87.生涯唯一の
「義姉上に何を言われたの?」
後ろからアンジェリカを抱きしめていたヴィンセントは移動して隣に座った。
「秘密……です。でも、そんなに重要なことではありません」
すんなり伝えてもいいのだが、何だかそのまま教えるのは勿体ない気がして焦らしてしまう。するとヴィンセントの手が伸びてきて、むぎゅっと頬を押される。
「リジェ」
「ひゃっひゃい?」
むにむに彼の手は止まらない。上手く言葉が紡げなくて変な声になってしまう。
「教えてくれるまで続けるよ」
「ひょっひょれは! ひひょう!」
ぶんぶん首を振ってアンジェリカはようやく抵抗を始めた。空いていた両手でヴィンセントの手を掴み、頬から引き剥がした。
「……フィオナ様は私に『覚悟しておいた方がいい』と仰っただけです」
言われたこと全てを直接ヴィンセントに伝えるのは恥ずかしくて、軽く省く。
「何の覚悟?」
「それ、は」
「──リジェ」
囁くように、乞うように名前を呼ばれて。それだけでアンジェリカは抗えない。
「……王家の男性の方はその、愛した人に対する想いが強いと。だから結婚後は──……っ~~!」
(まただ)
一生懸命説明しようとしていたのに途中でヴィンセントに唇を塞がれてしまった。されるがままになってしまって、唇が離れていくのを待っていることしかできない。
ようやく自由になったアンジェリカは酸欠でくらくらしながら抗議の声をあげる。
「いじわるするヴィンセント殿下にはもう言いませんっ! フィオナ様からお聞きください」
プイッとそっぽを向く。
「怒った?」
悪い事をしたとは思ってないらしい。口元が緩んでいる。
「怒っています。だっていつもですもの!」
このようなことになるのは初めてではなかった。ちょっと隙を見せたら最近奪われている。
「そう言っても、本気で怒っているところは見たことないんだけどな」
「…………」
図星だった。何も言い返せない。
口づけ自体が嫌な訳では無いので本気で怒れずなし崩しになってしまうのだ。
「……まあ、覚悟していてくれるならそれに越したことはないよ。義姉上が言ったことは事実だから」
ヴィンセントはアンジェリカの髪を弄ぶ。くるくる自身の指に絡めて解いていく。
「血に刻まれているのかな。他国の王族は側室とかを持つし、この国でも側室を持とうと思えば持てるのだけど……基本的に一人しか妻を娶らない」
今度はするりと手を取られ、ヴィンセントの手が指先をなぞる。そこには先日貰った婚約指輪がはめられていた。
アンジェリカの華奢な指に合うように職人が作った特注品。宝石にはエメラルド、つまりヴィンセントの瞳の色だった。同じようにヴィンセントのものにはブルートパーズが使われている。
最初はアンジェリカの婚約指輪にブルートパーズが使われていたのだが、アンジェリカはわがままを言って宝石だけ交換してもらったのだ。
せっかくなら彼の色のを纏っていたい────と。
あくまでも婚約指輪であり、結婚指輪はまた違うものが制作されている最中。こんな素晴らしいものなのに、指にはめていられるのはあまり長くないのが口惜しい。
初めてはめた時の高揚感は言葉には言い表せないほどだった。そしてその時やっと彼の婚約者になったのだと、実感が湧いた。
そんなことを考えていると、ヴィンセントは話を続ける。
「父上は今でも母上にぞっこんで、『寝室を別にいたしましょう』と母上が嘘をついたらすっかり騙され、一日中しょげて執務に手が付かなかったくらいだ」
「まあ」
思わず口元を押える。
(一度、お話させていただいたけれど、凛々しいお方だったわ。全然想像つかない)
「兄上は先程ので分かるだろう。義姉上に何かあると飛んでくる」
ラインハルトに詰められ、観念したかのようなフィオナを思い出す。
「私だってもう離してあげられない。だから大人しく嫁いできてね」
「…………〝大人しく〟とは私がほかの殿方に目移りすると思われて?」
心外だとばかりに軽く頬を膨らませればくくっと笑い声をもらす。
「いいや。そうではなくて、私の周りで最近リジェが話題になっているからね」
「なぜ?」
噂になるようなことはしていない。まして子息達の中でなんて。
「君が美人で可愛いからだよ」
「…………それがどうして繋がるのですか」
アンジェリカの中で見知った男性と言えば、家族を除いてベネディクトとヴィンセントにテオ。それにナディアの婚約者くらいである。他の者は過去に知っていたとしても、今は見ず知らずの人。関わりは何もなかった。
「自分達にもチャンスがあったとか何だとか言っていたな」
ヴィンセントは言葉を選びながら言った。
(チャンス…………)
なぜなら元々アンジェリカは見目がいい。鮮やかな珊瑚色の髪に、王家以外では珍しい宝石瞳。ぷっくりとした薄紅色の唇に、日焼けを知らない白い肌。
小さい頃からベネディクトという婚約者がいたから近づいてくる男がいなかっただけで、アンジェリカに婚約者がいなかったら求婚の手紙が舞い込んで来たはずだ。
それに公爵家の人間として厳しい淑女教育も受けていて、泣く子も黙ると噂される家庭教師からお墨付きをもらっている。
上に立つ者として、過去のアンジェリカは努力しているのだ。礼儀作法は体に染み付いてるから今のアンジェリカも助けられている。
加えて今一番力を持っていると言っても過言ではないウォーレン公爵家の一人娘。力をつけたい他家からしても、アンジェリカとの縁談は喉から手が出るほど欲しいのである。
まあ、それも婚約破棄による傷物でなければの話だが。
「正直なところ、私はタイミングが良かっただけだと思っている。だからあの場にいたのが他の者だったら、今頃リジェは──」
「他の子息の婚約者だったかもね」と冗談とはいえ、彼がそんなことを言ってくるから。アンジェリカは前のめりになって訴えた。
「絶対にありません。ヴィンセント殿下だからあのような出会い方でも好きになったのです」
自分が映る翡翠の瞳と目を合わせて。
「私が愛しているのはヴィンセント様だけです。殿下は違うのですか?」
珍しく恥らわないでまっすぐ愛を伝える。
ヴィンセントは答える代わりにアンジェリカと額を合わせた。
そうしていつもより至近距離で微笑むのだ。
「まさか。私もリジェだけだよ」と




