアは自身の結婚を、最初は政略結婚だと思っていた。
元々伯爵家の娘であったシンシアにとって、突然舞い込んできた公爵家の嫡男のアランとの縁談は予想外だったのだ。
(……アラン様と?)
聞いた時、ドクンっと早鐘を打った。たった一度だけ彼と話しただけなのに、その際に淡い恋心を抱いていたのだ。
柔らかく笑った彼が脳裏に焼き付いている。
(…………アラン様は私を愛すまではいかなくても、妻になったら優しくしてくださるかしら)
そんな愚かな期待は直ぐに打ち砕かれた。
何故なら会ったアランは無表情を貫き、シンシアに冷たい反応だったから。
お試しに開かれた茶会で話を振っても寡黙で「ああ」とか「そうか」とか、それくらいしか返ってこない。しかもちらちらシンシアを見てくるのに、目を合わせればそっぽを向く。
終わる頃には何か事情があって嫌々シンシアを選んだのだとしか考えられなかった。
それからも何回か二人は顔を合わせた。シンシアは頑張って会話をしようとした。笑みを絶やさなかった。だけど全部同じような結果で。半ば距離を縮めるのは諦めた。
(嫌なら嫌だと言ってくださればいいのに)
帰っていくアランを見送りながら、恨みがましく心の中で悪態つく。
父の話によれば、アランの父であるウォーレン公爵から持ち込まれた縁談らしい。つまり彼の意思で結ばれた婚約ではないのだ。
愛し合っていないのだから、結婚まで顔を見せに来なくていいはず。けれど彼は律儀にも毎週シンシアに会いに来る。それが逆に惨めにさせた。
エントランスに向かっていた彼の足がピタリと止まる。
「…………アラン様? どうしましたか?」
慌てて駆け寄ればアランと目が合った。凪いだ瞳は真っ直ぐにシンシアを射抜いている。
「…………は」
「はい?」
ボソリと呟かれた言葉が聞き取れなくて、聞き返す。
「──何の、種類の花が好き?」
たった一言。初めての質問だった。会話が続くというか、話をするのを諦めていたシンシアは、まさか質問されるとは思わず、ぽかんとしてしまう。
「ま、マーガレット……が好きです。綺麗なので」
「……そうか」
反応はいつもの通り。アランは満足したのかスタスタ帰っていってしまう。
(何で急に)
答えが判明するのは次週だった。彼はマーガレットを主に使った花束を持って現れたのだ。
「貴女が……好きだと言ったから」
その言葉と共にシンシアは受け取った。
「…………ありがとうございます」
花束に顔を埋める。ぽかぽか心が温かい。
だけどそんなシンシアを見てアランは無表情になってしまって。ズキズキ心が痛くて我慢できずに吐露してしまった。
「──アラン様は私のことお嫌いですか?」
反応が怖くて俯く。
「……誰が貴女にそう吹き込んだ」
彼の声が低くなる。怒らせてしまったのかもしれない。心臓が縮む思いをしながらも答える。
「いえ誰も。ただ、この婚約は政略ですよね。だから……」
「ちがうっ」
肩を掴まれビクッとなる。
「政略じゃない」
「では何ですか」
アランが僅かに気まずさを滲ませる。
「…………私が望んだんだ。父の権力を使って」
「はい?」
聞き間違えだろうか。今、望んだと聞こえた。
「一目惚れだった。半年前の王宮での夜会で貴女を見かけた時から」
ぽつぽつと語りだす。
「本当はもっと交流を持って親しくなってから求婚するつもりだった。父を通さず自分で」
「……しなかった理由は?」
「他の者との政略結婚の話を知り、猶予がなかった。公爵家からの縁談をぶつければこちらを選ぶだろうと」
これまでが嘘のように流暢に話す。
「婚約が結ばれた時はとても嬉しかった。貴女を手に入れられたから」
「それは私のことが好きだということですか?」
「──そうだよ」
「なら何故私に冷たいのですか? 話を振ってもうわの空の相槌ばかりで……アラン様の言葉は信じられません」
軽く睨めばうぐっと彼は言葉を詰まらせる。
「…………いざ貴女と会うと、権力を盾にして選択の権利を奪ってしまったかのように思えて…………罪悪感があるんだ」
確かに公爵家からの縁談となれば伯爵家のシンシア達は滅多に断れない。
「酷いことをしたのだと後から思った」
項垂れるアランの頬をつまむ。ビョーンと引っ張って手を離した。
「本当に酷いですね」
「すまない」
今の話からどうやら自分のことが嫌いな訳では無いらしい。
(反省するところが間違っているわ)
「アラン様」
「ん?」
「ちょっと屈んでくださいませ」
もやもやしていたのが馬鹿馬鹿しい。もっと早く聞けばよかった。
「このくらい?」
「ええ」
背丈が同じくらいになったのを見計らって彼の額を指で弾いた。
「?」
アランは額を押えて何が起こったのか理解していない。
「アラン様との婚約は嫌々受け入れたわけではありません。私もお慕いしておりますよ」
「まさか」
アランは僅かに瞠目する。
「だから無表情はやめてください。きちんと言葉にしてください。嫌われ、ていると……勘違いして……しま、います。私、アラン……様に、とって、嫌な……相手なのだと」
言いながら何故かポロポロ涙が出てきてしまう。手で拭っても拭っても溢れる。
「あああ! すまない。先程のに加えて、貴女と話すのは毎回緊張してしまって……泣かせるつもりはなかったんだ。どうしたら泣き止んでくれるのだ……」
アランはずっとシンシアに謝っていた。
それからのアランは、今のアランと同じである。
愛し、愛され、二人の宝が産まれた。その内の一人が今日巣立つ。自分と同じように愛する者の元へと。
回想を終えたシンシアはゆっくり愛娘のヴェールを降ろす。
「幸せにならないとだめよ?」
「もちろんです。お母さま」
刺繍が施されたヴェール越しに母娘は微笑んだ。




