17.しどろもどろ
(この場を離れない方がいいのかな。それとも探しに行った方が……)
居てもたっても居られず、本を抱えたまま本棚と本棚の間でウロウロとしてしまう。
そもそもアンジェリカはいつウィリアムが居なくなったのかさえ、把握していなかった。
(お兄様は何も言わずにどこかに行ってしまう人ではないわ)
先程も考えたが、やはり何かが起こって連れてかれた線が濃厚だ。それか声はかけられたが、アンジェリカの耳に入ってこなかったのか。
(どちらにせよここは人の通りもあるし、もう少し落ち着ける場所に移動して……)
来る間に中庭以外でもソファやチェアが置かれている場所があった。そこなら落ち着いて兄を待てる。
(よし)
考えが纏まったアンジェリカは本棚の間から通路に出ようとして────左からふいに影が現れる。
「きゃあっ!」
「うわっ」
本棚に隠れて見えていなかった何かと思いっきり衝突した。
ドサドサッと書物が立て続けに地面に落ち、アンジェリカもぶつかった反動でしりもちを搗いた。
「すみません。よそ見していましたお怪我は──」
すぐに手が差し出される。が、アンジェリカはその手を取れなかった。
己の腕を見ると、地面についた手が震えている。
慌てて顔を上げるとやはり顔が黒塗りの──子息が佇んでいた。
栗毛色の髪は陽光によって天使の輪が作られていて、首からはアンジェリカの物とストラップ部分が色違いの入館証をかけている。
「あの大丈夫ですか」
柔らかい、でもアンジェリカよりもっと低いテノールで再度問いかけられる。
まさかこんな至近距離で男性と会話するなんて思っていなかった。意識しなくても腕は震えているし、声は出てきそうにもない。
(……なにか、言わなきゃいけないのに)
口を開けても出てくるのは息をする音だけで。
アンジェリカは黒塗りの子息をじっと見つめることしか出来なかった。
「もしかして痛すぎて声が出せませんか? そうだとしたら大変申し訳ありません」
そう言って、彼は助けようと──本当はありがた迷惑なのだが、アンジェリカを立たせようと彼女の手に触れた。
ざわり、と悪寒が全身を駆け巡る。
「──やっ!」
小さく悲鳴をあげ、考える間もなく、アンジェリカは善意のそれを叩き落とした。
そして触られた手を庇いながら後ろに後ずさる。
何も知らない者からしたら過剰な拒絶に、目の前の子息は呆然としている。
だが、今のアンジェリカに彼の事を気にする余裕はない。胃がぐるぐる回り、顔から血の気が引いた。
(まずい。このままだと……)
うまく思考できない。考えがループして真っ白になって、不快感が湧き上がってくる。
(アンジェリカ、落ち着くのよ。取りあえず目の前の彼をどうにかしなければ)
「………………ご、めんな、さい。怪我は……ないです。だから、わたし、に、触らないで」
精一杯の気力を振り絞って言葉を紡ぐ。
しかしあまりにも小さい声で相手に聞こえているのか疑問が残った。
アンジェリカはよろけながらも、棚に手を突いて立ち上がる。
霞む視界、彼の背中越しに物音を聞き付けた他の者たちが、集まり始めているのが分かる。
一人近くにいるだけで、こんな風になっているのに、人に囲まれたら……想像したくもない。
「貴方……は、何も悪くない、です…………し、失礼しますっ──きゃっ」
今度は辺りに散乱した分厚い本に足を取られた。
派手な音を立てて顔面をしたたかにうちつける。
(痛い)
擦りむいたのか膝が熱を持つ。鼻は折れたと錯覚してしまうほど激痛が走り、生理的に涙が滲む。
「立ち上がれますか?」
数秒転んだ状態のままでいると、先程の声が後方からかかる。
「よければ医務室にご案内しますよ」
その言葉の節々には心配と気遣いが滲んでいた。
アンジェリカの説明で、何か事情があると感じ取ってくれたらしく、距離をとり、声をかけるだけに留まっている。
(ありがたいけれど……)
アンジェリカは痛む体を叱咤して、自力で立ち上がった。
「お気遣い、痛み入ります。わたしは平気……ですので。それよりも……私の方こそ……ぶつかってしまってすみませんでし……た」
慣れない図書館で、こんな近くに男性がいて、一瞬だが触られて、発狂していないだけ奇跡に近い。
けれどそれがずっと保つ訳でもない。
だからこれ以上彼と話をすることで、大勢の前で失態をさらけ出すのは避けたかった。
故にアンジェリカは謝辞もそこそこに踵を返す。
相手に対し非礼だとは思ったが、そこまで慮る余力が残されていなかったのだった。




