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18.またひとつ知る(2)

 シルヴィの案内で研究所内を巡るうちに、アンジェリカは目を輝かせていた。設備の案内はもちろんのこと、研究員たちが使っている器具や実験の手順について、無知なアンジェリカにも分かるようシルヴィが丁寧に説明してくれるたびに、好奇心が刺激され、思わず前のめりになりながら話を聞いてしまう。


 それに、説明に織り込まれるアンジェリカの知らないヴィンセントの話はとても貴重で興味深い。夫の新たな一面を垣間見れて嬉しい。


「ここは薬品や素材の保管室です。副所長は保管環境に特に気を配っています。ここだけの話、この前なんて空調の設定を間違えてしまった研究員に対して数時間もお説教してました」


 まるで秘密の話をしているかのようにひそひそと声をひそめて教えてくれる。


「それは……長すぎのようにも感じますが」


(旦那様がそんなにも長い時間叱っている姿は想像ができないわ)


 アンジェリカの前ではのほほんとしていることが多い。あれこれと世話を焼き、心配性ではあれど、ネチネチ叱られたことはない。また、険しい顔をするのは捌かないといけない書類で忙殺されたりと、執務や公務に関係する場合だ。それらの表情はきっとアンジェリカの知らない王子としての部分なのだろう。


(ヴィンス様として出逢ってからの印象とかけ離れているわ)


 もしかしたら今のアンジェリカが知らないだけで、記憶喪失前の自分であったのなら見覚えがあったのかもしれない。


「温度や湿度に少しでも問題があると、成分が変質してしまう薬品もあるのです。そうなると実験した際に結果も変わってきてしまいますし……温度管理は基本中の基本です」

「そうなのですね」

「はい。ただこの件はそこで終わりではなく、その研究員が隣の空調も止めてしまったことが大問題でして……」

「隣も保管庫なのですか?」

「いいえ、似たようなものですが保管庫とは少し異なりまして」


 「行けば分かります」とシルヴィはドアを開ける。中は真っ暗で何も見えない。シルヴィが明かりをつけたところでようやく全貌が明らかになった。


「…………なるほど」


 部屋の中にもうひとつ扉がある。その奥に広がるのは耕された畑と植えられた植物。


(あの独特な葉の模様を持つ植物は、秘薬に使われる植物よね?)


 生育環境の条件が厳しく、空調によって一定の温度と湿度を保たれた環境で、ようやく人工的に増やすことができたと、以前ヴィンセントが言っていた気がする。


「このように貴重な植物がダメになってしまうところでしたし、ヴィンセント殿下のお怒りはごもっともですよ。私でも怒ります」


 ──とそんな風にシルヴィは建物を案内してくれた。お昼を少し過ぎ、そろそろ会議も昼食休憩で中断するだろうと会議室に足を向ける途中、研究員ともすれ違った。


 研究員は外部からの客──アンジェリカが物珍しいようで、おずおずと近寄ってくる。


「シルヴィさん、こちらのうら若いご令嬢はもしや……」

「副所長の奥様よ」


 するとどこに隠れていたのだろうか。アンジェリカの身元が分かると四方八方から研究員が現れて囲まれてしまう。


「副所長の奥様、お会いしたかったです。ランブルク副所長にはいつもお世話になっています!! この前も行き詰まった研究にアドバイスを頂いて、おかげで問題が解決したんです!」


 悪い人ではないのだろうけれど、グイグイと迫られるのは怖い。思わずシルヴィの服を掴んで背後に隠れる。


(こ、こんなに多くの人に囲まれるのは無理!)


 中でも男性の比重が高く、男の人には慣れてきたとはいえ急激な環境の変化についていけない。青白くなるアンジェリカを見て、シルヴィが慌てて研究員達を蹴散らす。


「散りなさい!! 奥様は見世物ではないの。持ち場に戻って!」


 蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。


「アンジェリカ様すみません。御身にあんなにも近づいてくるなんて。怖かったですよね」

「いえ、それは平気です。気にしないでください。驚いてしまっただけなので」


 アンジェリカ本人が気にしていないと伝えているのに、シルヴィは気落ちしている。大丈夫ですよと何度も宥め、ようやくシルヴィは元気を出してくれた。


 アンジェリカはシルヴィに案内されて会議室に赴く。すると廊下の先の部屋からぞろぞろと集団が出てきた。


「どうやら昼食休憩に入ったようですね。彼らは今日の会議の出席者です」


 すれ違う際にぺこりと頭を下げる。視線が合った人の中にはアンジェリカの正体を知っている者もいるのか、宝石瞳に目を見開く人もいた。


 シルヴィは会議室のドアを叩いた。中から入室を許可する声が聞こえ、シルヴィが「失礼しまーす」と声を張りながらドアを開けた。彼女は一緒に入ろうとしたアンジェリカを外で待つように促し、先に入っていく。

