23.気づかなかったこと
「な、ナディ……様」
「あら、余計なのが付いているわ」
ふくれっ面をした彼女はアンジェリカの頬をつまむのを止めない。今度はフニフニと指でつつき始めた。
「…………ナディ」
何だか気恥ずかしくて真っ赤になりながら言えば、ナディアは満面の笑みを浮かべる。
それだけでアンジェリカの心臓は破裂しそうだった。
(うぅ、きっと前まで普通に呼んでいたのだろうけれど、慣れない)
これは彼女がいないところで要練習だ。
アンジェリカは息を吐いて気持ちを切り替える。
「これからも、仲良くしてくれる?」
「もちろんよアンジェ」
ナディアはアンジェリカの両手を包み、ブンブン上下に振った。
嬉しそうな彼女の様子にアンジェリカも自然と柔らかい表情をした。
しばらくの間何かを言うわけでもなく、どちらもにこにこしていると、ナディアが先に口を開いた。
「それにしても浮気相手……ソフィアなの?」
確認するようにナディアはアンジェリカに尋ねる。
「ええ……そうらしいわ」
ベネディクトの不貞が原因での婚約破棄だが、相手の令嬢の名前は伏せられている。
どうして伏せるのかをアンジェリカは家族から聞いてない。が、何か理由があってそうしているのだろう。
故に、ナディアもアンジェリカが今日説明するまで浮気相手を知らなかったのだった。
だからアンジェリカの口からソフィアの名が出た際、彼女は鬼の形相をした。
ナディアにとってもソフィアは友人であるが、彼女の中ではアンジェリカが一番大切なのである。
「ほんとに最低だわ」
吐き捨てるように、声を低めてナディアは言った。
「……うん」
ナディアは険しい顔つきでテーブルを爪で叩く。
アンジェリカは肩を竦めて縮こまる。
浮気されたといっても記憶はなくて実感もない。ただあるのは、一瞬だけ視界に入ったベネディクトに対する不快感と奥底にある拒絶とほんの少しの怒り。
また、ソフィアというアンジェリカの友人だった人は、今の自分には何者でもない他人で。
想像しようとしても、脳裏には何も浮かばず、闇しか見えなかった。
(会う機会……あるのだろうけれど。私は彼の時と同じ反応をするのかしら)
その時になってみないと分からないが、つい考えてしまう。
まあ、アンジェリカの心が耐えられなくて記憶喪失になってしまったのが実際のところなのだが。
「あんなクズ男と女なんて忘れて……はできないかもだけど、アンジェにはもっとお似合いの人が現れるわ」
「…………そうだと、嬉しいわね」
正直なところ、しばらくは恋愛などしたくない。
今のアンジェリカは、異性とまともに接することもままならない。
図書館でのヴィンスの件はまぐれであって、拒絶反応が無くなった訳では無い。
第一、婚約破棄した令嬢に良い嫁ぎ先が見つかったなどという話は過去にもほぼ無かった。
こちら側に非がないと証明されても、周りは可哀想な令嬢だと認めてくれても、傷物は傷物なのだ。
そういう点で現実は時に無情である。
アンジェリカがネガティブな方向に思考を巡らせていると、ナディアは話を切り出した。
「……今の状況からして、ゆっくり休むのもいいと思うけれど、そろそろ茶会には顔を出した方がいいわ」
「やっぱりそう……よね」
嘆息をつく。
(頭が痛くなりそう)
ウォーレン公爵家は婚約破棄騒動の詳細について、尋ねられてものらりくらりとかわしていた。
また、正式に流れた情報はともかく、普段なら目先の利益のために情報を流す使用人達も今回ばかりは口が固かった。
そのためゴシップが大好きな者たちにとって、高位貴族家同士の婚約破棄騒動は盛大なネタであるのに盛り上がれなかったのだ。
そういう時、彼らは決まってありもしないことを真実のように吹聴し、騒ぎ立て始める。
今はシンシアの暗躍により同情が多いが、それもそんなに持たないだろう。
「あまり長く引きこもっているとあらぬ噂を立てて邪推する貴族も出てくるから。せめて、少人数の茶会だけでも」
思っていたことをナディアはやんわり指摘した。
アンジェリカに優しい家族に甘え、人前に出ることを引き伸ばしにしていたがそろそろ限界なのかもしれない。
(多少なら男の人とも話せるし、女の人ならほぼ不安要素はない。いける……かしら)
ひっきりなしに届く招待状は執事が管理している。彼に尋ねれば、ピックアップして渡してくれるだろう。
それか、自分が主催者になって人を選んで茶会を開くか。
(後者の方がやりやすいかも)
人選は家族の手を借りれば、間違いは起こらないはず。
加えて自邸ならば少しはリラックスして挑める。
そんな考えを纏めてからアンジェリカは口を開いた。
「もし……私が茶会を開いたら来てくれる?」
「予定こじ開けてでも出るわ。約束する」
ナディアは即答した。そして続けざまにこう言った。
「だから、ね。そんな不安がらないで。私はアンジェのことを絶対に裏切ったりしない」
蜂蜜色の瞳が悲しそうに揺れる。唐突すぎるその言葉にアンジェリカは頭が真っ白になった。
「ふあん……なんて」
『ない』そう言おうとして、単語が喉に引っかかった。
ジクリ、と疼くように心臓が痛む。
その箇所はベネディクトに対してとはまた違う場所で。
反射的に手が服の上からその箇所に触れる。
そこでようやく、アンジェリカは気がついたのだった。
ソフィアの裏切りは、自分をこれ以上ないほど傷つけていたのを。




