03.心の痛み
(ああ、なんということだろうか。娘は……)
シンシアに抱きしめられ、甘えるように目を閉じているアンジェリカ。
その姿にアランは泣きそうになった。
これは完全ではないにしろ、記憶喪失の類いである。家族以外の記憶はなく、あろうことか自分以外の男の顔が黒く塗りつぶされてるらしい。
娘にとってそれほど不貞は、あの現場は、心を傷つけるものだったのだ。
(こんなことになったのは私のせいだ。私が……決めた婚約のせいで)
アランは自分を責める。強く握った拳の矛先はこの場では見つからなかった。
「……先程目が覚めた時に居たのがアンジェの侍女で、名前はエディスだ。小さい頃から仕えてくれている」
湧き上がる感情を押し殺して、今娘に必要なことを伝えた。
「まあ! そうなのですね。どうして私は忘れてしまったのでしょうか……エディスには……悪いことをしました」
アンジェリカはこの時点では、自分が記憶喪失だと思っていなかった。
家族に関係する記憶に綻びはなく、ちょっと無理があるが使用人達の名は〝ど忘れ〟したのだと考えたから。
「……シンシア、アンジェといてくれ」
「あなたはどこに?」
アランはアンジェリカに聞こえない音量で、妻に囁く。
「女医を呼んでくる。男でなければ診察を……受けられるかもしれない」
どこまで記憶が無いのか。黒く塗り潰されているのは本当に男性だけなのか、他にもショックから来る異変があるかもしれない。
再び発狂する可能性があるとしても、今後を決めるためにはもう少し詳しく調べることが必要不可欠。つまり、医者に見せなければならなかった。
(さて、どうやって説明しようか)
今、娘に昨日起こった出来事を告げても二重に苦しめるだけである。最悪今度は全ての記憶を失ってしまうかもしれない。
「昨日、貴女は気を失ったのよ。その際にどこか頭を打ったかもしれないからお医者様に見てもらいましょう?」
言いにくそうにしていたアランの代わりに、起こった出来事は全部隠してシンシアが説明した。
「どこも痛くないですが……」
アンジェリカは少し嘘をついた。
身体は痛くなかった。ただ、先程からだんだん心臓がギュッと締め付けられているように感じる。
(何だか……悲しい? かも、しれない)
心臓に手を当てる。臓器というより、心が痛かった。その理由は今のアンジェリカには分からない。
「お母様はね、アンジェのことが心配なの。万が一も考えて、ね?」
「……そう言うなら。でも先程のお医者様? は無理かも……触れられると気持ち悪くなります」
アンジェリカは申し訳なさそうに告げた。思い出すだけで収まっていた震えが戻ってくる。
「もちろん違う人よ。アランが連れて来てくれるわ」
アンジェリカの手を握っているシンシアを横目に、アランは医者を呼ぶためドアノブに手を掛けた。