82.君が寝ている間に
放置していたらアンジェリカは自分自身を傷つけるだろう。だから嫌われるのを承知の上で抱きしめた。
アンジェリカは最初抵抗していたがそのうち大人しくなり、ひたすら涙を流し続ける。
そうして彼女を呼んだ。
するとようやく顔を上げ、幼子が母親に泣きつくような、縋り付くような表情でヴィンスと名を連呼する。
ぎゅうっと抱きついて離してくれない。
アンジェリカは必死に何が起こったのか説明しようとする。けれど嗚咽が酷くて途切れ途切れになってしまっていた。
「充分伝わってるよ。謝らなくていい。無事で──よかった」
後頭部に手を添え、背中を優しくさする。
「…………よく耐えたよ。頑張ったねリジェ」
すると突然アンジェリカが傷ついた唇を擦り始めた。ヴィンセントはぎょっとして止めに入る。
「傷つくじゃないか」
アンジェリカは顔を歪める。
「それでも。だ、だめなのです。く、口づけされたのが……おぞましくて、汚いって思ってしまって。私の唇も──汚れて気持ち悪い」
(そんなことないのに)
当事者でないからそう思うのかもしれない。しかしアンジェリカを慕うヴィンセントにとって、汚れているとは感じなかった。
代わりにベネディクトに対する怒りだけが募っていく。
(どうしてあいつはリジェを)
不貞を働き、アンジェリカを捨て、破棄後もこのように傷つけるのだろうか。
(私だったら絶対にしない)
「触れられて、汚れて気持ち悪い……か」
心の中で呟いたはずが表に出ていた。
「は……い。いや……なの。だって、あんなっ! ベネ、ディクトだけは嫌だった……のにぃ」
掠れた声。アンジェリカはぶわりと涙をあふれさせ、縋るようにヴィンセントの胸の中に顔を埋めた。
(言葉で表しても伝わらなそうだな)
先程も声をかけただけではダメだった。抱きしめて落ち着かせてからようやく届いたのだ。
だからヴィンセントは行動で示した。
アンジェリカのおとがいに手を置き、上に向けさせる。そのまま血が垂れている柔らかい唇を奪った。
錆びた鉄のような味がする。目の前にはきょとんとしているアンジェリカの姿。びっくりしたのか涙は止まっていた。
口づけを止めた時にはアンジェリカは真っ赤になっていて。嫌そうではないことに安堵する。
ヴィンセントはハンカチを取り出してアンジェリカの唇を覆う。
そうして今度こそ言葉で告げた。
「私の中ではリジェは何処も汚れてなどいない」
アンジェリカは目を見開き、それから俯く。ぎゅっとヴィンセントの服を掴んで体を丸めた。
もう少しこのままでいて欲しいという彼女の願いを叶えるために、ヴィンセントは動かず抱きしめた体勢を保った。
十分ほど経ってアンジェリカの体から力が抜ける。ぽてんとそのままヴィンセントに寄り掛かった。
(気が抜けて寝たのかな)
そうっと体を動かし、様子を窺う。
「…………移動して起きないといいけど」
流石に馬車の中でアンジェリカが起きるまで待っていられない。連れがいるのか分からないが、もしそうならば相手は彼女のことを探している。
ヴィンセントは起こさないように慎重に抱き抱えて外に出る。外で待機していたテオにアンジェリカの正体を伝えていると、町人に扮した騎士の一人が報告した。
「殿下、ヴァイン家のご令嬢がウォーレン家のアンジェリカ嬢を探されています。確か殿下が仰ったお方も彼女と同じ珊瑚色の髪の方ですよね」
「……そこと一緒だったのか」
なら腕の中にいる彼女がめかしこんでいるのも納得する。友人と出かけるならば、普段見ている服装と違う姿にもなるだろう。
「ナディア嬢は何処にいる?」
「数分歩いた先です」
「なら私が向かおう。案内して」
「はい」
「あとは……テオ」
テオはベネディクトを睨みつけていた。呼ばれて顔を上げる。
「そいつをブライス侯爵家に連れて行け。そしてどうしてこのようなことが起こったのか、聞き取ってこい。先程言った件も話をつけろ」
「──かしこまりました」
テオは頭を下げて、もう一人の騎士と一緒にお縄になり、気絶したベネディクトをずるずる引きずりながら姿を消した。
「殿下こちらに」
騎士に案内され、ヴィンセントもこの場を後にする。馬車等の後始末は他の者がやってくれるだろう。
「────アンジェっ!」
ぽろぽろ涙を零しながら今か今かと待っていたナディアは、アンジェリカを視認して直ぐに駆け寄った。
「ごめん……ごめんね。私が離れてしまったから」
ナディアは眠っているアンジェリカに許しを乞う。
「わたし……まさか、こんなことになるなんて」
ぼやけた視界の中、友人を助けてくれたらしいヴィンセントをナディアは見上げた。
「アンジェを助けて下さりあり……っ!」
瞬きをしてはっきりとした青年の顔。ナディアは気付いてしまった。
「…………まさか」
「普通、貴族でこんなに至近距離で話をすれば、君のような反応になるはずなんだよね」
ヴィンセントは苦笑する。
「どうも。ナディア・ヴィア・ヴァイン嬢」
「──ヴィンセント殿下。何故ここに……居られるので?」
はしたないが、ぽかんとナディアは口を開ける。
本来、ヴィンセントはここにいるはずがないのだ。抱き上げているのもあり得ない。
でも、見間違えはない。たとえ蒼髪ではなく、宝石瞳でなくても。
瞳の色は透き通った翡翠で。顔立ちは変わらないのだから。
「兄上の代わりに視察に来た。偶然アンジェリカ嬢を見かけてね」
ヴィンセントは隠すつもりがなかった。顔を見破られているのだから無駄なのだ。隠す方が不自然である。
「ひとつ言っておきたいが、アンジェリカ嬢は私の正体を知らないんだ。彼女の中では平民のヴィンスになっている。だから秘密にしてくれ」
ナディアはこくりと頷くが、いつ二人が出会っていたのかなど疑問は解消されない。しかし今はそんなことを考えている場合ではなかった。
「アンジェリカに何があったのですか」
服と髪が乱れ、顔には涙の跡が残っていた。
「…………強姦を……その身を犯されそうに」
あまり令嬢の前で出したくない単語だった。
「誰がそのような真似を」
「──ベネディクト。婚約破棄したはずのブライス侯爵家の子息だ」
その後のナディアは怒り心頭で。何とかヴィンセントが宥めた後、彼女はアンジェリカと一緒に馬車に乗った。
「ヴィンセント殿下ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
「大袈裟だよ」
「いいえ、元はと言えば私と私の護衛が気を抜いたのが悪いのです。彼らには後で罰を受けさせますので」
ナディアはキッパリ言いきった。そうして馬車は滑り出したのだった。




