21.手の中に
「貴女に渡したい物があるのです」
青年はアンジェリカとの距離を一歩、つめる。
(何だろう)
見当もつかない。
「ですので手、触れてもいいですか。嫌でしたら触れないように努力します」
「……どうぞ」
頷いて前に出す。彼はアンジェリカの出した手の下に左手を添え、上に握った右手を置いた。
「はい、これ」
ぱっと彼が右手を開くとアンジェリカの掌にある物が落ちる。
アンジェリカは息を呑んだ。
「ど、どこで……これを?」
ギュッと握りしめ、胸元に持っていく。手の中には宝石特有の硬くてひんやり冷たい感触がある。
そう、それはアンジェリカが無くしたはずのブレスレットだった。
「散らばった本を片付けようとしたら落ちているのを見つけて」
青年はジェスチャーをつけて説明する。
「その反応はやはり君の物で合っているのかな」
「……はい、ありがとうございます。とても、大切なものなのです」
嬉しくて、安堵して、気が緩んだアンジェリカはいつもより崩れた笑みを浮かべた。
それは蕩けそうなほど柔らかいものだった。
「よかった。渡せなかったらどうしようかと思ったんだ」
そう言って青年はしゃがみ込んだ。頭の後ろに手を回し、首を横に傾げる。
「ただ、私が拾おうとしたら紐が劣化していたのか切れてしまって……一応直したのだけど」
アンジェリカは手を開く。戻ってきたブレスレットは真新しい、蒼と珊瑚色が使われた組み紐が使われている。
「この色合いは……」
私ので? とは続けられなかった。自意識過剰だとは受け取られたくない。
「あ、ごめん誤解しないで。君の色だからと選んだわけではない」
青年はブンブン手を顔の前で振る。アンジェリカが言いそうになったことを察したようだ。
そしてちぎれてしまった紐もアンジェリカに手渡した。
草臥れたそれは、ちょうど半分ほどの所でプツリと切れていた。
「手元にあったのがほんと、ちょうど、それだったんだ。やましいことはないよ」
「…………それは疑ってません」
(帰ってきただけでなく、直してもらったのにそんなこと考えたら失礼だわ)
「拾ってくださってありがとうございます。感謝してもしきれません」
アンジェリカはもう一度頭を下げる。
「何かお礼をさせてください」
「そんなのいらないよ。当然のことだから」
青年はテーブルに置いた本を抱える。どうやら立ち去るつもりらしい。
「でっでは、名前だけでも……」
恩人の名前くらい覚えておきたい。いつか恩を返せるように。
「──ヴィンス」
さらりと名乗られて、聞き逃すところだった。
名前を聞くまでは貴族の方かとも思ったが、確かそのような名前の貴族令息はいなかった。
となるとただ単に施設の関係者なのだろう。
「なら私も聞いておきたいな。君の名前は?」
アンジェリカはしばし逡巡した後、口を開いた。
「──リジェです」
ヴィンスはアンジェリカのことを現状知っているはずがない。なら、わざわざ本当の名前を名乗って、婚約破棄した令嬢と知られるのも……と思ってしまったのだった。
「そっか。リジェ……いい名前だね」
つぶやくようにヴィンスはアンジェリカの偽名を口にした。
「では、私は行くよ」
「はっはい」
研究に忙しいのだろう。昨日だって多くの書物を一気に運ぼうとしていたから。
早足に立ち去ろうとするヴィンスは、ふと思い出したかのように振り返った。
「──リジェまたね」
ふっと笑った青年はそう言って今度こそアンジェリカに背を向けた。
◇◇◇
「お嬢さま! ……お嬢さま?」
「え、あ、何か言った?」
ぼんやりとしていて聞き逃してしまった。あの後、アンジェリカはエディスの待つ馬車に戻った。
質問し返せば、エディスの手が伸びてきて、彼女の額に触れた。
「な……に?」
「熱はなさそうですね」
そのまま主人の健康状態をチェックする。
血色は良く、青白くない。見たところ体調は悪くなさそうだ。
「そのブレスレットは……!」
エディスの視線が手首に着けられたものに向かう。
「お守り、見つかったの。あのね、男の人が拾ってくれたのよ。それに、ほんの短時間だけど話せたわ」
エディスの隣に座って腕を見やすいように上げる。
アンジェリカの様子は悲嘆に暮れていた行きのとは正反対で、エディスも嬉しくなった。
「それは良かったです。気分が悪くなったりはしていませんか」
「平気よ。とても──優しい方だったから」
アンジェリカは腕に着けたブレスレットを撫でる。取り付けられた亡き祖母の宝石は、眩しいくらいに輝いていて、新しくなった紐の色といい塩梅に溶け込んでいた。




