02.抜け落ちた記憶
「──さま! お嬢さま!」
誰かがアンジェリカを呼ぶ。
その声によって意識が浮上した。
「ああ、良かった。お気づきになられましたね」
侍女の格好をした〝誰か〟が、ほっとした様子で涙を浮かべている。
(…………何で知らない人が私の部屋にいるのかしら)
「ねえ、そこの貴女」
「はいなんでしょうかお嬢様」
「──貴女、だあれ?」
「えっ」
侍女はショックを受けたようだ。口元を手で覆い、「まさか、そんな。私のことをお忘れに?」と何やら呟いている。
「す、直ぐにお医者様を……!」
そう言って部屋を出ていき、数分で数人の大人を連れて帰ってきた。
最初に入ってきた人物が誰なのか分かり、アンジェリカは身を起こした。
「お父様!」
「アンジェ、身体は大丈夫なのかい?」
「……? はい」
身体とは一体……。その言葉の意図はアンジェリカには分からなかったが、体調が悪いわけでも、痛みがある訳でもないので大丈夫だと頷く。
「目が覚めてよかったわ」
「……お母様、目は覚めるものですよ?」
二人がアンジェリカをギュッと抱きしめる中、彼女の中で違和感が積もっていく。
(会話が噛み合ってないわ……それに──)
「お母様、お父様、お尋ねしたいことが」
「ん、なんだい?」
アンジェリカは燕尾服を着た人を指差す。
「あの顔が黒塗りの方とさっき私のところに来た侍女は誰ですか」
──場が凍りつく。
誰かが持っていた物を落とし、大きな音が響き渡った。
空気が変わったのを肌で感じ取ったアンジェリカは、両親の顔色を窺う。
彼女が正しく認識できていたのは家族だけだった。
もう少し詳しく言えば、侍女の顔は分かるが名前は分からない。
そして──一部の大人の顔は黒く塗りつぶされていたのだった。
「ほら、そこの方も、あの方も顔が黒塗りです。墨でも顔に塗ったんですか? 何かの罰ゲーム?」
無邪気に、順番に、顔が分からない人物を指していく。
彼女が指したのは性別が全員男だった。
「ああ、まさか……そんな」
母であるシンシアは卒倒しそうになった。
「──アンジェ、お父様の顔は分かるのかい?」
「ええもちろん。大好きなお父様ですもの」
アンジェリカはにっこり笑う。そしてギュッと自分から抱きついた。
「公爵様、お嬢様の診察をしてもよろしいでしょうか」
「構わない。早くやってくれ」
アランが了承し、アンジェリカにとって顔面黒塗りの医者がやってくる。
「お嬢様、お手を貸してください」
素直に医者に手を差し出した。そして、彼が彼女の手に触れたところ──
ゾワゾワッと悪寒が走る。ズキンッと頭が痛くなる。気持ちが悪い。
「イヤっ!!!」
思いっきり振り払った。
それでも伸びてくる手に眩暈がする。
「やめてやめてやめてやめて。いや! いやァァァァ!」
突然発狂したアンジェリカを慌ててシンシアが抱きしめる。
「大丈夫。大丈夫よ。嫌なのね。なら診察しなくていいわ。あんなものを見てしまったら、男の人は無理よね」
「……おかあ……さま、あんなものって? 私、何を見たのです?」
震える娘にアランとシンシアは顔を見合わせる。
二人の元には既に婚約者の不貞が耳に入っていた。てっきりそれを知っていて、思い出してしまって、こうなってしまったのだと思ったのだ。
加えて、黒塗りというのもまだ寝起きで頭が混乱しているのだと考えていた。
「……婚約者の名前を分かるかい?」
アランは娘に尋ねる。
先程の言動が寝起きとかの問題ではなかったとしたら……最悪の場合が脳裏を掠めた。
「こん……やく……しゃ? 誰のです?」
暫し頬に手を当てて考えた後、アンジェリカはさらっと答えた。嘘をついているようには見えないその返答に、シンシアは息を呑む。
「シンシア以外出てくれ。後で呼ぶ」
険しい顔つきの公爵に言われ、使用人と医者は部屋を退出する。
「お父様? どうしてそんな怖い顔しているのです?」
キョトンとする娘の様子に、アランの胸のざわつきが止まらない。
「少しね……一番最悪なのを引いてしまったようだ。アンジェ、お前のフルネームを言ってくれるかい?」
訳が分からない。何でそんなのを聞くのだろうか。不思議に思いつつアンジェリカは口を開いた。
「ウォーレン公爵家長女、アンジェリカ・ディ・ウォーレンです」
微笑みながらアンジェリカは名乗った。
「私の名前は? 妻の名前は?」
「アラン・ルイ・ウォーレン、シンシア・オブ・ウォーレンです。どうしてこんなことを聞くのですか?」
吃ることもなく、彼女はスラスラ答える。
「では、貴女の侍女の名は?」
シンシアが追加で尋ねる。
「…………分かりません。ごめんなさい……」
首を横に振る。
アンジェリカには思い出せなかった。いつも自分の世話をしてくれて、倒れる前にも汚れるのを厭わず抱きしめてくれた、大好きな侍女の名前を。