62.忘れて欲しい乙女心
アンジェリカの目が覚めたのは翌日の昼のことだった。
(どこ……)
覚醒しきってない中、上半身を起こす。
ぼーっと正面にある壁を眺めると見慣れた壁であることに気がついた。
「わた、しの部屋」
意識がハッキリしてくるとズキズキと頭痛が襲う。頭に手を当てながら床に足を着いた。
(何でここにいるんだっけ。確か──)
走馬灯のように昨日の記憶が蘇ってアンジェリカはへなへなとしゃがみこんでしまった。
ひんやりとした床は体温を奪っていく。
(夢、じゃないよね)
いきなりベネディクトに襲われて。抵抗したくても出来なくて。
思い出すだけで吐き気が込み上げ、めまいがしてくる。
「……アンジェちゃん?」
静かに開けられたドアからシンシアが顔を覗かせていた。
アンジェリカは母の姿を目に捉えた瞬間、意識していないのにぽろぽろ涙をこぼし始めた。
「おかあ……さま」
転びそうになりながらシンシアの胸に飛び込んだ。
「アンジェ、ごめん、ごめんね」
ひしと抱きしめたシンシアはアンジェリカと共にずるずる絨毯の上に座り込む。
「これ以上貴女に嫌な思いさせないって約束したのに。前回以上の辛い記憶を植えつけてしまったわ」
まるで自分の責任とばかりにシンシアは言う。
アンジェリカは首を横に振った。
シンシア達にとってもベネディクトがあの場にいたことは想定外だろう。でなければ外出なんて許すはずがない。許したとしても、護衛をもっと付けるはずだ。
「…………お母様ね、今度こそアンジェが全部の記憶を失ってしまうのかって凄い怖くて。心配で心配で」
「そんなこと……」
ない、と言おうとして口ごもる。
たぶん、最後まで行われていたらシンシアの心配通りになっていたから。
「だから、無事に戻ってきてくれてありがとう」
その言葉にぶわっと目から涙が溢れ出る。
心のタガが外れて、弱音と恐怖と、家族にしか言えないような感情を吐き出す。
「わたし、怖かったです。とてもとても怖くて」
「ええ」
シンシアの抱きしめる力が強くなる。
「ベネディクトの声も、顔も、手も、存在までが嫌で。気持ち悪くて吐き気がして。やめてって嫌いだって叫んだのに、あの人の手が足に伸びて、強引に私を汚そうとした」
思い出してしまって、声が震えてしまう。
「喉が裂けてしまうくらい叫んだの。でも、誰も、助けてくれないって諦めたら目の前が真っ暗になって…………ぎゅっと瞳を閉じた。そしたら……一人の男性が、わたし……のこと、助けてくれて」
はっと思い出す。ヴィンスはアンジェリカの家を知らないはずなのに、何故自分はここにいるのだろうか。
「あっあのっ! 私を家に帰してくれたのは誰ですか」
「ナディアさんよ。泣いて謝罪しながら。貴女のせいではないわって言っておいたけれど」
ということはつまりヴィンスにアンジェリカの素性は知られていないようだ。
「彼女からはヴィンス様という殿方に助けてもらったと聞いたわ。たまたまあの場に居合わせたらしいわ。そしたら引っ張られている令嬢を見かけて、違和感を覚えて追いかけてくれたみたい」
(たまたまで……助けてくれたんだ)
あんな大勢が歩いている中で気付かなくてもおかしくないのに。むしろその可能性の方が高かったのに。
「無事に起きたとアラン達が知ったら喜ぶわ。今日は二人とも邸にいるから後で────」
「なら、いますぐ行ってきます」
シンシアの言葉を遮ってアンジェリカは立ち上がった。
「でも、今二人は」
「お母様、お兄様達はどちらに?」
早く元気な姿を見せたかった。そして抱きつきたかった。
「書斎よ。だけど……あっ」
「ありがとうございます」
アンジェリカは最後まで聞かずに自室のドアを開けて廊下に出てしまう。
「…………今ヴィンセント殿下が来ているって言えなかったわ。大丈夫かしら」
シンシアのひとりごとは空中に溶けていった。
◇◇◇
「──お父さ……きゃぁっ!」
ズベッと転びながらアランの書斎の扉が開かれた。
早く会いたくてたまらなくて、バランスを崩したまま扉を開けたのが悪かったのだ。そのままふかふかの絨毯にダイブした。
「いたた……」
一番最初に目に入ったのは唖然としているアランとウィリアムだった。
「アンジェっふ、服!」
「へ?」
ウィリアムが慌てて自身の上着を脱いでアンジェリカにかける。
「私達の他に客人がいるんだよ」
耳元に囁かれ、視線を左にずらす。そこにはソファに腰を下ろした青年が、両手を前で組みながら硬直していた。
アンジェリカは起き上がりながら誰だろうかと考える。
(身内ではないよね? 笑うならまだしも、どうして固まって──)
「あっ」
そこでネグリジェ姿だったことに気がついた。
ウィリアムが慌てて自身の上着でアンジェリカを隠そうとしたのも、こんな無防備な姿を晒していたからだった。
羞恥心から真っ赤になって上着を握りしめた。
(やっやっちゃったわ……うぅ)
こんなあられもない姿を赤の他人になんて。仮にも高位貴族の娘なのに恥さらしもいいところだ。
ウィリアムは己の背にアンジェリカを隠す。
「妹の服装、見てないですよね」
ウィリアムは軽く睨みつけるようにそこにいたもう一人の青年に対して問う。
「…………」
兄の背中から顔だけ出して窺う。青年の耳がうっすら赤いのは気の所為だろうか。というか気の所為だとアンジェリカが思い込みたい。
「──見ましたか」
ちょっとキツめにウィリアムは言う。
「…………淡い紫のネグリジェ……これは……不可抗力だよ」
罪を告白するように若干目を逸らしながら青年は答えた。
(やっぱり見られてた)
いや、それよりも。
「な、な、なんでヴィンセント殿下がここに……いるのですか……」
蒼髪と服装からようやく、客人が誰なのかアンジェリカも分かった。
悲鳴を呑み込みながらできる限り冷静に尋ねる。
(この世で多分一番見られたら、だ、だめなっ……! 人、よね)
家族以外の男性にネグリジェ姿を見せるのは言語道断だ。ましてや王族であるヴィンセント殿下にだなんて、一生の恥である。
(地面に埋まりたい)
兄の背に隠れながら、アンジェリカはそう思ったのだった。