 ドアは開けっ放しなので会話は筒抜けだ。


「──何か用? つかの間の休息を邪魔するなら許さないよ」


 少しピリピリとした低い声だった。シルヴィはそれを無視して続ける。


「ヴィンセント殿下、テオ様、お疲れ様です。会議は順調そうですか?」

「この惨状を見てて、そう言える? 意見の押し付け合いで全く進まないよ」


 声が沈む。ヴィンセントは議事録作成のためのメモをシルヴィの方に投げ出し、机に突っ伏した。

 シルヴィはちらりと流し読みする。賛成派と反対派で紛糾している内容だった。


「いつにも増して対立していますね」

「今回の新薬は利権が絡んでいるからね。仕方ない」

「貴族の息がかかった研究員もいますからね。頑張ってください。それは置いておいて、殿下をお昼にお誘いしようとしたのですが……」


 顔を上げ、前髪をかき揚げたヴィンセントはため息をついた。


「お昼を食べている時間はないから、シルヴィ一人で食堂に行って」

「あら、本当に良いのですか」

「……その含みはなに?」


 ぴくりと片眉を上げる。それを他所にシルヴィは廊下にいたアンジェリカを手招きした。

 アンジェリカはドアからおずおずと顔を出す。虚ろな目が途端に見開かれる。


「こんにちは」

「リ、リ、リジェ!?」


 ガタンッと椅子を倒す勢いでヴィンセントは立ち上がった。俊敏な動きでアンジェリカの元に駆け寄る。


「一緒にお昼をいただけたらと思ったのですが……お忙しいようですのでシルヴィさんと二人で行きますね」

「──行くよ」

「え? で、ですが」

「リジェと食事を共にするのは最優先事項だ。こんな議事進行どうしようか悩むために休憩時間を費やすのは惜しい」


 そう言い切るとヴィンセントはシワの寄ったシャツを整え、アンジェリカに手を差し出した。


「さあ、行こうか」

「で、ですがお昼を食べる時間はないと……」

「その発言は忘れて。リジェとの昼休憩の方が私にとっては癒しでなんだ。午後の会議の前にやる気を充電させて」


 少し焦ったように話すヴィンセントを見て、アンジェリカはふっと笑みをこぼした。


「分かりました。それでは、お昼ご一緒させていただきますね」

「よし、決まりだ。食堂に行くかい? 周りの目が気になるなら私の部屋で食べようか」

「こういう機会は少ないですし、食堂に行ってみたいですが……まだちょっと怖いのでお部屋でも構いませんか?」

「うん。だったら食堂でメニューを選んでテオに運んでもらおう」


 ヴィンセントはどこか嬉しそうにアンジェリカの手を取ると、廊下を歩き出した。その背中を見送るシルヴィは、テオと顔を見合せて軽く肩をすくめながら一人ごちる。


「……まったく、副所長ったら本当にアンジェリカ様に対しては態度ががらりと変わるんだから」



◇◇◇



 研究所の食堂は清潔感があり、思ったよりも温かい雰囲気だ。ヴィンセントが見知らぬ女性を伴って食堂に現れたことで、周囲の好奇な目が二人に集まっていた。が、ヴィンセントが視線で睨みを利かせているのでアンジェリカは気づいていない。


 アンジェリカはメニューを選んで先に部屋に戻ることにした。その道中、アンジェリカは何故今日ここを訪れたのか、午前中はシルヴィに建物を案内してもらっていたことを話した。


「言ってくれれば、私が案内したのに」


 不満気な口調にふふっと笑う。


「ごめんなさい。お忙しい旦那さまの手を煩わせたくなかったのです」

「リジェのことはなんでも私がやりたいんだ。次からはまず最初に相談して」

「分かりました」


 大きく頷く。


「ところで研究所は楽しめたかい? あまり見栄えする部分はなかったと思うが……」

「ええ、とても素晴らしい場所でした。シルヴィさんがいろいろと詳しく説明してくださったおかげで、楽しめましたよ」

「そうか、それは良かった。彼女には感謝しないとな」


 ヴィンセントは満足げにうなずきながらも、少し目を細めた。


「……でも、シルヴィが何か変なことを言っていなかったかい?」

「変なこと、ですか?」


 問い返すと、ヴィンセントは少し不安そうな顔をする。


「ほら、私の悪口とか、ダメなところとか……」

「特には」

「本当に?」


(……研究員を叱ったという話は悪口ではないですよね)


 秘薬の材料となる植物を枯らす可能性があった以上、叱責が飛ぶのは当然だ。


「何もありませんよ」


 アンジェリカが微笑みながら答えると、ヴィンセントはホッとしている。


「それならいいんだ。でも、シルヴィはよくも悪くもあけすけに言うから。私のことをどう言ったのか気になってしまって」

「旦那さまのことを尊敬していると仰っていました。シルヴィさんではありませんが、研究所の皆さんも旦那さまのことを慕っているみたいですし、私も誇らしい気持ちになりました」


 研究員に囲まれた時、彼らはヴィンセントのことを良く言っていたし、瞳には尊敬の念が浮かんでいた。


「そっか、そう言っていたなら良かった。リジェの口から誇らしいという言葉を聞けて殊更嬉しい」

「普段から頑張っていらっしゃる旦那さまを見ていれば当然ですよ? いつも誇らしくて、素晴らしい旦那さまです」


 アンジェリカがさらりと言い切ると、ヴィンセントは少し照れたように視線を逸らした。


「──リジェはたまに直球になるから心臓が持たない」

「?」


 ボソリと呟いた言葉はアンジェリカの耳に届かなかったけれど、


 その後、テオが運んでくれた昼食をアンジェリカはいただいた。食事を終え、ヴィンセントが見送ってくれるということなので王宮に戻るために馬車に乗る。


 ヴィンセントはアンジェリカの頬に唇を寄せた。


「リジェのおかげで疲れが取れたよ。帰りも気をつけてね」

「いえ、こちらこそお昼をご一緒してくださって嬉しかったです。午後も頑張ってくださいね」


 馬車が走り出し、アンジェリカは小さくなっていくヴィンセントに手を振り続ける。


 こうしてアンジェリカの幸せな日々は、今日も変わらず穏やかに過ぎていくのだ。

今年もありがとうございました。

来年もよろしくお願いいたします。

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