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05.婚約者の名は

「お手を出してください」

「はい」


 家族が見守る中、女医による診察が始まった。

 医者は慎重にアンジェリカの手に触れた。


(気持ち悪くない)


 頭も痛まず、悪寒も走らない。やはり女の人だからなのだろうか。


「気分が悪くなったりはしていませんか」

「大丈夫です」


 ほっと空気が緩む。

 医者はアンジェリカの顔色に気をつけながら脈を測り、頭を診て、心臓と肺の音を聞く。


「外傷はなさそうですね。身体はいたって健康です」


 耳から聴診器を外し、カバンに入れながら彼女は言った。


「次は精神的な面になりますが……アンジェリカお嬢様、ここからの診察は心理的に負担になります。お覚悟はよろしいですか?」


 暗に耐えられるのかと尋ねているのだろう。


(…………また頭が痛くなるのかも。でも──)


 不安が拭えるならば、受ける価値はありそうだ。それに自分も、両親も、どれくらい記憶を失っているのか知りたいだろう。


「お気遣いありがとうございます。どうぞ続けてくださいませ」


 アンジェリカは覚悟を決めて首を縦に動かした。


 医者は万年筆と紙をカバンから出した。アンジェリカの言葉を記録しておくためだ。


「まず、お嬢様はどこまでの記憶を覚えていますか」

「えっと……」


 何処、と言われても分かっているのは昨日の出来事と使用人達の名前を忘れていることだけ。


「すみません。質問の仕方を変えますね。食事や日常生活でのマナーはどうでしょうか」

「分かり……ます」

「この国の歴史はどうでしょう」

「ええっと一応覚えています」


 医者の質問にアンジェリカは答えていく。

 途中つっかえることもあったが、大半はすらすらと返すことが出来た。


「うーんここまでは大丈夫そうですね。公爵様、アンジェリカお嬢様に少し深くお尋ねしても?」

「──内容による」


 医者がアランに耳打ちした。


「それは出来るならやめて欲しいが……」


 ちらりとアンジェリカを見る。

 その瞳はとても心配そうに揺れていた。


「やむを得ない……か。異変があった場合すぐに止めてくれ」

「ありがとうございます」


 医者はアンジェリカの隣に腰かける。そして落ち着かせるように手を握り、目線を合わせ、言ったのだ。


『──ベネディクト・ヴィ・ブライスという名に覚えは?』と


 その瞬間、誰の名か覚えていないのに、アンジェリカの心臓が飛び跳ね、呼吸が浅くなる。

 ぐにゃりと視界が歪み、一瞬平衡感覚を失った。


「あ、う」


 上手く声が出ない。


(知ってる。知っているけれど、それが誰なのか分からない)


 ただ唯一はっきりしているのは、自分にとってあまり良くない人物だということ。


 左胸を服の上から掴む。とても痛い。

 酷く──張り裂けるように悲しい。


 目を瞑って大きく息を吸って吐く。波打つ鼓動を鎮めていく。


 再び瞳を開けたところ、家族が心配そうにアンジェリカのことを見ていた。

 安心させたくてアンジェリカは真っ青になりながらも笑う。


「……だいじょう……ぶ……です」


 汗が頬を伝ってシーツに落ちた。

 医者から差し出されたコップを受け取り、口に水を含む。氷のかけらが喉を滑り落ちていく。


「続けて……くだ……さい」


 喉は潤ったはずなのに、途切れ途切れになってしまった。


「無理したらダメよ。ゆっくりでいいんだから」


 シンシアが青白くなったアンジェリカを見かねて、優しく抱きしめる。数分そのままでいると、心が落ち着いてきた。


「もう大丈夫です。ありがとうお母様」


 シンシアが離れていく。


「では先程の名前に何か覚えはありますか」

「あり……ます」


 湧き上がった感情を整理し終わってから口に出す。


「名前はぼんやりですが覚えています。けれど誰の名なのかはわかりません」


(ベネディクト・ヴィ・ブライス……)


 反芻すればまた、ズキリと心が痛んだ。


「どういう風に思いました? 名を聞いて」

「……悲しくなって、怒り? も少しあります。あまりいい感情はないです」


 アンジェリカは感じたことをそのまま伝えた。そして今度は自分から質問する。


「あの、ベネ……何とかの名前は誰ので?」

「「知らなくていい」」


 険しい顔のウィリアムとアランの声が被った。


「アンジェが忘れていい記憶よ。これからの人生で必要ないわ」


 シンシアは微笑みながらサラッと毒づいた。

 この件に関しては、分かりにくいが彼女が一番、烈火のごとく怒っていたのだ。


 同性として痛いほど気持ちがわかるし、自分が夫の不倫現場を見てしまった日には、その場で絞め殺している自信がある。


 だからエディスが娘を抱えながらウォーレン邸に戻ってきた時、執事の制止も無視して、汚れるのも厭わず、意識のないアンジェリカを強く抱き締めた。


 そして詳しい事情を聞いた後、即座に抗議の書簡をしたため、ブライス家の執事に叩き付けた。


 最愛の娘の母として、女として、ベネディクトのことは許せるはずがない。


 そんな思いを秘めていたシンシアを他所に、アンジェリカは一つの答えにたどり着いた。


(……もしかして)


「あのっ婚約者……の名前……ですか?」


 その言葉に家族の動きがピタリと止まる。ウォーレン家の者は嘘をつくのが苦手なのだった。


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