06.きらいなひと
「……忌々しいことにその通りだよ」
誤魔化せないと判断したのか、頭を無造作に掻きながらウィリアムが答えた。
「わた……しの?」
自分自身を指差す。兄にはまだ、婚約者はいなかったはずだ。そもそもベネディクトというのは男の子に付ける名前のはず。
「そうだよ」
「…………」
(ブライス家は侯爵家だわ。悪い噂は……ううんなかったはずよ)
婚約相手としたら申し分ない。なのに心がざわめき立ち、彼を──名前だけで拒絶している。
そして案の定何も覚えていない。婚約者なら会ったことがあるはずなのに。
(私はそんなに婚約者のことが嫌いだったのかしら)
「うーん、それは後にしましょう。今は喪失範囲を確定させるのが先ですから。他に貴族の名前を覚えていますか?」
アンジェリカの言葉を紙に書き留めながら、医者は促す。
「家名なら……」
直ぐに貴族名鑑が頭の中で開かれる。アンジェリカはこの国の爵位を持つ家を全て暗記していた。
「ファーストネームは? お嬢様の御友人様とかです」
「それは……思い出せません」
首を横に振った。頭の中の貴族名鑑には下の名前にぼかしがはいっている。
それに自分に友人は居たのかさえ、記憶が無かった。
「ふーむ。一部推測が混じりますが診断は付けられます」
医者は万年筆にキャップをつけて、紙をつつく。
「まず、アンジェリカお嬢様は精神的ショックによる記憶喪失で間違いないです。で、ここからなんですが……」
「戻るのか?」
アランが我慢できなくて言葉を遮る。
「半々ですね。心が癒えて取り戻す方もおられますが、忘れたままの方もいます」
バッグから薬剤の入った瓶を取り出す。
「喪失した箇所は恐らく、他人と関わった間の記憶です。だから書物に書かれているものは覚えていて、身に付けたマナーも忘れていない。が、御家族以外の方を覚えてない」
瓶の蓋を開け、錠剤を確かめる。
「男性の顔が塗りつぶされているのも精神的ショックから。こちらが治るかはアンジェリカお嬢様にかかっています」
「私……?」
「はい。記憶喪失とは違って、少しずつ慣れていけば拒絶反応が出なくなりますよ」
安心させるように医師は頷いた。
「なら、治ったら……婚約者? 様のところに嫁がないといけないのかしら」
(嫌だな)
思わず眉間に皺を寄せる。
「いやぁアンジェ、そんなことには死んでもさせないから安心して。そうですよね父上」
「ああ」
アランは即答した。娘をこんな状態になるまで追い詰めた家に嫁がせるわけがない。
「よかったです。我儘言ってはダメですけど……行きたくなかったので」
本音だった。相手には悪いが、今の自分にとって見ず知らずの人であり、嫌な感情が生まれる者のところには嫁ぎたくない。
「そもそもまずは療養しないといけません。ゆっくり休んで、心を癒してください。でなければ黒く塗り潰される症状も治りません。薬を処方しますので毎日飲んでくださいね」
医者は手に持っていた瓶と使用方法を書いた紙をシンシアに渡した。
「それでは三日後にまたお訪ねします」
アンジェリカはぺこりと頭を下げて見送った。
「あっ」
「どうかしたの?」
アンジェリカは一番重要なことを聞くのを忘れていた。
「お母様、私が記憶をなくした理由をご存知ですか」
「それ……は」
「知っているのですね」
シンシアはアンジェリカから視線を逸らす。それはウィリアムとアランも同じだった。
(ああ、大体読めたわ)
起きてから今までのやりとりを合わせれば、自ずと答えは出てくる。
「記憶喪失の原因に──私の婚約者が関わっているのですね。そしてそれは昨日の出来事だったと」
身体は覚えているのだろう。俯けば、シーツを握った手が小刻みに震えていた。
アンジェリカにとってそれほど嫌な出来事だったらしい。
「あまり……いい話ではないわ」
シンシアが眉を寄せた。
「ええ、分かっているつもりです。だって記憶がなくなってしまうほどですもの」
自嘲気味に笑う。並大抵のことでは今の状態にならない。
(どうしてなのか知りたい)
だけどアンジェリカの心が聞くな、そう言っている。
心の安寧を保つなら今はやめた方がいいだろう。減るものではないし、多分聞く機会はいつでもあるから。
しばらく考えた後、アンジェリカは口を開いた。
「──教えてください。昨日、何があったのかを」
体調と天秤にかけた結果、聞かなければいけないと思った。
「分かったわ。後で人づてに聞いて傷つくくらいなら今がいいわね」
シンシアが「二人は男だから」とウィリアムとアランを部屋から追い出す際に、一人の侍女を呼ぶよう言付けた。
それは昨日、アンジェリカの付き添いとしてブライス家に行ったエディスだった。