11.目の前に現れたひと
ウォーレン公爵家がブライス侯爵家に叩きつけてから三日後。
アンジェリカはシンシアから婚約を破棄したと教えてもらった。
少しは悲しくなるのかと思った。が、そんなことはなく、「そうですか……」の一言と、安堵感が身を包んだ。
自分が思っていたよりもそれは強かったらしく、聞いた時は力が抜けてその場に座り込んでしまうほどだった。
そしてアンジェリカは男性の使用人達にお願いして、毎日男性に慣れる日々を送っていた。
あの後発覚したことなのだが、不意に近寄ってきた場合はアランとウィリアムでも拒絶反応が出ることが分かった。
特に自分に伸びてくる手はダメだった。ズキンッと頭が痛んで、家族ではない使用人達だと吐き気も生じてしまう。
彼らはアンジェリカの事情を知って、拒絶しても、吐いても、嫌な顔をせず付き合ってくれる。
中には積極的に手伝いを買って出る使用人もいて、とても感謝していた。
アンジェリカは周りの力を借りて、少しずつ、徐々に、段々と慣らしていった。
一ヶ月後にはウォーレン公爵家の使用人達に限って、不意でなければ触れられても拒絶反応が出なくなった。といっても顔が黒塗りなのは治らない。
それでもアンジェリカにとっては大きな進歩だったのだ。
記憶喪失の不安や、男性に対する拒絶反応でいっぱいだった心もずいぶん落ち着いてきて、家族と庭を散歩して笑えるくらいには回復していた。
そして記憶をなくしてから邸宅の外に一歩も出ていなかったアンジェリカは、今日も屋敷の端にある図書室に行こうとしていた。
図書室へは二階にある自室から、エントランスホールの中央階段を下りなければならない。
エディスと一緒に何を読もうか話しながら、中央階段に差し掛かった頃、階下が騒がしいことに気がついた。
「──エディス、今ここに来てはダメ。またなのよ。今日は侯爵様がお越しになられているから追い返そうにもできなくて……」
下にいた侍女の一人が彼女に気がついて声をかける。
その言葉にエディスは眉をひそめ、アンジェリカを彼女の背に隠した。
「お嬢さま帰りましょう。図書室に読みたい本があるのでしたら、エディスが取ってきます」
「突然どうしたの? 何かあって────っ!」
来た道を無理やり戻され、何となく階下を覗き込んだアンジェリカは息を呑んだ。
「お嬢さまっ!」
エディスの声が遠くなる。
身体から力が抜け、意思とは関係なしに呼吸が浅くなり、手が震え、吐き気が彼女を襲った。
追い討ちをかけるように、それは耳を塞ぐ前に、発狂する前に、言葉を投げかけてくる。
「──アンジェリカっ!」
ドクンッと大きく跳ねたあと、心臓が歪な音を立て始める。
一瞬だが、声の主をアンジェリカは視界に捉えていた。
黒髪で、金の瞳を持つ青年は直ぐに執事によって取り押さえられ、組み敷かれる。
(だれ……なの? ああ、でも、こんなに拒絶するのは────)
「いっ……や……」
似たような状態になったのは目を覚ましたあの日。あの名前を聞いた時以来。
ズキンッと頭が痛む。
(いま……の……が……ベネディクト・ヴィ・ブライス………なの?)
頭が真っ白になり、何も考えられない。アンジェリカはパニックになっていた。
カタカタと震え、その場から動けず、ただただ喉をせりあがってくるものを抑え込む。
「あ、うぁ……っイヤァっ!」
思わず、ゆっくり伸びてきた手さえも跳ね除けてしまった。
「え、エディス……あ、ごめ……なさ」
己が叩いた手が誰なのか分かり、ショックと情けなさ。感情の制御ができずに涙を零し始める。
「──大丈夫です。落ち着いてください」
優しく、包み込むように、落ち着いた声が降ってくる。
「エディ……」
ぽろぽろと何故か涙が溢れ、エディスの服を濡らしていく。
「はいお嬢さま。私だけを見てくださいませ」
エディスは微笑み、アンジェリカを強く抱きしめる。
強ばった身体から力が抜けていく。
「お部屋に戻りましょう」
「…………う……ん」
しばらくしてゆっくり頷いた。まだふらつくアンジェリカのために、他の使用人が車椅子を運んでくる。
エディスは階下が見えないよう自身が壁になり、もう一人の侍女が車椅子を引く。
「エディ、わたし……本を……読みたいわ」
精一杯何も無かったかのようにアンジェリカは自分自身を取り繕う。
「だけど……ちょっと無理みたい。横になって……休み……たい」
青白くなりながら自室に着いて、エディスの裾を引っ張った。
沼に浸っているかのような。酷く、体が重い。
「ええ時間は沢山ありますから。休んでからにしましょう」
寝台に自分の体を沈める。
「よわ……くて……ごめんね。エディスのこと……区別付けられなくて……叩い……ちゃったわ」
アンジェリカはエディスの手を取る。
女性は大丈夫なはずなのに。助けてくれようとしたのに。パニックになった自分のせいで、彼女の手は赤くなっていた。
「気にしないでください。それよりもお顔色が悪いです。少しの間お眠りを」
「うん」
起こった出来事を拒絶するように、瞳を閉じるだけでアンジェリカは眠りに身をゆだねた。




