75.終わりと始まり
「すみ、ませ……ん。泣くところ……ないのに」
ゴシゴシ目元を擦る。
「ヴィンス様も結婚なされるのですね。おめでとう……ございます」
笑おうとするのに歪んでしまう。
「…………待って、何か誤解してない?」
ヴィンスはアンジェリカの涙を拭きながら続ける。
「私は婚約を結ぶつもりないんだけど」
「だってあの方が……いま、婚姻を受け入れたって」
涙を流しながらテオの方を見る。
「いや、仮にあったとしても私の意思ではないから。そんな話今知ったし……」
「確認してから来ましたが、間違いではありませんよ。以前、〝利益になるなら婚姻する〟とお父上の前で言いませんでしたか」
「………………言った気がする。だが一年くらい前だ。結婚回避のために場繋ぎで伝えただけで」
「あの方は本気で受け取って、覚えておいでなのですよ……」
ヴィンスは複雑な表情を浮かべていた。
アンジェリカには彼らが何を話しているのか理解できない。ただ唯一分かるのは、彼に婚約の話が来ている事だ。
ぎゅうぎゅう心臓は痛くて、まるで鷲掴みされているかのよう。涙は止めようとしても溢れてきてしまう。
(全然蓋できてない……)
会う度に想いは募って、大きくなって。どうしようもなかった。
だけどこれも今日で終わりだ。完全に諦めなければならない。
(本を読む気分ではないわ。帰ろう……)
そう思って二人の会話に口を挟む。
「私、用事を思い出したので帰りますね」
立ち上がろうとすれば、手を掴まれて。あっという間にヴィンスの胸元に引き寄せられる。
「待って、行かないで。リジェはまだ誤解してる」
耳元で囁かれ、ぞくりと震える。
「誤解……とは? それに話のお邪魔では?」
あくまでも帰るのは乱れる心のせいではないことにしたい。このまま離して欲しかった。
「邪魔ではない。急いでいるなら離すが……そうでないだろう? きちんと理解してくれるまで帰さない」
既に背中に腕を回されがっちり捕らわれている。足掻かせる隙も見せないくらいに。
おまけにヴィンスの鼓動が聞こえてくるほど密着していて、少しの間悲しみを忘れてアンジェリカは真っ赤になってしまう。
ヴィンスはアンジェリカを胸の中に収めたままテオと会話を続ける。
「父上は乗り気なのか? というか何故私のところに話が来ないんだ」
「乗り気ですよ。来なかったのは取り付く島を与えてくれないからと仰っておられました。まあ、兄君はご存知でしたが……」
「…………兄上は知っていたから、あの時意味深なこと言ったのか。誤魔化さないで教えてくれればいいものを」
ヴィンスは頭を掻く。
「このまま進めても良いのなら別に構いませんが」
「──そんなはずない。断るに決まってる」
アンジェリカを抱きしめる腕に力がこもる。
「なら早くご自身の考えをお父上に伝えてください。貴方様の中では随分前から選択肢はひとつですよね? なのにうだうだしていたから」
「していたつもりは──」
「周りからしたらそうなのですよ!」
テオはヴィンスにキツく言い返す。この優柔不断な人は心底想っている人がいるのに、中々最後の一歩を踏み出そうとしない。
相手の事情が事情なので、積極的にいけないのは仕方の無いことだろう。それにしても進展がゆっくりで急かしたくなる。
「……説得すれば間に合うのか」
「もちろん。貴方様の意見待ちです」
「潮時か」
ヴィンスは自分の欲するものを手に入れるためにどうするか考える。
自分のとるべき行動は頭の中にあるが、唯一の懸念が払拭されていない。
「──リジェ」
「はい」
アンジェリカはまだグズグズと瞳を涙で濡らしていた。
「私のことをどう思う?」
「……一緒にいてとても楽しいひとです」
さすがにこの場で告白する勇気はなくて。ありふれた答えになってしまう。
「こうして触れても怖くない?」
「ええ」
その返答に安堵したらしい。ほっと息を吐いて珊瑚色の髪をアンジェリカの耳にかける。
「私の方がちょっと重いかな」
「え?」
ヴィンスは未だに留めなく零れていく雫に口づける。
「怒らないで欲しいが、私はリジェをずっと騙している」
唐突な告白にアンジェリカはついていけない。
目をぱちくりさせ、キョトンとする。
「最初は図書館で遭遇した、親しくはないけど顔だけ分かるような間柄のままかなって思ってた。途中から変わったけどね」
懐かしむようにヴィンスは言う。
「でも、このあやふやな関係は限界みたいだ。周りは許してくれない。立ち位置をはっきりさせなければ」
「それはどういう──」
「隠し事を、騙してた事を、そんなに多くはないけれど全部話すよ」
降ろしていた髪を掬いとられ、そうっと口づけされた。その後に額にも唇が落ちる。
「だから卑怯で、我儘な私を受け入れてくれると嬉しい」
固まってしまったアンジェリカを解放し、ヴィンスは柔らかな声色で言う。
「次、会う時は笑った可愛い顔を見せてね」
ヴィンスはそのままテオと共に去っていって。残ったアンジェリカの頬を、やさしいそよ風が撫でていく。
ヴィンセント殿下から王宮に来るよう書簡が届いたのは、それから一週間後のことだった。




