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18.兄と怪我と

 後ろを振り返らず、カウンター前を通り、ガラス扉を開けて回廊に出る。


「……ふぅ。ようやく……ちゃんと息、吸える」


 安堵から力が抜け、ベンチにふにゃりと腰掛けた。


 季節は夏。陶磁器のようなアンジェリカの顔にすぐに汗が浮かぶ。


 しかしどんなに暑くても室内に戻るつもりはなかった。


 そうすればきっとぶつかった子息に会うだろうし、この精神状態で男性達が多い空間に滞在するのは不可能である。


(ああ、お兄様は何処にいるの……)


 アンジェリカは頭を抱え込む。


 今日の目的は達成した。ほんの少し心残りがあるが、もういいだろう。だから兄が来たらそのまま家に帰宅したい。

 ハンカチを肌に当てつつ俯いていた顔を上げる。


 目の前にある噴水は陽光によって煌めく水を周りに弾き、たまに勢いづいた雫が地面を濡らす。

 ぼんやりとそれを眺めながら座っていること十数分。


 アンジェリカが出てきた扉からウィリアムが慌てた様子で飛び出してきた。


「アンジェごめん! 抵抗したのに同僚に無理やり連行されて……」


 ウィリアムはアンジェリカの傘を広げ、直射日光を遮った。


「暑かっただろう。座るスペースは中にもあるのにどうして外に」


 アンジェリカに傘を渡し、一旦噴水にハンカチを浸す。そして垂れてこない程度に絞り、彼女の額や首に当てた。


 ひんやりとした感触が気持ちよくて、アンジェリカは瞳を閉じる。


「屋内に……居られなかったので。お兄様?」


 説明しようと口を開けば、何故か兄が真っ青になる。


「あ、アンジェ、私のせいで怪我したのかい」

「えっなんで分かるのですか」

 

(まだ一言も言っていないのだけど)


「鼻から……血が」

「鼻? 血?」

 

 そんな馬鹿な。地面に打ち付けはしたが、出血なんてしていなかった。そう思いながら自身のハンカチを鼻に添えた。


 「あっ」と声が漏れた。


(──本当だわ。血、出てる)


 真っ白なハンカチに赤い水玉が出来上がる。

 もう一度添えてみる。結果は同じだった。

 ぽたり、と拭いきれなかった血がドレスに鮮明な柄を作った。


 アンジェリカは驚くほど冷静だった。他人事のようにしげしげと眺める。


(拒絶反応で鼻血が出たことはなかったから、外にいてのぼせたのが悪かったのかしら)


 それとも時間差で転んだ故の症状が出始めたのか。


 どちらにせよ、落ち着きを保っていたアンジェリカよりウィリアムの方が冷静さをかいていた。


 兄はアンジェリカの鼻を凝視している。


 アンジェリカは安心させたくて説明を加えた。


「さっき本につまずいて鼻から転んだからです。大した怪我ではないです」


 だが、超がつくほど過保護になっていたウィリアムには逆効果だった。


 アンジェリカの言葉に、ウィリアムは光の速さで彼女の手を掴み、室内に連れていく。


 関係者以外立ち入り禁止と書かれたテープを剥がすのも惜しかったのか、身体で破ってずんずん進む。


 しまいには途中で呼ばれたのに、相手をガン無視して隣を通り過ぎた。


 そうしてたどり着いたのは中庭に面した個室。新緑色のカーテンを引いて、アンジェリカを備え付けられていたソファに座らせ、あちこち確認し始めた。


「よく見れば真っ赤じゃないか。しかも足も……とにかく冷やす物をもらってくる。奥にある薬室に行けばあるだろう」

「ま、待ってお兄様」


 今にも走り出しそうな兄の腕を掴む。


「ひとりにしないで……お願い、だから」


 震える声で紡げば、兄はそれだけで悟ってくれた。しゃがんで目と目が合うように高さを調整する。


「何かあったんだね。ごめんね」


 そう言って優しく抱き締めてくれる。ふわっとウィリアムがいつも付けている柑橘系の匂いが香る。


「だけど冷やさなければ腫れてしまう。ここは誰も入らないよう言付けるから……少し、外に行ってきてもいいかな」


 諭すようにウィリアムは妹に言った。アンジェリカの瞳は不安げに揺れて閉じられた。


「……わかり、ました。早く帰ってきてくださいね」


(──震えもおさまって、気持ち悪さも治った)


 誰も入ってこないならば男性と会うこともない。ならば兄を送り出した方がいい。


 それに止めたところで兄は冷やす物を取りに行ってしまう。


 何故なら自分が小さい頃から兄はアンジェリカの怪我に過敏なのだ。

 それはやわらかい芝生の上で転んだだけでも寝台に連れて行ってしまうほどである。


「すぐに帰ってくるから」


 そう言って駆け出した兄は、宣言通り十分で戻ってきた。


 防水加工された袋に氷と水を入れ、口の部分を麻紐で結ぶ。

 即席で作られた氷嚢を問答無用でアンジェリカの膝に押し当てた。


 外と内の気温差によって水滴が生じ、それが傷口に当たることでピリッと染みる。


 思わず顰めっ面をしてしまったアンジェリカ。唇を噛み締めてしまう。

 それを見て、兄は渋面をつくる。


「…………周りに居合わせた者に聞いたよ。私がいたら防げてた……本当にごめん」


 項垂れる兄にどう声をかければ良いのか。アンジェリカは分からなかったが、それでも何か言わなければと口を開いた。


「あれは……私の不注意でもありました。周りをよく見ずに飛び出してしまったのが悪かったのです」


 不安に駆られていつもより冷静ではなかった。ただ兄を探さなければ、その思いしか無かったのだ。


(あの方には悪いことをした……名前を聞いておけばよかったわ。そうすれば直接でなくても手紙で謝罪できたのに)


 今になって後悔する。もっと上手く立ち回れたのではないかと。

 だが、全て後の祭りである。


「お兄様」

「ん?」

「──帰ってもいいですか。せっかく連れてきてくれたのにすみません。ご迷惑をおかけしました」


 自分が来たくて来たのに申し訳なかった。

 ギュッとスカートの裾を掴み、俯いてしまう。


 ウィリアムは立ち上がって、半分溶けた氷が入ったボウルを脇にあったテーブルに置く。

 そして両手でアンジェリカの手を包んだ。


「アンジェ、すぐに謝らないで。今回は私が悪かった。迷惑なんてこれっぽっちも思っていないし、アンジェはよく一人で頑張った」


 絶対に褒められることではないのに、全てを肯定するかのようなウィリアムの言葉は、アンジェリカの心にじんわりと染みる。


「…………ありがとうございます」


 そうして婚約破棄後のお出かけは、楽しみつつも、苦い思いをして幕を閉じたのだった。

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